高校までの歴史で鎌倉時代について学んだはずだが、源実朝について記憶していたのは我ながらわずかである。源家の三代将軍となったが短命だったこと、源家直系としては三代限りの最後の将軍でその後は北条家の執権政治が確立したこと、そして実朝は和歌を好み「金槐和歌集」を世に残したということ位だった。つけ加えれば、北条政子という女傑が北条家の執権政治の基盤作りの要になったということである。
高校時代の教科書は処分してしまい手許にない。社会人になって以降に購入した歴史書は様々あるが、大半は書架に眠っている。今、教科書的テキストの類いを改めて取り出してみた。一時期有名になった『検定不合格日本史』(家永三郎著・三一書房)は、「・・・頼朝の子で将軍となった頼家・実朝は相次いで非業の死を遂げ、源氏の嫡流は絶えた。北条氏は、初め藤原氏を、のちには皇族を京都から迎えて将軍とし、幕府の政治をその意のままに行った。将軍はもはや名まえだけの存在となり・・・」(p65)「鎌倉の将軍実朝は万葉集の調べを学びとり、個性ある歌をよんだ。」(p75)わずかこれだけである。「非業の死」がどんなものかは触れられていない。
もう一冊は、『詳説日本史研究』(五味・高埜・鳥海編、山川出版社)だ。こちらは歴史の学習参考書として執筆されたもの。「1203(建仁3)年、頼家が重病に倒れると、時政は政子とはかり、頼家の子一幡と弟千幡を後継者に立てた。将軍の権限を2分割し、2人に継承させようとしたのである。頼家と一幡の外祖父比企能員は反発し、時政を討とうと計画したが、逆に能員は北条氏に誘殺され、武蔵国の豪族比企一族も一幡もろとも滅ぼされた。頼家は伊豆の修禅寺に押し込められ、千幡が将軍となって源実朝と名乗った」(p136)、「1219(承久元)年正月、実朝は頼家の遺児の公暁によって、右大臣就任の式典の途中、鶴岡八幡宮の社頭で暗殺されてしまう。公暁が誰に操られていたのかは、北条氏説、三浦氏説があり定かではない。結局公暁も殺されて、源氏の正統は3代27年で断絶した」(p137)、「歌を詠むことは教養の第一であったから、武士のなかにも歌を学ぶ者が現れた。定家に師事して万葉調の歌を詠み、歌集『金槐和歌集』を残した将軍実朝はその代表である」(p161)こちらは参考書なので少し詳しく書かれている。それでも通史としてこれだけである。
本作品は「雪の日の惨劇」(第1章)から始まる。著者は「建保7年(1219)正月27日鎌倉に京から権大納言坊門忠信、権中納言西園寺実氏、・・・・の5人の使者が来ていた」と2ページめに記している。この年は、日本年号一覧表によれば、西暦1219年4月12日に建保から承久に改元されている。つまり、著者の記述の方がより時代に忠実な記載といえる。学習参考書は西暦を主にしているので、期間の長い方で元号を表記したのだろう。
この作品は、鶴岡八幡宮で酉ノ刻からの儀式が終わり、実朝が石段を降りていったところで、「別当阿闍梨の公暁じゃ」と叫んだ者に斬殺される。そして公暁と一味の僧に実朝の首が持ち去られるという状況から事態が展開していくということになる。公暁が実朝を暗殺したという事実、実朝の首が闇の中に一旦消え去った瞬間からこのストーリーが始まるのだ。つまり、死者実朝が鎌倉幕府の中心だったことをその首が象徴するものとして登場する。形は実朝の首が主人公である。この首が誰の手中に渡り、実朝亡き後の政権を正統に継承していくことを主張できるのか? 後に残された様々な集団が、己の立場、視点から、実朝の首に関わっていく。己の立場または権力・領地の防御、維持、拡大、奪取、あるいは政権そのものの争奪という渦の中に様々な人々が関わり、必然的に巻き込まれていく。
