72年前、8月6日、8時15分、広島の上空に原子爆弾が投下され、炸裂した。「広島」が、世界の「ヒロシマ」になった瞬間である。
爆心地から7,000m、原子爆弾炸裂の2分後、広島県安佐郡古市町神田橋で、松重三男氏が撮られた写真が原爆写真が偶然撮影された最初だということを私は今、初めてこの写真集を見て知った。同様に、爆心地から6,500m、広島市の東北東約7kmの水分峡に休暇をとり友達と水泳に出かけていた当時17歳の山田精三少年が原子雲の写真を撮ったという。このことも私は初めて知った。当時中国新聞に勤める新聞少年で、カメラ好きであり雑嚢にカメラをしのばせて持っていたという偶然から撮れた最初の1枚、唯一の原子雲写真だという。原爆が炸裂した当初の写真はあまり撮られていない。現存しないのだ。
それは、なぜか。勿論当時カメラが現在の我々が思うほど普及していたわけではない。しかし、もう一つ重要な理由がある。「この広島も長崎も両方ともが軍事要塞地帯に入るわけです。当時、要塞地帯でカメラなんか持っていたら、これはすぐ憲兵に引っ張られたもの何です。それほど厳しい世の中だったわけです」(p228)という。
私は社会人になった後に、初めて広島を訪れたとき、原爆ドームと広島平和記念資料館を訪れた。そして、その展示品を眺めて、ショックを受けたことが印象深い。焼け焦げた衣服、破損し時刻がその時刻が永遠に止められた時計、飴細工のように融けてくっつき歪んだガラス瓶の塊などが、鮮烈に脳裏に焼き付いている。
現地を訪ねて見た時から含めても、写真でヒロシマを見るのは、いままで限られていた。ホンのわずかの原爆写真である。ピカドンと原爆が炸裂した後に形成された原子雲の写真、銀行の支店の階段に痕跡となった人の形の写真、当時の広島県産業奨励館の丸屋根の鉄骨が剥き出しになり焼け焦げて破壊された、いわゆる原爆ドームの写真、野っ原となった広島市内全景の写真。そして、当時中国新聞記者だった松重美人氏が撮られた「御幸橋西詰」の写真くらいである。あとは、原爆関連として、時折テレビの記録報道見たことがある原子爆弾が破裂し、原子雲がむくむくと大きく伸びていく動画(これがどこの写真かは定かな記憶が無い)くらい・・・・・。これだけでも、勿論ショッキングである。
しかし、この写真集は「決定版」と冠するだけあり、「広島」が「ヒロシマ」となった生々しい現実、事実をまさに克明に記録に残している。戦後70年を経たからこそここまでの写真を集積整理し公刊できたといえるのかもしれない。その年月の経過は、今もう一度「反核」の意味を真剣に再考する契機となる。また、「ヒロシマ」を風化させないための手段でもあると言える。
「広島」が一瞬にして「ヒロシマ」に化した実態をつぶさに眺め直すには上掲の数葉の有名な写真だけでは、その状況を写真から追体験するのには、やはりいささか抽象度の次元が高くなる。この写真集を眺めて、それをまず実感した。最初、図書館で見て、借り出して眺め、読んでみたのだが、改めて手許に置くために購入した。いつでも、この写真集に即座に立ち戻れる機会を確保する為である。一見、一読が必須の一冊と言える。
もう一つ、別の次元からこの写真集がまとめられた理由が「あとがき」に記されている。1982年、国内外の「核兵器を廃絶して平和な世界を」という大きな運動のうねりのなかで、「反核・写真運動」が発足したと言います。5人の写真家が発起人となり、日本のジャンルを超えた写真関係の様々な人々、552人が呼びかけ人となり、9人の代表委員を選びこの「反核・写真運動」が発足したそうです。現在、この運動を担うのは3世代目の人たちで、この3世代の人々のほとんどが70歳代となってきていると言います。「次の世代へバトンを渡すことは急務となっている」という状況の中で、この決定版がまとめられたのである。70年が経った今、「反核」とは異なるきな臭さに繋がりかねない動きもみえはじめる中で、この写真集を真摯に見つめてみることが必要な思いがする。
この写真集の特長をいくつか列挙しておこう。
*1枚1枚の写真に、簡潔な説明文が記されている。多くの写真には、爆心地からの距離や方角が明記されている。爆心地からの距離と被害状況の関係がわかりやすい。
