秀吉が小田原攻めの際、立花宗茂を西国無双の武将と称え、諸大名の前で東国無双の武将として家康の家臣、本多平八郎忠勝に引き合わせた(p159)という。「無双」という言葉は、この西国無双からきているのだろう。そして、本書では98ページで作者は千代にこう語らせている。「お前様は西国無双の武将にございます。必ずや返り咲いて、誰にも負けぬ無双の花を咲かせてくださりませ」
本書のタイトルは、ここからとられていると思った。
話は慶長5年(1600)10月から始まる。西軍に味方した宗茂が、関ヶ原の敗報後、柳川城に戻ってくる。それは、押し寄せてくる加藤、黒田の兵との戦いになるはずだった。その帰路、宗茂は宮永村の居館に住む妻・千代を訪ねる。千代が口にした「立花の義」は、宗茂にこれまでの歳月を思い起こさせる言葉になる。「立花の義とは、裏切らぬということでございます」というかつての千代の言葉だ。今、千代は太閤亡き後の豊臣家の乱れと関わらずに立てるのが立花の義だと語る。
宗茂の回想は、秀吉の九州征伐の時の手勢での島津勢追撃、朝鮮での戦い、伏見城での屋敷拝領に及ぶ。伏見での真田信繁との出会いが、この作品では一つの軸になっていく。伏見では宗茂と信繁の屋敷が隣り合う形になったのだ。そして宗茂と信繁は同年齢でもあった。一国の大名として活躍する宗茂に対し、信繁は上杉家に続き豊臣家への人質という立場で過ごす。その信繁が「真田の義」とは生き抜くことだと語られる。
伏見屋敷を拝領後、細川藤高を介して秀吉の意だとのことで、八千子を側室とすることになる。また、宗茂が朝鮮に渡海して戦をしている時、他の大名の奥方と一緒に、名護屋の秀吉の許に千代も呼び出される。このときの経緯をきっかけに、千代が宮永村の居館に住まいを移すという行動が彼女らしい。それを宗茂が自分の問題として解釈するのもおもしろいところだ。
柳川城に戻った宗茂は、加藤・黒田よりも先に鍋島直茂から攻撃を受けることになる。そこに加藤勢が加わることになる。宗茂は立花の義を立てるという基準での行動を取り始める。「これ以上、家臣たちを死なせるわけには参らぬ」という原点からの宗茂の行動である。そこから、宗茂には徳川への異心はないという、己の立場、立花の義を貫くための苦難の歩みが始まるのだ。
本書は、加藤・黒田に降伏し、加藤清正の庇護を受け肥後国高瀬に仮寓する境遇から、徳川秀忠の信認を得て、柳川城に大名として返り咲くまでのプロセスを辿っていく。そこに貫かれるのが「立花の義」である。本書に描かれたその足跡を年表風に要約してみる。その具体的展開プロセスこそが宗茂の生き様である。本書を読み、宗茂、千代の思いと行動を味わってほしい。
慶長5年(1600)10月25日 宗茂と東軍の和睦成立
同年 11月 島津攻めの先鋒となる
同年 12月 大坂にて本領安堵の沙汰待ちをするが認められない
加藤清正の庇護下で仮寓生活
慶長6年(1601)7月 京に上り、徳川家康との面談機会を待ち続ける
慶長7年(1602)5月 長宗我部盛親と真田信繁の接近。
同年8月 家康の母、於大の方の死去。葬儀の日の密かな影働き
同年11月 千代の死がもたらされる
慶長8年(1603)3月 江戸に下り、己の意志を示す。「それが立花の戦いぞ」
慶長11年(1606)江戸城に召し出され、将軍秀忠に拝謁
大番頭5000石での召し抱え。間もなく奥州南郷に1万石を得る。
慶長15年(1610)3万石に加増。南郷という立地が一種の試金石となる。
慶長19年(1614)7月 大坂冬の陣の始まり。秀忠に従う。
慶長20年(1615)5月 大坂夏の陣
元和2年(1616)2月 大御所家康の容態悪化。宗茂は江戸城大手門守備を命じられる
元和7年(1621)2月 筑後柳川11万石に再封され、柳川城受け取りに九州に赴く
元和9年(1623)4月 柳川に下国中に、八千子急逝。江戸からの報せが届く
寛永15年(1638)2月 島原の乱。原城を囲む立花陣営に宗茂着陣
寛永19年(1642) 江戸在府にて没す。享年76歳
この軌跡の中で、やはり前半の忍従・雌伏時期の処し方、そして大坂夏の陣・冬の陣での宗茂の思考と行動が読ませどころである。立花の義のありかたが鮮やかに描かれていく。そして、この大坂の戦の中で、真田信繁の真田の義にスポットライトをあてている。宗茂との関わり、家康のあり様が描かれている。もう一つ、伊達正宗と宗茂の駆け引きが幾度か書き込まれていく。正宗と宗茂の武将として力量を端的に表す場面のように思う。