著者は「文庫版あとがき」を付している。歴史書『吾妻鏡』の記載を私は確認してはいないが、「御首の在所を知らず」と記されているそうだ。右大臣拝賀式の夜、甥の公暁が実朝を暗殺する。その首が忽然と消えた。奪われた首が見つかったという記述はないという。「御鬢をもって御頭に用ひ、棺に入れたてまつる」つまり首の代わりに棺に髪を入れて葬儀を実施したと記す。つまり、不明瞭な部分、闇に隠された部分が多すぎる。
それは逆に、著者にとっては史実の断片を巧みに織り込みながら、歴史ミステリーとしての構想を羽ばたかせる絶好の素材となる。この作品はそんな切り口からの小説、フィクションである。
上掲の歴史の参考書は、公暁の行動の背景にいて操っていたのは誰かについて、北条氏説、三浦氏説を上げながら定かでないとしている。著者はこの二説にも「文庫版あとがき」で疑問を呈している。そして、この作品ではこれら二説の可能性も織り込みながら、さらに違った仮説を持ち込み歴史ミステリーを展開している。読後に上記の参考書やネット検索情報を対比して理解できた。実に巧妙にストーリーを組み立てていると思う。『吾妻鏡』には、実朝には予知能力があったと思わせる記述がしばしば出てくるようだ。著者は実朝が予知能力を持って、すべてが見えていたのではないか、という視点をうまく取りこんでストーリーを展開している。
本書にはいくつもの集団あるいは人物が登場しストーリーを複雑に織りなしていく。省略した人物もいるが、列挙してみる。
まず「実朝の首」そのもの。
実朝自身のことは、誰かの思い、考えとして語られる。
京の使者: 右大臣任官のため鎌倉に派遣されてきた5人の公家
源頼茂: 使者に随行してきた人物。摂津源氏の末裔。殿上人の一人として儀式に出席
摂津源氏が清和源氏の嫡流との誇りを抱き、再興の野心と秘策を胸中に秘める。
公暁: 頼家の子。北条政子の命で近江の園城寺から戻り鶴岡八幡宮の別当阿闍梨に。
実朝を親の仇とみなし暗殺する。背後に操り人の存在?
実朝暗殺後三浦館に入ろうとするがそこで射殺される。長尾定景が公暁の首を取る
弥源太: 公暁の乳母子。公暁に従い実朝暗殺の場に居た。実朝の首を運ぶ役を担う。
三浦一族の一人でもある弥源太は徐々にその立場を変化させてていく。
北条政子: 実朝の死を母として受けとめる一方で、幕府・北条家の存続の強化を図る。
武家社会、朝廷、世間全体を大局的冷徹に捕らえていて尼将軍の名にふさわしい。
北条義時: 北条一族の長。幕府の権力掌握の欲望を抱く。一旦は公暁を操る人。
義時は儀式の時、己の役割を実朝側近の源仲章に譲る。仲章は公暁に斬首される。
三浦義村: 三浦一族の長。実朝の危険性を認知。三浦一族存続優先を主体に思考する。
実朝の首を失ったのは義村の失態でもある。
武常晴: 弥源太が砂浜に一旦埋めた首を見つけて、持ち去る。三浦の郎党の一人。
朝夷名三郎: 和田合戦で討ち死にした和田義盛の三男。その武勇は伝説となっている。
武常晴が実朝の首を三郎の許、廃れ館(もと波多野忠綱一族の館)に持参する。
和田党のリーダーの一人とみられている人物。本作品で活躍する一人。
和田朝盛: 和田義盛の嫡孫。実朝の寵臣だった。和田合戦直前に出家し実阿弥と称す。
朝夷名三郎の許に来る。和田党の統領。実朝の首を擁して北条義時を討つ所存。
愛甲党: 弓の名人と言われた愛甲三郎が鍛えた弓の精兵ぞろい。三郎に味方する。
後鳥羽上皇: 鎌倉幕府・北条一族の政治に対して対抗意識を持つ。政権奪還を狙う。
もと盗賊の交野八郎を鎌倉に送り込む。
藤原忠綱: 京からの弔問使。後鳥羽上皇の意を受けた偵察者。
鎌倉に親王を次期将軍として下向を希望する北条家をじらす役割を併せて担う。
亀菊(伊賀局): 後鳥羽上皇の後宮の新参で、上皇の寵愛を受ける。もと遊女という。
上皇に与えられた摂津国の2つの荘園の地頭停止の要求のために忠綱に同行する。
そこに鎌倉幕府の制度を崩したい上皇の意向がある。暗に親王下向と一対の扱い。
