遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『「国風文化」の時代』  木村茂光  青木書店

2017-07-16 10:26:57 | レビュー
 手許に、『詳説日本史研究』(山川出版社・1998年)という日本史の学習参考書がある。それを繙くと、「摂関政治の時期、10~11世紀のころの文化を国風文化または藤原文化という。遣唐使が廃止されたこの時代にも、民間の商人らによって大陸からの文物が輸入され、それは『唐物』として尊重され続けた。しかし、9世紀の弘仁・貞観文化が唐の直接的な影響を強く受けたものであったのに対して、この時代には、長期間にわたって摂取された唐文化の消化・吸収が進行し、わが国在来の文化と融合して、その後の日本文化に大きな影響を与えて行く思想・文学・美術・風俗などが主に貴族層によって生み出されたのである」と位置づけている。そして、「国風」としての特徴を3点にまとめている。引用しご紹介する。
(1) 貴族層による大陸文化の消化・吸収が進み、そのなかで後世に大きな影響を与えていく日本人の感性や美意識が磨かれたこと。
(2) このような感性を表現する手段としてのかな文字や美術様式、さらには生活様式などの基礎が築かれたこと。
(3) 国境の確定や対外的孤立主義とも関係して、上記の感性やこれを表現するための手段・様式を、日本人(民族)独自のものにする意識が生まれたこと。

 この様な概説が高校の日本史の授業で学ぶ知識だろう。だが、はるか昔になるが、私にはこれほどの詳しさですら学んだという記憶がない。遣唐使の中止と国風文化という項目を知った程度だった気がする。

 この学習参考書は、後年に買ったものである。これを開いてみるきっかけは、先日、宇治市源氏物語ミュージアムの連続講座で「雅と国風」(講師:西村さとみ氏)を聴講したことにある。その中に引用されていた『日本史B 改定版』(三省堂・2008年)国風文化の説明もほぼ類似のものだった。そして、国風=日本風ではなく、国風文化の概念の再検討が今行われているということを聞いた。「雅と国風」の講座を聴講し、冒頭の学習参考書での概説レベルから一歩踏み込んで、「国風文化」について知りたいと思ったことが、一つのトリガーとなっている。
 そんな矢先に、『土左日記のコペルニクス的転回』という本を読んだ。この書については読後印象記を既にご紹介している。この書に本書の著者木村茂光氏が登場することと、『「国風文化」の時代』が出版されていることを知ったことが、本書を読む動機になった。

 『「国風文化」の時代』は、AOKI LIBRARY 日本の歴史 [全32冊]の一冊として、1997年に出版された本である。ほぼ、冒頭の学習参考書と同じ時期に出版されている。たぶん歴史分野の愛読者を対象として出版されたシリーズものの一冊だが、その論述内容は専門書の部類に入るものだろう。『岩波講座 日本歴史』のシリーズと同じカテゴリーレベルにあると思う。そういう意味で、一般読者にとっては、諸研究者の研究成果を踏まえた詳述により読みづらさが伴うが、逆に、一歩踏み込んで「国風文化」とはどういう位置づけなのかを考えるのには有益である。それは本書の構成からもおわかりいただけるだろう。まず、目次を取り上げてみる。

 序章 問題の所在と時代の外観
 Ⅰ章 中世的在地社会の形成
 Ⅱ章 都市平安京の形成
 Ⅲ章 9・10世紀の外交と排外意識の形成
 Ⅳ章 「日本」的儀式の形成と文人貴族
 Ⅴ章 「国風文化」の特質
 Ⅵ章 「国風文化」から院政期の文化へ

 様々な視点から総合的に論述されていることがわかる。律令制支配体制の基盤が崩れはじめ、在地社会と呼ぶ社会構造への変化の動きがあったことから論を進めていく。そして当時の中国、朝鮮半島と日本の対外関係の状況を分析する。遣唐使の中止がどういう位置づけとなっていたかを解明していく。国風文化を生み出した政治的な背景が語られていく。遣唐使を停止したことで国風文化が生まれたというような短絡的なものではないことがわかる。

 著者は平安時代を3区分する。前期は8世紀末(794年)から9世紀後半までとし、桓武・嵯峨天皇の時期である。この前期を「律令制支配の再建期」と位置づける。だが、社会基盤としてはその再建を頓挫させる動きが社会に生まれて来ていたと分析する。律令体制の基盤となる班田制が崩れはじめ、在地社会化が進展し、富豪層が実力を蓄え始めてきた動きを指摘する。政治をする側が、昔の律令体制に戻せず、富豪層の存在を前提にして、彼らを社会支配に組み込む形を取らざるを得なくなってきていたと論じている。
 中期は9世紀末から11世紀中頃までとし、この時期は古代から中世への移行期にあたるという。「王朝国家期」といえる時代であり、この時代に「国風」文化が栄えたとする。冒頭の学習参考書での解説される時期である。
 後期は、11世紀後半から12世紀末までで、この時期は中世的国家体制の確立期と位置づける。政治的には「院政期」の時代である。
 本書は、律令制支配が崩壊し、支配体系を変えていくプロセス、そして「国風」文化が生み出されていく必然的な背景を多面的に論じている。

 一般読者の私には、前提となる知識不足のせいでⅠ章・Ⅱ章の前半あたりまでは社会基盤の変容プロセスが史料ベースで論述されるために読みづらかった。しかし、Ⅱ章の後半あたりからは、文化面に論点が移っていくためか、比較的読みやすくなった。

