遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『阿蘭陀西鶴』 朝井まかて  講談社文庫

2018-08-03 15:21:49 | レビュー
 西鶴とくれば、即座に井原西鶴の名が浮かぶ。この小説は西鶴とその娘おあいの人生を描いた伝記風時代小説である。井原西鶴の名と代表作の書名のいくつかは知っているが、西鶴の伝記を読んだこともなければ、その代表作を読んだ事はない。概説紹介文で知る程度である。なので、この小説の史実とフィクション部分の識別はできない。
 この小説は、娘・おあいが父西鶴を心の眼で眺めた姿とその人生の変転・生き様を描き上げるというアプローチをとっている。おあいが、父と己との関係、そして父西鶴を客観視する観点で描かれて行く。「心の眼で」と記したのは、おあいは最初はおぼろげな視覚があったのだが、それすら失い盲目となっていたからである。しかし、娘の将来を慮った母・みずゑから、料理や裁縫などを盲目の人間にできるような工夫と知識を与えられつつ、手をとるようにして幼い頃から仕込まれたのである。そのため、包丁を使い巧みに調理したその料理は美味しいと誰もが褒める。おあいが盲目だと知ると、その料理を食した客は誰もが驚き、賞賛するのだ。父西鶴はそれを自慢にして吹聴すらする。おあいはそれを毛嫌いしている。

 14歳のおあいが台所で包丁を持ち調理をしている時に、父が帰ってくるのを感じとるという場面が導入となる。おあいが台所をすることが希であり、希なことを奇妙がることについて思い知らされた事実を回想することから、ストーリーが始まる。
 5年前、延宝3年(1675)4月3日に母が息を引き取った。おあい9歳の時である。おあいが通夜振舞いの料理を作るという場面描写となっていく。普段のとおりあたりまえのように料理を準備しているおあいと近所の女房連中の世話・会話のギャップの場面を描く。そこでおあいが盲目であることが読者に判る。通夜は西鶴の狼狽ぶりが浮かび上がる場でもあった。
 母の死後、西鶴は二人の幼い男の子を商家へ養子に出す。おあいを自分の手許に留める。つまり、おあいが一番身近で父・西鶴に接していくことになる。家に居るときの西鶴の立ち居振る舞いや声に籠もる感情、あるいは西鶴が文字を読んだり書いたりするときに必ず大きな声でその内容を言うこと、これらを通じて西鶴の考えや思いを、おあいは敏感に知ることができる。おあいは、いわば西鶴ウォッチャーの立場に立つ。
 さらに河内の百姓の家に生まれで、手伝い女として勤めるお玉と、西鶴の弟子団水が身近な存在として登場する。お玉と団水についても、おあいがウォッチングしていく立場になる。

 この小説ではおあいが父・西鶴を、己との関係においてどのように見ているかという関係意識が根底に流れている。おあいの父親観が年を経るごとに変化していく様相が西鶴理解に影響を与えて行く。母が生きていたころは、お父はんという「お客はん」が母と子三人の平安な日常の家に「帰ってきはる」という感覚から始まる。そして帰宅するという「文が届いた途端に母の肌が一気に熱を帯びるのを、おあいはすぐに嗅ぎ取った」(p23)という思い出に繋がる。
 母の今際の際にいなかった西鶴が、初七日に女房の死を見取ったかのごとき発句に自ら脇句をつけ独吟千句を詠み、それを『独吟一日千句』と題して出版する。なにもかも俳諧師として振る舞うやりかたや弟二人を養子に出した父西鶴をおあいは批判的な目をむける。だが、西鶴に句を添削して欲しいと家にやってきた役者の辰彌の一言「肝心なことに心を閉ざしているやないかと言うてるだけや」が契機となり、父西鶴の捉え方に変化が生まれ始めて行く。
 西鶴の娘おあいをウォチャーとして、西鶴の人生ステージが捕らえられていく。