鞠子(まりこ):政子の命で実朝の正室の猶子に。公暁の妹。兄の罪滅ぼしを考える。
実朝亡き後、鞠子は鎌倉幕府つまり北条一族存続のために政子から使命を受ける。
公暁を使嗾して実朝を殺させた黒幕は誰なのかという究明、そのミステリーの解読を主軸にストーリーが展開する。だが、その究明は、三代将軍実朝の死により鎌倉幕府の政治基盤がどうなるのかという政治体制の問題であり、関東の諸豪族の複雑な勢力関係、直近までの合戦との関わりがある。その渦中で北条一族が政権基盤を確固たるものにしようとする有り様に関わっていく。それが一方で反鎌倉幕府といえる京の朝廷、力量を兼ね備えていた後鳥羽上皇との確執にどう対応していくかでもある。
まさに「実朝の首」が一連のつながりの中での陰の主人公となっているのだ。
私は最後にこのあとがきを読んだのだ。しかし「文庫版あとがき」をまず一読されて、著者がたぶん作品の構想以前に前提として感じた疑問点、あるいは着想の芽を感じ取ってから、この作品を読む方が一層興味が増すかもしれないな・・・と思う。
本書の最後は、次の文で締めくくられている。
「鎌倉は滅亡にいたるまで、武家政権でありながら、京から皇族将軍を迎え続ける。
将軍の座をめぐっての争乱を無くしたいという、実朝の夢がかなったということになるのかもしれない。」
一方、「文庫版あとがき」には、こんな文を著者は記す。
「実朝には母、北条政子への複雑な思いがあっただろう。『実朝の首』が求めたのは『愛』だった、そんな気がしている。」
政治的な観点では、実朝の死が生み出したのが北条氏による執権政治の確立だった。実朝の首が何処にあるか歴史書が語らないことから、この作品が生み出された。ネット検索してみると、実朝の首塚は伝承として存在し、供養されている。これまた興味深い。
通史は短命将軍・実朝の非業の死だけを記す。だが、実朝は「金槐和歌集」を世に残したことで、我々が手にとれるところで不朽の名をとどめている。武家、政治の中枢の人としてではなく、歌人として生きたかった人ではないだろうか。作品とは直接関係のない印象だが・・・・・。
著者が作品の中で取り上げている実朝の詠んだ歌を最後に記しておこう。
武者の矢並つくろふ籠手の上に霰たばしる那須の篠原 金槐和歌集
山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも 新古今和歌集
「文庫版へのあとがき」に挙げている実朝の和歌も記しておこう。
もの言はぬ四方のけだものすらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ
ご一読ありがとうございます。
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本書と関連する事項を違う角度から眺めるために検索してみた。一覧にしておきたい。
鎌倉幕府 :ウィキペディア
かまくらばくふ(鎌倉幕府) :「Kidsnet」
中学校の歴史 1192は違うの?鎌倉幕府成立 :「朝日新聞」
源実朝 :ウィキペディア
源実朝 :ウィキクォート
実朝さんの二つの供養塔が語るもの・・ :「玉川学園・玉川大学」
頼朝の息子たち 頼家・実朝 :「鎌倉手帳」
源実朝の暗殺 :「鎌倉手帳」
源実朝公御首塚 :「秦野市観光協会」
北条政子 :ウィキペディア
北条政子 :「知識の泉」
北条義時 :ウィキペディア
北条義時 :「歴史クラブ」
和田合戦 :ウィキペディア
和田合戦 相模原の歴史シリーズ :「相模原郷土の歴史研究会」
三浦義村 :ウィキペディア
和田朝盛 :ウィキペディア
朝比奈義秀 :ウィキペディア
本朝無双の豪傑 朝比奈(朝夷奈)三郎義秀 竹村紘一氏
金槐集_実朝 データベース:「国際日本文化研究センター」
実朝.com ホームページ