*説明は日本文と英文とのバイリンガル表記である。この写真集が広く世界中の人々にも煮詰められ、読まれることが意図されている。写真はストレートに見るだけで伝わってくる。しかし、説明文がさらに、考える材料を与えてくれる。
*各写真には撮影者の氏名が明記されている。個人名の記されていないものについては、その写真を撮った組織の名前が記されている。具体的には次の組織名が表記されているものが含まれている。
陸軍船舶司令部写真班、文部省学術研究会議 原子爆弾災害調査研究特別委員会
*個人名の記された写真の中で、特に掲載枚数が多い人が居る。
松重重人氏 当時の現地、中国新聞のカメラマン。
松本榮一氏 当時、朝日新聞のカメラマンとして現地入りした人。
林 重男氏 原子爆弾災害調査研究特別委員会の記録映画班の写真担当者。
菊池俊吉氏 原子爆弾災害調査研究特別委員会の記録映画班の写真担当者。
中田左都男氏 当時、同盟通信社大阪支社のカメラマン。大阪海軍警備府の要請で
海軍調査団員として現地入りした人。
*被曝し体に熱傷を帯びた痛ましい人々の姿が写真集の中に散在して残されている。
記録写真としてここには残されていないが実在する写真群があると想像する。それを裏付ける証言の一端が記録されている。
この写真集は何とか我が国に残され、維持されてきた貴重な写真を集積したものだと言うことである。貴重な記録写真集である。
一方、多分公開されることがない映像や写真がアメリカには想像できない分量で保存されているはずだ。(付記:その中のほんの一部は広島平和記念資料館で閲覧できるようである。同ホームページで、例えば「米国戦略爆撃調査団撮影フィルム市民編No.11034」の動画が一部開示されている。)
「私ども原子爆弾災害調査研究特別委員会として行った記録を、戦後、昭和20年11月と記憶していますが、アメリカ軍が直接私らの東方社にまいりまして、撮影したフィルムを全部出せと行ってきました。」(p229)、「日本映画社の映画班のフィルムは、全部没収されました。それでアメリカに持って行かれたのです。」(p229)、「東京では連合国軍の検閲に出すため1コマにつきキャビネ各3枚を焼いて持っていったが、即、没収された。さらに松本は当局にネガの提出を求められた。当時、朝日新聞社は屋上で、共同通信社は日比谷公園にネガを集めて焼いていた。」(p240)と記載されている。
この写真集には、触れられてはいないが、戦後アメリカから来日した調査団が現地入りして、克明に映像や写真を撮影し、詳細な被爆者調査も行っていたということを以前に何かの本で読んだことを思いだした。被爆者の医学データや写真も多数撮って、アメリカに持ち帰っているという内容だったと記憶する。それは、原子爆弾の炸裂した後の結果を研究する資料としてなされた調査という。
最後に、写真を見ながら、私は意識すらしていなかった知らなかった事実を書きとめておきたい。写真担当として現地入りした林重男氏が、「なぜかバラックも道路もない灰色の世界だった」という印象を最初に抱いたと記されていること。それが多くの現地の記録写真となって痕跡を残しているのだ。それを今、私たちは目にする。
その印象を持った理由がその後に記されていた。「9月中旬、中国地方を通過した枕崎台風による豪雨がバラックや放射能のチリを海に流してしまっていたからだ」(p237)という。この事実が荒涼とした爆心地からの写真を残すとともに、放射能による二次被害を最小化する役割をはたしたのかもしれない。
この写真集は、末尾に次の文を記している。
「だからこそ、核被災の惨状を、次世代の若者に引き継ぐ原爆写真の調査と保存は私たちの責務だと考える。核のない、戦争のない平和な時代を守るため、再び、過ちを繰り返してはならないのだ。」
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関連情報をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
原爆ドーム ホームページ
歴史と原爆ドーム画像のページは必見!
原爆ドーム :ウィキペディア
広島平和記念資料館 ホームページ
平和データベースの被爆資料、動画、被爆者証言ビデオ等は必見!