ここに著者に本書のサブテーマがあるのではないかという気がする。
それは、こんな言葉が随所に出てくるからだ。誰が発した言葉かはご推測いただけるだろう。
*わしは汚い手を使うてでも天下を取らねばならぬと意を決したのじゃ。跡を継ぐ者にかような戦をしたいと思わせぬようにわしは手を尽くす。秀忠を跡継ぎにいたしたのも、戦が下手だからじゃ。秀忠は無用の戦をせぬであろうゆえな。 p205
立花はひとを裏切らぬという義を立てていると聞くが、泰平の世を作るためには、手を汚すことを恐れぬが徳川ぞ。 p205
*わが行く手に崩れかかる者は、味方であっても打ち払うのが伊達の軍法でござる。p211
*大御所様はそれがしに泰平の世の画竜点睛となれ、と仰せになられた。伊達殿は世に独眼竜と言われており申す。それがしとともに泰平を開く竜の両眼となるのはいかがか。
この後、われらが咲かせる花はそれしかないか。
さようでござる。 p233
ここに、本多正信が宗茂に語る言葉も付け加えておきたい。ここにも一武将の生き様がある。
*徳川に帰参がかなった時、ひとつだけ胸に誓ったことがござる。
二度と大御所さまを裏切らぬとおのれに誓い申した。
それがしは謀によって大御所様をお助けして参った。たとえどのように謗られようとも大御所様のためにならぬ者には容赦いたさなんだ。・・・・それゆえ、他の者をいかに裏切ろうと平気でござった。かような者の心根をわかってもらおうなどとおこがましいことは考えており申さぬ。ただ、立花殿だけには・・・・ひとを裏切らぬという義を守られておられる立花殿に、かようなる者もおると知っていただきたいと存じたまでのこと。 p237-238
宗茂に柳川藩再封が決まり、柳川に赴くことから、菊子という公家の姫を同行させることになる。八千子からの頼み事なのだが、この菊子が深い縁の糸が結ばれている存在なのだ。菊子に様々な人間関係の色合いが重ねられていることが興味深い。本書で味わっていただきたいエピソードでもある。
最後に、別の視点で印象深い文を引用しておきたい。
*武門には勝敗はつきもの。負けた時にどう生きるかが何より大事じゃ。 p85
*たいがいの者はさように生きたいと願うても、力が及ばず許されぬのです。されど、殿にはその力がおありでございます。自らが望む生き方をしていただきとう存じます。 p93
*ひとはそれぞれ考えがあって生き様を決めておる。ひとがどのような道を歩もうと、とやかくは言えぬ。 p121
ご一読ありがとうございます。
追記
山本兼一著『まりしてん千代姫』(PHP)の読後印象を以前に掲載している。
この作品は、千代を主軸にしているが、柳川城に転じる前の段階にストーリー展開の重点が置かれた作品である。
『無双の花』は宗茂を主軸にしているが、柳川城を退去せざるを得なくなって以降の時代、柳川藩に大名として返り咲くまでの人生後半の段階を焦点にストーリーが展開される。
両者を併読すると、一層感興が高まることと思う。
千代の最後について、両著者の取りあげ方が異なる点も興味深くかつおもしろい。
本書の感想とは外れるが、付記しておきたい。
本書に関連する語句をネット検索してみた。その一覧をまとめておきたい。
立花家史料館 ホームページ
鉄皺革包月輪文最上胴具足
金甲 → 金箔押桃形兜
立花宗茂 :ウィキペディア
立花ぎん千代 :ウィキペディア
千代 :「立花家17代が語る立花宗茂と柳川」
柳川城 :ウィキペディア
柳川城(柳河明証図会より) :「SHOFUKU BIC SITE」
筑前・宝満城 :「城郭放浪記」
徳川秀忠 :ウィキペディア
本多忠勝 :ウィキペディア
伊達正宗 :ウィキペディア
伊達正宗 :「武士の館」
本多正信 :ウィキペディア
真田信繁 :ウィキペディア
真田幸村(信繁) :「日本歴史 武将人物伝」
長宗我部盛親 :ウィキペディア
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
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ネットで上掲の関連語句などを検索していて、偶然著者・葉室氏の語る記事に出会った。著者の思いが伝わってくる。
自著を語る 私にとって男の理想像 葉室 麟 :「本の話WEB」
徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『冬姫』 集英社
『螢草』 双葉社
『この君なくば』 朝日新聞出版
『星火瞬く』 講談社
『花や散るらん』 文藝春秋