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その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新2版
高校時代の教科書は処分してしまい手許にない。社会人になって以降に購入した歴史書は様々あるが、大半は書架に眠っている。今、教科書的テキストの類いを改めて取り出してみた。一時期有名になった『検定不合格日本史』(家永三郎著・三一書房)は、「・・・頼朝の子で将軍となった頼家・実朝は相次いで非業の死を遂げ、源氏の嫡流は絶えた。北条氏は、初め藤原氏を、のちには皇族を京都から迎えて将軍とし、幕府の政治をその意のままに行った。将軍はもはや名まえだけの存在となり・・・」(p65)「鎌倉の将軍実朝は万葉集の調べを学びとり、個性ある歌をよんだ。」(p75)わずかこれだけである。「非業の死」がどんなものかは触れられていない。
もう一冊は、『詳説日本史研究』(五味・高埜・鳥海編、山川出版社)だ。こちらは歴史の学習参考書として執筆されたもの。「1203(建仁3)年、頼家が重病に倒れると、時政は政子とはかり、頼家の子一幡と弟千幡を後継者に立てた。将軍の権限を2分割し、2人に継承させようとしたのである。頼家と一幡の外祖父比企能員は反発し、時政を討とうと計画したが、逆に能員は北条氏に誘殺され、武蔵国の豪族比企一族も一幡もろとも滅ぼされた。頼家は伊豆の修禅寺に押し込められ、千幡が将軍となって源実朝と名乗った」(p136)、「1219(承久元)年正月、実朝は頼家の遺児の公暁によって、右大臣就任の式典の途中、鶴岡八幡宮の社頭で暗殺されてしまう。公暁が誰に操られていたのかは、北条氏説、三浦氏説があり定かではない。結局公暁も殺されて、源氏の正統は3代27年で断絶した」(p137)、「歌を詠むことは教養の第一であったから、武士のなかにも歌を学ぶ者が現れた。定家に師事して万葉調の歌を詠み、歌集『金槐和歌集』を残した将軍実朝はその代表である」(p161)こちらは参考書なので少し詳しく書かれている。それでも通史としてこれだけである。
本作品は「雪の日の惨劇」(第1章)から始まる。著者は「建保7年(1219)正月27日鎌倉に京から権大納言坊門忠信、権中納言西園寺実氏、・・・・の5人の使者が来ていた」と2ページめに記している。この年は、日本年号一覧表によれば、西暦1219年4月12日に建保から承久に改元されている。つまり、著者の記述の方がより時代に忠実な記載といえる。学習参考書は西暦を主にしているので、期間の長い方で元号を表記したのだろう。
この作品は、鶴岡八幡宮で酉ノ刻からの儀式が終わり、実朝が石段を降りていったところで、「別当阿闍梨の公暁じゃ」と叫んだ者に斬殺される。そして公暁と一味の僧に実朝の首が持ち去られるという状況から事態が展開していくということになる。公暁が実朝を暗殺したという事実、実朝の首が闇の中に一旦消え去った瞬間からこのストーリーが始まるのだ。つまり、死者実朝が鎌倉幕府の中心だったことをその首が象徴するものとして登場する。形は実朝の首が主人公である。この首が誰の手中に渡り、実朝亡き後の政権を正統に継承していくことを主張できるのか? 後に残された様々な集団が、己の立場、視点から、実朝の首に関わっていく。己の立場または権力・領地の防御、維持、拡大、奪取、あるいは政権そのものの争奪という渦の中に様々な人々が関わり、必然的に巻き込まれていく。
著者は「文庫版あとがき」を付している。歴史書『吾妻鏡』の記載を私は確認してはいないが、「御首の在所を知らず」と記されているそうだ。右大臣拝賀式の夜、甥の公暁が実朝を暗殺する。その首が忽然と消えた。奪われた首が見つかったという記述はないという。「御鬢をもって御頭に用ひ、棺に入れたてまつる」つまり首の代わりに棺に髪を入れて葬儀を実施したと記す。つまり、不明瞭な部分、闇に隠された部分が多すぎる。