原爆・平和 :「広島市」
原爆被害の概要 :「広島市」
国立広島原爆死没者追悼平和記念館 ホームページ
国立広島原爆死没者追悼平和記念館 平和情報ネットワーク ホームページ
体験記を読む、証言映像を見る、朗読音声を聞くなどができる。
旧ソビエトの調査団が撮影した広島・長崎原爆投下直後の映像が初公開 :「カラパイア」
広島の平和記念碑 - 日本の世界遺産
[まだまだあった]原爆投下後すぐの広島の貴重なカラー画像 :「gooいまトピ」
原爆の図丸木美術館 ホームページ
Atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki From Wikipedia, the free encyclopedi
本文の他に、被曝関連画像と動画も掲載されている。
Hiroshima Peace Museum Tour 3rd Floor (広島平和記念館) :YouTube
Hiroshima: Dropping the Bomb :YouTube
BBCの原爆投下・爆発状況の再現番組
24 Hours After Hiroshima 1/3 :YouTube
24 Hours After Hiroshima 2/3 :YouTube
24 Hours After Hiroshima 3/3 :YouTube
10 Things You Didn't Know About HIROSHIMA ATOMIC BOMBING :YouTube
原子爆弾 :ウィキペディア
ヒロシマ型原爆(ウラン原爆) :「原爆先生の特別授業」
Atomic Bomb ENCYCLOPAEDIA BRITANICA
The United Sates Strategic Bombing Suevey
The EFFects of Atomic Bombs on Hiroshima and Nagasaki
Chapter Ⅱ The Effects of the Atomic Bombings
Chapter Ⅲ How the Atomic Boms Works
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爆心地から7,000m、原子爆弾炸裂の2分後、広島県安佐郡古市町神田橋で、松重三男氏が撮られた写真が原爆写真が偶然撮影された最初だということを私は今、初めてこの写真集を見て知った。同様に、爆心地から6,500m、広島市の東北東約7kmの水分峡に休暇をとり友達と水泳に出かけていた当時17歳の山田精三少年が原子雲の写真を撮ったという。このことも私は初めて知った。当時中国新聞に勤める新聞少年で、カメラ好きであり雑嚢にカメラをしのばせて持っていたという偶然から撮れた最初の1枚、唯一の原子雲写真だという。原爆が炸裂した当初の写真はあまり撮られていない。現存しないのだ。
それは、なぜか。勿論当時カメラが現在の我々が思うほど普及していたわけではない。しかし、もう一つ重要な理由がある。「この広島も長崎も両方ともが軍事要塞地帯に入るわけです。当時、要塞地帯でカメラなんか持っていたら、これはすぐ憲兵に引っ張られたもの何です。それほど厳しい世の中だったわけです」(p228)という。
私は社会人になった後に、初めて広島を訪れたとき、原爆ドームと広島平和記念資料館を訪れた。そして、その展示品を眺めて、ショックを受けたことが印象深い。焼け焦げた衣服、破損し時刻がその時刻が永遠に止められた時計、飴細工のように融けてくっつき歪んだガラス瓶の塊などが、鮮烈に脳裏に焼き付いている。
現地を訪ねて見た時から含めても、写真でヒロシマを見るのは、いままで限られていた。ホンのわずかの原爆写真である。ピカドンと原爆が炸裂した後に形成された原子雲の写真、銀行の支店の階段に痕跡となった人の形の写真、当時の広島県産業奨励館の丸屋根の鉄骨が剥き出しになり焼け焦げて破壊された、いわゆる原爆ドームの写真、野っ原となった広島市内全景の写真。そして、当時中国新聞記者だった松重美人氏が撮られた「御幸橋西詰」の写真くらいである。あとは、原爆関連として、時折テレビの記録報道見たことがある原子爆弾が破裂し、原子雲がむくむくと大きく伸びていく動画(これがどこの写真かは定かな記憶が無い)くらい・・・・・。これだけでも、勿論ショッキングである。
しかし、この写真集は「決定版」と冠するだけあり、「広島」が「ヒロシマ」となった生々しい現実、事実をまさに克明に記録に残している。戦後70年を経たからこそここまでの写真を集積整理し公刊できたといえるのかもしれない。その年月の経過は、今もう一度「反核」の意味を真剣に再考する契機となる。また、「ヒロシマ」を風化させないための手段でもあると言える。
「広島」が一瞬にして「ヒロシマ」に化した実態をつぶさに眺め直すには上掲の数葉の有名な写真だけでは、その状況を写真から追体験するのには、やはりいささか抽象度の次元が高くなる。この写真集を眺めて、それをまず実感した。最初、図書館で見て、借り出して眺め、読んでみたのだが、改めて手許に置くために購入した。いつでも、この写真集に即座に立ち戻れる機会を確保する為である。一見、一読が必須の一冊と言える。