 私が理解できた範囲で、著者の論点と興味を抱いた諸点の覚書をまとめてご紹介する。。詳しくは本書をご一読願いたい。

*律令制国家は、班田制のもとに戸籍・計帳に基づく人頭税的な税体系をベースにする。だが、班田農民の浮浪・逃亡、偽籍という抵抗が発生する。一方で、富豪層が台頭してくる。「延喜の荘園整理令」を中心とした国政改革により、公田制を施行し、富豪層の存在を前提にした負名制を導入し、徴税方式を地税の収取へと転換して行く。農業生産の発展と耕地の開発などが、中世村落の形成につながり、富豪層はますます力を蓄えていく。
*10世紀の在地社会には、「刀禰等」と呼ばれる集団、ないし組織が形成される。土地などの売買行為の「保証」機能や、譲与・火災などでの事実証明機能などを担う。在地社会の自立的な組織となる。社会基盤が変容していくのだ。
*11~12世紀は荒廃田や原野の開発の時代となり、開発地の「私領」化が進み、在地領主制が展開され、在地社会となる。11世紀後半には朝廷の財源確保のために、朝廷は私領を公認し、公田支配の再編へと方針転換していく。社会基盤が独自の方向に動き出す時代である。
*地方の富豪層が平安京に流入し「勘籍人」となる。そして、彼らは「官衙町」を形成していく。その動きが人口問題を発生させていく。
*平安京への地方民の流入による人口増大、肥大化は、都市問題としてゴミ問題を発現する。ゴミ問題は清掃問題につながり、特に道路や川に放置される死体の処理、つまり埋葬地と葬送の問題が深刻になる。これらの問題は左右京職が扱うが、東西悲田院に居る人々が実働部隊としての役割を担う形となる。「死穢」の清掃を弱者に担当させるというしくみが「国家」的につくられていく。それは触穢思想につながり、穢の国家管理として展開されていく。

 このような社会構造の変化が進展する一方で、894(寬平6)年の遣唐使の中止事件が起こる。著者は諸研究の成果を踏まえて、その当時の中国の状況と隣国新羅との関係を分析的に眺めていく。この分析で興味深い点がいくつか論じられている。
*中国(唐)国内の争乱による凋弊状況が遣唐使派遣を無意味にする危惧があった。
*新羅との外交関係が悪化する。836(承和3)年の「新羅執事省牒」事件により、「東夷の小帝国」という日本の認識が新羅により否定される。840(承和7)年の張宝高事件、文室宮田麻呂事件、869(貞観11)年の新羅海賊襲撃事件などから、日本の新羅に対する排外意識が強化されていく。それは、他方で独善的な神国思想へと展開していく。
*894年の遣唐使の派遣計画自体と停止の経緯が明確でなく、曖昧さがあることを研究結果が明らかにしてきていることを知った。遣唐使中止は、30年も前から国の意志として方向づけられていたという見方はおもしろい。
*遣唐使中止により、9世紀後半以降、日本の公的な外交はなくなったが、対外関係が断絶したのではない。商人らによる私的な交易関係は逆に活発化し、私的な貿易は逆に積極的な対応が図られたというのが実態だった。新羅や唐の商人たちは私的な貿易を求めて、舶来品を日本に運んできていたのである。

 律令国家は唐の「文章は経国の大業」とする文章経国思想で運営されてきた。「文章」つまり、学問や漢詩文が重要な要素として認識されてきたのである。その基盤として都に大学が設置され、地方に国学を置いてきた。しかし、中期になるとこの文章経国思想が衰退していく。大学寮が荒廃し、藤原氏をはじめとする主要貴族は独自に大学別曹を設置するようになる。文章経国思想と密接な関連を持っていた「意見封事」が形骸化していったという。
 そして、承和の変を経て文人貴族層が排除され、藤原良房が政権を確立すると、朝廷儀式の中に和歌を持ち込むという動きを取る。和歌を公的世界に押し上げたのである。一方で、陰陽道思想や民間の呪術的な行事への関心が高まっていき、宮廷の儀式に取り込んでいく。藤原良房の後を継ぎ藤原基経が権力を掌握すると、仁和1年に清涼殿の殿上に「年中行事障子」を献上したという。一年中の公事(公式な行事)と服仮(喪に服すべき期日)や穢を書き連ねたという。それがその後さらに拡充されていくようである。
 和歌を公的世界に採り入れ、陰陽思想や呪術的行事を導入していく政権の動きが、中期において「国風文化」を生み出すトリガーになったようである。
 こういう動きの中で、宇多天皇が打ち出した菅原道真を遣唐使として派遣する計画が中止となり、重用された道真が左遷されて非業の死を遂げるということが組み込まれていく。
 つまり、社会構造の変化や、対外状況の変化が移行期を生み出す前提となり、そこに「国風文化」が形成されていくのである。
 著者はⅤ章において、「文人の形成」と「本朝意識の形成」、日本的知識の集成-「類聚」という学問的作業、初級教科書の編纂、仏教の日本的解釈-、仮名文学の始まりー日記、尽くしの世界、物語の出現-という特質に言及している。

 日記・物語文学が隆盛となり、一方で御霊(怨霊)思想が広がって行った平安時代に関心を抱く一般読者にとっても、「国風文化」の時代としての全体像を理解するうえで、役に立つ本といえる。

 ご一読ありがとうございます。


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インターネットで国風文化について得られる情報を検索してみた。一覧にしておきたい。
国風文化  :ウィキペディア
国風文化  :「コトバンク」
国風文化  :「ニューワイド学習百科事典+キッズネットサーチ」
国風文化について :「知識の泉」
平安時代における国風文化の発展は遣唐使の廃止とは関係ない? :「平安時代Campus」
国風文化(藤原文化)  :「日本史のとびら」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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『土左日記のコペルニクス的転回』 東原伸明、ヨース・ジョエル 編著 武蔵野書院
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