それは逆に、著者にとっては史実の断片を巧みに織り込みながら、歴史ミステリーとしての構想を羽ばたかせる絶好の素材となる。この作品はそんな切り口からの小説、フィクションである。
上掲の歴史の参考書は、公暁の行動の背景にいて操っていたのは誰かについて、北条氏説、三浦氏説を上げながら定かでないとしている。著者はこの二説にも「文庫版あとがき」で疑問を呈している。そして、この作品ではこれら二説の可能性も織り込みながら、さらに違った仮説を持ち込み歴史ミステリーを展開している。読後に上記の参考書やネット検索情報を対比して理解できた。実に巧妙にストーリーを組み立てていると思う。『吾妻鏡』には、実朝には予知能力があったと思わせる記述がしばしば出てくるようだ。著者は実朝が予知能力を持って、すべてが見えていたのではないか、という視点をうまく取りこんでストーリーを展開している。
本書にはいくつもの集団あるいは人物が登場しストーリーを複雑に織りなしていく。省略した人物もいるが、列挙してみる。
まず「実朝の首」そのもの。
実朝自身のことは、誰かの思い、考えとして語られる。
京の使者: 右大臣任官のため鎌倉に派遣されてきた5人の公家
源頼茂: 使者に随行してきた人物。摂津源氏の末裔。殿上人の一人として儀式に出席
摂津源氏が清和源氏の嫡流との誇りを抱き、再興の野心と秘策を胸中に秘める。
公暁: 頼家の子。北条政子の命で近江の園城寺から戻り鶴岡八幡宮の別当阿闍梨に。
実朝を親の仇とみなし暗殺する。背後に操り人の存在?
実朝暗殺後三浦館に入ろうとするがそこで射殺される。長尾定景が公暁の首を取る
弥源太: 公暁の乳母子。公暁に従い実朝暗殺の場に居た。実朝の首を運ぶ役を担う。
三浦一族の一人でもある弥源太は徐々にその立場を変化させてていく。
北条政子: 実朝の死を母として受けとめる一方で、幕府・北条家の存続の強化を図る。
武家社会、朝廷、世間全体を大局的冷徹に捕らえていて尼将軍の名にふさわしい。
北条義時: 北条一族の長。幕府の権力掌握の欲望を抱く。一旦は公暁を操る人。
義時は儀式の時、己の役割を実朝側近の源仲章に譲る。仲章は公暁に斬首される。
三浦義村: 三浦一族の長。実朝の危険性を認知。三浦一族存続優先を主体に思考する。
実朝の首を失ったのは義村の失態でもある。
武常晴: 弥源太が砂浜に一旦埋めた首を見つけて、持ち去る。三浦の郎党の一人。
朝夷名三郎: 和田合戦で討ち死にした和田義盛の三男。その武勇は伝説となっている。
武常晴が実朝の首を三郎の許、廃れ館(もと波多野忠綱一族の館)に持参する。
和田党のリーダーの一人とみられている人物。本作品で活躍する一人。
和田朝盛: 和田義盛の嫡孫。実朝の寵臣だった。和田合戦直前に出家し実阿弥と称す。
朝夷名三郎の許に来る。和田党の統領。実朝の首を擁して北条義時を討つ所存。
愛甲党: 弓の名人と言われた愛甲三郎が鍛えた弓の精兵ぞろい。三郎に味方する。
後鳥羽上皇: 鎌倉幕府・北条一族の政治に対して対抗意識を持つ。政権奪還を狙う。
もと盗賊の交野八郎を鎌倉に送り込む。
藤原忠綱: 京からの弔問使。後鳥羽上皇の意を受けた偵察者。
鎌倉に親王を次期将軍として下向を希望する北条家をじらす役割を併せて担う。
亀菊(伊賀局): 後鳥羽上皇の後宮の新参で、上皇の寵愛を受ける。もと遊女という。
上皇に与えられた摂津国の2つの荘園の地頭停止の要求のために忠綱に同行する。
そこに鎌倉幕府の制度を崩したい上皇の意向がある。暗に親王下向と一対の扱い。
鞠子(まりこ):政子の命で実朝の正室の猶子に。公暁の妹。兄の罪滅ぼしを考える。
実朝亡き後、鞠子は鎌倉幕府つまり北条一族存続のために政子から使命を受ける。