もう一つ、別の次元からこの写真集がまとめられた理由が「あとがき」に記されている。1982年、国内外の「核兵器を廃絶して平和な世界を」という大きな運動のうねりのなかで、「反核・写真運動」が発足したと言います。5人の写真家が発起人となり、日本のジャンルを超えた写真関係の様々な人々、552人が呼びかけ人となり、9人の代表委員を選びこの「反核・写真運動」が発足したそうです。現在、この運動を担うのは3世代目の人たちで、この3世代の人々のほとんどが70歳代となってきていると言います。「次の世代へバトンを渡すことは急務となっている」という状況の中で、この決定版がまとめられたのである。70年が経った今、「反核」とは異なるきな臭さに繋がりかねない動きもみえはじめる中で、この写真集を真摯に見つめてみることが必要な思いがする。
この写真集の特長をいくつか列挙しておこう。
*1枚1枚の写真に、簡潔な説明文が記されている。多くの写真には、爆心地からの距離や方角が明記されている。爆心地からの距離と被害状況の関係がわかりやすい。
*説明は日本文と英文とのバイリンガル表記である。この写真集が広く世界中の人々にも煮詰められ、読まれることが意図されている。写真はストレートに見るだけで伝わってくる。しかし、説明文がさらに、考える材料を与えてくれる。
*各写真には撮影者の氏名が明記されている。個人名の記されていないものについては、その写真を撮った組織の名前が記されている。具体的には次の組織名が表記されているものが含まれている。
陸軍船舶司令部写真班、文部省学術研究会議 原子爆弾災害調査研究特別委員会
*個人名の記された写真の中で、特に掲載枚数が多い人が居る。
松重重人氏 当時の現地、中国新聞のカメラマン。
松本榮一氏 当時、朝日新聞のカメラマンとして現地入りした人。
林 重男氏 原子爆弾災害調査研究特別委員会の記録映画班の写真担当者。
菊池俊吉氏 原子爆弾災害調査研究特別委員会の記録映画班の写真担当者。
中田左都男氏 当時、同盟通信社大阪支社のカメラマン。大阪海軍警備府の要請で
海軍調査団員として現地入りした人。
*被曝し体に熱傷を帯びた痛ましい人々の姿が写真集の中に散在して残されている。
記録写真としてここには残されていないが実在する写真群があると想像する。それを裏付ける証言の一端が記録されている。
この写真集は何とか我が国に残され、維持されてきた貴重な写真を集積したものだと言うことである。貴重な記録写真集である。
一方、多分公開されることがない映像や写真がアメリカには想像できない分量で保存されているはずだ。(付記:その中のほんの一部は広島平和記念資料館で閲覧できるようである。同ホームページで、例えば「米国戦略爆撃調査団撮影フィルム市民編No.11034」の動画が一部開示されている。)
「私ども原子爆弾災害調査研究特別委員会として行った記録を、戦後、昭和20年11月と記憶していますが、アメリカ軍が直接私らの東方社にまいりまして、撮影したフィルムを全部出せと行ってきました。」(p229)、「日本映画社の映画班のフィルムは、全部没収されました。それでアメリカに持って行かれたのです。」(p229)、「東京では連合国軍の検閲に出すため1コマにつきキャビネ各3枚を焼いて持っていったが、即、没収された。さらに松本は当局にネガの提出を求められた。当時、朝日新聞社は屋上で、共同通信社は日比谷公園にネガを集めて焼いていた。」(p240)と記載されている。
この写真集には、触れられてはいないが、戦後アメリカから来日した調査団が現地入りして、克明に映像や写真を撮影し、詳細な被爆者調査も行っていたということを以前に何かの本で読んだことを思いだした。被爆者の医学データや写真も多数撮って、アメリカに持ち帰っているという内容だったと記憶する。それは、原子爆弾の炸裂した後の結果を研究する資料としてなされた調査という。
最後に、写真を見ながら、私は意識すらしていなかった知らなかった事実を書きとめておきたい。写真担当として現地入りした林重男氏が、「なぜかバラックも道路もない灰色の世界だった」という印象を最初に抱いたと記されていること。それが多くの現地の記録写真となって痕跡を残しているのだ。それを今、私たちは目にする。
その印象を持った理由がその後に記されていた。「9月中旬、中国地方を通過した枕崎台風による豪雨がバラックや放射能のチリを海に流してしまっていたからだ」(p237)という。この事実が荒涼とした爆心地からの写真を残すとともに、放射能による二次被害を最小化する役割をはたしたのかもしれない。
この写真集は、末尾に次の文を記している。
「だからこそ、核被災の惨状を、次世代の若者に引き継ぐ原爆写真の調査と保存は私たちの責務だと考える。核のない、戦争のない平和な時代を守るため、再び、過ちを繰り返してはならないのだ。」
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10 Things You Didn't Know About HIROSHIMA ATOMIC BOMBING :YouTube
原子爆弾 :ウィキペディア
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