 西鶴は、15歳で俳諧を始め、21歳の頃は京の貞門派に属し、俳名井原鶴永として点者になっていたという。貞門派に居るといつまでも上がつかえて芽が出ないことと、句集『桜川』が編纂されたときに、自らの才能を自負する西鶴の句が1句しか入集されなかったのだ。貞門派では名をあげられない西鶴は、大坂・天満天神宮の連歌所の宗匠、西山宗因を祖とする談林派に移る。西鶴は、同様に燻っている無名の俳諧師たちとともに、寬文13年(1673)に、生國魂神社の南坊で万句俳諧を興行し『生玉万句』を出版するという奇策に打って出る。その序文で西鶴は阿蘭陀流という言葉を記し、「阿蘭陀西鶴」と自称するようになったという。西鶴自身はそれにより、「己こそ新風や、一流や」と自賛する。が、おあいは「阿蘭陀」を「異端である」という意味にとらえているだけという面白さが書き込まれている。矢数俳諧の興行は世間受けするが、やはり際物とみられ、談林派からも疎まれる形になっていく。本流の中で名声を得たい西鶴は、目立ちたがりで自己宣伝が多すぎると疎まれるのだ。本書のタイトルはここに由来する。
 俳諧師としての西鶴の様々な試みと取り巻きの動き、世間の反響などが、おあいというウォチャーを介して描き出されていく。そういう中で、江戸において松尾芭蕉が俳諧にあらたな境地を築き、句集を出し始め、蕉門が形成されるという動向が現れて来る。
 俳諧師としての生き方に葛藤する西鶴は、『色道大鏡』、『難波鉦(どら)』、『好色袖鑑』という三冊の草紙を読んだ面白さから、自らが草紙を書くということに関心を移していく。おあいは西鶴が声に出して草紙を読むこと、自ら声に出しつつ草紙のための文を綴っていくのを聞きながら日々を過ごす。おあいは西鶴の生き方の変化を感じ取っていく。ウォッチャーおあいを介して。草紙作者としての西鶴誕生の経緯が描き出されていく。 西鶴の草紙第一作が『好色一代男』である。この書が出版されるまでの経緯、世間の反響、そして当時の出版元の反応などのプロセスが書き込まれていておもしろい。その後に西鶴が様々な出版物をどのような環境下で生み出していくかが、おあいを介して描き込まれていく。西鶴の最後の草紙が『世間胸算用』であり、この出版の経緯についても触れられている。これについての西鶴と出版元との交渉-西鶴の新規作への自信と出版元の過去のヒット作の延長線上狙いの感覚とのズレが生む-がおもしろい。おあいは「ああ、これぞお父はんの真骨頂や」と無性に思ったと、作者は語らせている。
 もう一つ興味深いのは、江戸時代の出版業界の仕組みがうかがえる側面である。西鶴の草紙本はベストセラーになったものがいくつもある。本がたとえベストセラーになっても、西鶴の日常生活が金銭的にゆとりができたわけではない。その裏話も語られていておもしろい。
 さらに興味深いと思ったのは、西鶴が宇治加賀掾に頼まれて人形浄瑠璃の台本を手掛けていたことと、竹本座の浄瑠璃作者杉森信盛と面識ができていたことである。浄瑠璃の台本はそれまで作者は無名のままだったという。竹本座のために『佐々木大鑑』という作を杉森が書いた時に、その台本の作者として筆名を近松門左衛門と名乗りを上げたのが最初だったという。

 最後に、ウォッチャーとしてのおあいについて、作者はかなりの頻度でおあいが調理をする場面、料理作りの場面を描き込んでいる。それは過ぎ去り往く歳月の中でストーリーに季節感覚を加えることになるとともに、江戸時代の庶民の食生活の一端を描くことにもなっている。さらに料理こそ、盲目のおあいが父西鶴の為にも尽くせた生きがいになったのだろうと思う。
 おあいは元禄5年(1692)3月享年26歳で没し、その翌年8月西鶴も没したことを「巻之外」として作者は記し、擱筆している。
 この小説で作者が書きたかったことは、形を変えてまとめられているように受け止めた。次の一節を、作者は読み物として展開したかったのだろう。
 「手前勝手でええ格好しいで、自慢たれの阿蘭陀西鶴。都合が悪うなったら開き直って、しぶとうなる。洒落臭いことが好きで、人が好きで、そして書くことが好きだ。
 ・・・・
  お父はんのお陰で、私はすこぶる面白かった」(p344)
 
 ご一読ありがとうございます。

本書から関心の波紋を広げてネット検索してみた結果を一覧にしておきたい。
井原西鶴 :「京都大学電子図書館」
井原西鶴 :「歴史くらぶ」
井原西鶴 :ウィキペディア
談林派  :「コトバンク」
西山宗因 :ウィキペディア
井原西鶴・好色一代男 :「松岡正剛・千夜千冊」
【36】西鶴と源氏物語 :「宇治 式部郷」
日本永代蔵  :「コトバンク」
『日本永代蔵』 楠木建の「戦略読書日記」 :「PRESIDENT Online」
生國魂神社  :ウィキペディア

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こちらの本も読後印象を書いています。お読みいただけるとうれしいです。
『恋歌 れんか』  講談社
『眩 くらら』  新潮社