公暁を使嗾して実朝を殺させた黒幕は誰なのかという究明、そのミステリーの解読を主軸にストーリーが展開する。だが、その究明は、三代将軍実朝の死により鎌倉幕府の政治基盤がどうなるのかという政治体制の問題であり、関東の諸豪族の複雑な勢力関係、直近までの合戦との関わりがある。その渦中で北条一族が政権基盤を確固たるものにしようとする有り様に関わっていく。それが一方で反鎌倉幕府といえる京の朝廷、力量を兼ね備えていた後鳥羽上皇との確執にどう対応していくかでもある。
まさに「実朝の首」が一連のつながりの中での陰の主人公となっているのだ。
私は最後にこのあとがきを読んだのだ。しかし「文庫版あとがき」をまず一読されて、著者がたぶん作品の構想以前に前提として感じた疑問点、あるいは着想の芽を感じ取ってから、この作品を読む方が一層興味が増すかもしれないな・・・と思う。
本書の最後は、次の文で締めくくられている。
「鎌倉は滅亡にいたるまで、武家政権でありながら、京から皇族将軍を迎え続ける。
将軍の座をめぐっての争乱を無くしたいという、実朝の夢がかなったということになるのかもしれない。」
一方、「文庫版あとがき」には、こんな文を著者は記す。
「実朝には母、北条政子への複雑な思いがあっただろう。『実朝の首』が求めたのは『愛』だった、そんな気がしている。」
政治的な観点では、実朝の死が生み出したのが北条氏による執権政治の確立だった。実朝の首が何処にあるか歴史書が語らないことから、この作品が生み出された。ネット検索してみると、実朝の首塚は伝承として存在し、供養されている。これまた興味深い。
通史は短命将軍・実朝の非業の死だけを記す。だが、実朝は「金槐和歌集」を世に残したことで、我々が手にとれるところで不朽の名をとどめている。武家、政治の中枢の人としてではなく、歌人として生きたかった人ではないだろうか。作品とは直接関係のない印象だが・・・・・。
著者が作品の中で取り上げている実朝の詠んだ歌を最後に記しておこう。
武者の矢並つくろふ籠手の上に霰たばしる那須の篠原 金槐和歌集
山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも 新古今和歌集
「文庫版へのあとがき」に挙げている実朝の和歌も記しておこう。
もの言はぬ四方のけだものすらだにもあはれなるかなや親の子を思ふ
ご一読ありがとうございます。
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本書と関連する事項を違う角度から眺めるために検索してみた。一覧にしておきたい。
鎌倉幕府 :ウィキペディア
かまくらばくふ(鎌倉幕府) :「Kidsnet」
中学校の歴史 1192は違うの?鎌倉幕府成立 :「朝日新聞」
源実朝 :ウィキペディア
源実朝 :ウィキクォート
実朝さんの二つの供養塔が語るもの・・ :「玉川学園・玉川大学」
頼朝の息子たち 頼家・実朝 :「鎌倉手帳」
源実朝の暗殺 :「鎌倉手帳」
源実朝公御首塚 :「秦野市観光協会」
北条政子 :ウィキペディア
北条政子 :「知識の泉」
北条義時 :ウィキペディア
北条義時 :「歴史クラブ」
和田合戦 :ウィキペディア
和田合戦 相模原の歴史シリーズ :「相模原郷土の歴史研究会」
三浦義村 :ウィキペディア
和田朝盛 :ウィキペディア
朝比奈義秀 :ウィキペディア
本朝無双の豪傑 朝比奈(朝夷奈)三郎義秀 竹村紘一氏
金槐集_実朝 データベース:「国際日本文化研究センター」
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徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
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