===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新1版
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
本書のタイトルは、ここからとられていると思った。
話は慶長5年(1600)10月から始まる。西軍に味方した宗茂が、関ヶ原の敗報後、柳川城に戻ってくる。それは、押し寄せてくる加藤、黒田の兵との戦いになるはずだった。その帰路、宗茂は宮永村の居館に住む妻・千代を訪ねる。千代が口にした「立花の義」は、宗茂にこれまでの歳月を思い起こさせる言葉になる。「立花の義とは、裏切らぬということでございます」というかつての千代の言葉だ。今、千代は太閤亡き後の豊臣家の乱れと関わらずに立てるのが立花の義だと語る。
宗茂の回想は、秀吉の九州征伐の時の手勢での島津勢追撃、朝鮮での戦い、伏見城での屋敷拝領に及ぶ。伏見での真田信繁との出会いが、この作品では一つの軸になっていく。伏見では宗茂と信繁の屋敷が隣り合う形になったのだ。そして宗茂と信繁は同年齢でもあった。一国の大名として活躍する宗茂に対し、信繁は上杉家に続き豊臣家への人質という立場で過ごす。その信繁が「真田の義」とは生き抜くことだと語られる。
伏見屋敷を拝領後、細川藤高を介して秀吉の意だとのことで、八千子を側室とすることになる。また、宗茂が朝鮮に渡海して戦をしている時、他の大名の奥方と一緒に、名護屋の秀吉の許に千代も呼び出される。このときの経緯をきっかけに、千代が宮永村の居館に住まいを移すという行動が彼女らしい。それを宗茂が自分の問題として解釈するのもおもしろいところだ。
柳川城に戻った宗茂は、加藤・黒田よりも先に鍋島直茂から攻撃を受けることになる。そこに加藤勢が加わることになる。宗茂は立花の義を立てるという基準での行動を取り始める。「これ以上、家臣たちを死なせるわけには参らぬ」という原点からの宗茂の行動である。そこから、宗茂には徳川への異心はないという、己の立場、立花の義を貫くための苦難の歩みが始まるのだ。
本書は、加藤・黒田に降伏し、加藤清正の庇護を受け肥後国高瀬に仮寓する境遇から、徳川秀忠の信認を得て、柳川城に大名として返り咲くまでのプロセスを辿っていく。そこに貫かれるのが「立花の義」である。本書に描かれたその足跡を年表風に要約してみる。その具体的展開プロセスこそが宗茂の生き様である。本書を読み、宗茂、千代の思いと行動を味わってほしい。
慶長5年(1600)10月25日 宗茂と東軍の和睦成立
同年 11月 島津攻めの先鋒となる
同年 12月 大坂にて本領安堵の沙汰待ちをするが認められない
加藤清正の庇護下で仮寓生活
慶長6年(1601)7月 京に上り、徳川家康との面談機会を待ち続ける
慶長7年(1602)5月 長宗我部盛親と真田信繁の接近。
同年8月 家康の母、於大の方の死去。葬儀の日の密かな影働き
同年11月 千代の死がもたらされる
慶長8年(1603)3月 江戸に下り、己の意志を示す。「それが立花の戦いぞ」
慶長11年(1606)江戸城に召し出され、将軍秀忠に拝謁
大番頭5000石での召し抱え。間もなく奥州南郷に1万石を得る。
慶長15年(1610)3万石に加増。南郷という立地が一種の試金石となる。
慶長19年(1614)7月 大坂冬の陣の始まり。秀忠に従う。
慶長20年(1615)5月 大坂夏の陣
元和2年(1616)2月 大御所家康の容態悪化。宗茂は江戸城大手門守備を命じられる
元和7年(1621)2月 筑後柳川11万石に再封され、柳川城受け取りに九州に赴く
元和9年(1623)4月 柳川に下国中に、八千子急逝。江戸からの報せが届く
寛永15年(1638)2月 島原の乱。原城を囲む立花陣営に宗茂着陣
寛永19年(1642) 江戸在府にて没す。享年76歳
この軌跡の中で、やはり前半の忍従・雌伏時期の処し方、そして大坂夏の陣・冬の陣での宗茂の思考と行動が読ませどころである。立花の義のありかたが鮮やかに描かれていく。そして、この大坂の戦の中で、真田信繁の真田の義にスポットライトをあてている。宗茂との関わり、家康のあり様が描かれている。もう一つ、伊達正宗と宗茂の駆け引きが幾度か書き込まれていく。正宗と宗茂の武将として力量を端的に表す場面のように思う。
ここに著者に本書のサブテーマがあるのではないかという気がする。
それは、こんな言葉が随所に出てくるからだ。誰が発した言葉かはご推測いただけるだろう。
*わしは汚い手を使うてでも天下を取らねばならぬと意を決したのじゃ。跡を継ぐ者にかような戦をしたいと思わせぬようにわしは手を尽くす。秀忠を跡継ぎにいたしたのも、戦が下手だからじゃ。秀忠は無用の戦をせぬであろうゆえな。 p205
立花はひとを裏切らぬという義を立てていると聞くが、泰平の世を作るためには、手を汚すことを恐れぬが徳川ぞ。 p205
*わが行く手に崩れかかる者は、味方であっても打ち払うのが伊達の軍法でござる。p211
*大御所様はそれがしに泰平の世の画竜点睛となれ、と仰せになられた。伊達殿は世に独眼竜と言われており申す。それがしとともに泰平を開く竜の両眼となるのはいかがか。
この後、われらが咲かせる花はそれしかないか。
さようでござる。 p233
ここに、本多正信が宗茂に語る言葉も付け加えておきたい。ここにも一武将の生き様がある。
*徳川に帰参がかなった時、ひとつだけ胸に誓ったことがござる。
二度と大御所さまを裏切らぬとおのれに誓い申した。
それがしは謀によって大御所様をお助けして参った。たとえどのように謗られようとも大御所様のためにならぬ者には容赦いたさなんだ。・・・・それゆえ、他の者をいかに裏切ろうと平気でござった。かような者の心根をわかってもらおうなどとおこがましいことは考えており申さぬ。ただ、立花殿だけには・・・・ひとを裏切らぬという義を守られておられる立花殿に、かようなる者もおると知っていただきたいと存じたまでのこと。 p237-238
宗茂に柳川藩再封が決まり、柳川に赴くことから、菊子という公家の姫を同行させることになる。八千子からの頼み事なのだが、この菊子が深い縁の糸が結ばれている存在なのだ。菊子に様々な人間関係の色合いが重ねられていることが興味深い。本書で味わっていただきたいエピソードでもある。
最後に、別の視点で印象深い文を引用しておきたい。
*武門には勝敗はつきもの。負けた時にどう生きるかが何より大事じゃ。 p85
*たいがいの者はさように生きたいと願うても、力が及ばず許されぬのです。されど、殿にはその力がおありでございます。自らが望む生き方をしていただきとう存じます。 p93
*ひとはそれぞれ考えがあって生き様を決めておる。ひとがどのような道を歩もうと、とやかくは言えぬ。 p121
ご一読ありがとうございます。
追記
山本兼一著『まりしてん千代姫』(PHP)の読後印象を以前に掲載している。
この作品は、千代を主軸にしているが、柳川城に転じる前の段階にストーリー展開の重点が置かれた作品である。
『無双の花』は宗茂を主軸にしているが、柳川城を退去せざるを得なくなって以降の時代、柳川藩に大名として返り咲くまでの人生後半の段階を焦点にストーリーが展開される。
両者を併読すると、一層感興が高まることと思う。
千代の最後について、両著者の取りあげ方が異なる点も興味深くかつおもしろい。
本書の感想とは外れるが、付記しておきたい。
本書に関連する語句をネット検索してみた。その一覧をまとめておきたい。
立花家史料館 ホームページ
鉄皺革包月輪文最上胴具足
金甲 → 金箔押桃形兜
立花宗茂 :ウィキペディア
立花ぎん千代 :ウィキペディア
千代 :「立花家17代が語る立花宗茂と柳川」
柳川城 :ウィキペディア
柳川城(柳河明証図会より) :「SHOFUKU BIC SITE」
筑前・宝満城 :「城郭放浪記」
徳川秀忠 :ウィキペディア
本多忠勝 :ウィキペディア
伊達正宗 :ウィキペディア
伊達正宗 :「武士の館」
本多正信 :ウィキペディア
真田信繁 :ウィキペディア
真田幸村(信繁) :「日本歴史 武将人物伝」
長宗我部盛親 :ウィキペディア
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ネットで上掲の関連語句などを検索していて、偶然著者・葉室氏の語る記事に出会った。著者の思いが伝わってくる。
自著を語る 私にとって男の理想像 葉室 麟 :「本の話WEB」
徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『冬姫』 集英社
『螢草』 双葉社
『この君なくば』 朝日新聞出版
『星火瞬く』 講談社
『花や散るらん』 文藝春秋
===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新1版
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