松平春嶽は、賢候として天下に知られ、鼻が優美で顔立ちが端整であることから鋭鼻公というあだ名があったという。本名は慶永(よしなが)、11歳で元服するまでの幼名は錦之丞である。文政11年(1828)、徳川御三卿の田安家に生まれた。八代将軍徳川吉宗の息子を祖とする田安家と一橋家、九代徳川家重の子を祖とする清水家の三家の当主の官名が代々、律令制の八省の長官(卿)であることから、御三卿と呼ばれたという。
天保9年(1838)7月福井藩主松平斉善が病没した際、将軍家慶の命により春嶽は11歳で越前松平家を継ぐ。11歳で少年藩主となったが、当時の福井藩は膨大な借財を抱えていた。常盤橋の福井藩邸で過ごし、16歳の折りに許されて越前福井に帰国する。そして、福井藩の実情をつぶさに知る。横井小楠を起用し藩財政の改革、建て直しを実現していく。一方で、御三卿の出で親藩の藩主という立場から、江戸幕府における春嶽の存在は大きくなり、幕末期における春嶽の政治上の発言・献策と彼の進退は注目されるものとなっていく。この小説は16歳で帰国する時点から、明治23年、東京、小石川関口台町邸で逝去するまでの春嶽を政治活動の側面から描く。伝記風小説の形を取るが、松平春嶽を中核人物として据えながら、幕末という時代の様相、ダイナミックな国策、政治のうねりを描き出そうとした歴史小説である。
春嶽、享年は63歳。「なき数によしやいるとも天翔り御代を守らむ皇国のため」という辞世の和歌を残したという。本書のタイトルはこの「天翔り」に由来するのだろう。また、その少し前に、西郷隆盛の志を春嶽が「天を翔けるような志」と回想し、己もそんな志をかつて持ったと言わせている。由来はここにもリンクしている。
アメリカのペリー提督により開国を迫られる頃から大きく時代が動き出す。この時代の枢要な人々は中国におけるアヘン戦争の状況について情報を入手していた。鎖国を続けてきた江戸幕府にアメリカをはじめ諸国が開国を要求してくる。開国か攘夷かという国策選択での紛糾に加えて、尊王攘夷運動の動きが生まれていく。江戸幕府にとっては、その存立をどうはかるかが焦点となっていく。幕府主導の立場、公武合体の動き、一方で倒幕への動きと、うねりゆく時代の様相が捕らえられ、その渦中に投げ込まれた主要人物群が点描風に、春嶽との様々な関わりあいとして描かれ織り込まれていく。
本書を通読すると、春嶽の基本的考え方と国策として提言する政策は、激しく揺れ動く幕末の政治状況の中で一貫していたようだ。幕府の政事総裁職という立場になり、己の考えを述べつつ幕閣の状況次第で、幾度も進退を繰り返すという動きをとった。
江戸幕府において政権を担当するという立場にありながら、倒幕・明治維新により、新政府が誕生したときに、春嶽は民部卿・大蔵卿という中枢の要職に就いた。時代の転換の中で、旧幕から新政府の中枢に加わったのは春嶽だけだったという。それは、なぜか? 著者は、春嶽の一貫した考え方にその因があったととらえているように感じた。
春嶽は福井藩の財政改革には横井小楠を起用し、小楠には我国の今後の有り様について、献策させている。また藩医の子で、緒方洪庵の適塾で研鑽した橋本左内の見解を取り入れ、己の手足として活動させていく。この小説は、横井小楠と橋本左内の小伝という役割も果たしている。もう一人、春嶽の傍で、春嶽を支えたのは中根靭負である。中根は時には小楠の見解と対立する立場にもなる。春嶽はその対立も止揚していく動きを見せる。
春嶽の思考の根底は「日の本の国を守る」にある。徳川幕府体制を守ることではない。大政奉還をし、徳川家を一雄藩と位置づけて諸藩と連合し、一緒になって公武合体の形で、日本という国のベクトルを合わせ、開国し、国を富ます方策を講じるという考え方を貫こうとしたようである。その実現のためには、多少の方便をも使うという行動もとる。
春嶽が己の考えを形成する上で、関わりを持ち影響を受けた人物たちが勿論いる。また春嶽が己の考えと方策を実現しようとするが、それが時代のうねりの中で頓挫を繰り返す。その頓挫に関わった主要な人物群も勿論いる。その経緯が描き込まれていくところがおもしろい。ここには、春嶽という人物を介して、多分著者の人物観・歴史観も投影されているのだろう。
春嶽が16歳で越前に帰国する前に、水戸斉昭に面会を申込み、教示を受ける。斉昭と面談した春嶽は、斉昭の考えと直接の面談で得た人物観を通し、斉昭の教示を是々非々で受け止める。
18歳の時、20歳年長の島津斉彬と交際する機会を得ると、蘭癖と言われた斉彬から、開国と国を守る軍備について、大いに学び影響を受けたようだ。春嶽は斉彬の観点から考えるという思考を活かしているように感じる。著者は「策は行ってこそ、意味があります。実現いたしてこそ初めて妙策と呼べるのでございましょう」(p73)と斉彬に語らせている。もし斉彬が志半ばにして死ぬという結末でなく、そのまま生きていれば幕末史はどうなっていたかと、空想したくなる。春嶽と斉彬は強力なタッグを組んでいたのではないか。
春嶽が大老井伊直弼と対峙する場面が描かれている。井伊直弼のふてぶてしい態度の描き込みかたがおもしろい。立場は違え、井伊もまた己の信念があったのだろう。
文久2年に島津久光は上洛し、その続きに勅使とともに江戸に下向した。江戸の福井藩邸で春嶽は久光と面談したようだ。だがこの時、春嶽は久光という人物を見限ったようである。久光が行った西郷への措置も背景にあるようだ。この後、久光が帰国の途上で、あの生麦事件を起こしている。時間軸での繋がりの経緯をこの小説で初めて知った。
文久3年に、越前に帰国していた春嶽のところに、幕府軍艦奉行並、勝安房守の使いと称する坂本龍馬が訪れている。これが春嶽と竜馬の初対面だったようだ。その言動から「あの漢、使える」と春嶽は評価したと著者は記す。おもしろい。このとき、小楠を介して竜馬は三岡八郎と面談している。人の繋がり方もまた、おもしろい。
海軍創設の方針を打ち出したのは春嶽であり、その結果、勝海舟が用いられるようになり、文久3年、神戸に海軍操練所が作られることになる。春嶽と勝海舟の接点ができる。
最後の将軍となる一橋慶喜に対し、才気はあるが状況次第で変節する人物であり、徳川をつぶすと春嶽が判断しているところが興味深い。
小御所会議の折に、西郷が「越前様には、もはや橋本左内殿のことはお忘れになりもしたか」と訊いたことを春嶽は思い出す。それは、妻の勇姫から西南戦争で西郷が死んだのち、「実家の者が新聞記者から聞いたそうでございます。西郷殿が最期まで持っていたカバンには左内の手紙が入っていたそうでございます」と述べたときである。春嶽はそこに西郷の心を知る。「西郷は死ぬまで左内のことを忘れなかったのだ。それだけではない。若いころ国を守ろうと思い立った志を最期まで抱きつづけたということでもあるのだ」と。
この小説を読み、関心を惹かれた箇所が2つある。これに触れておこう。
一つは、春嶽が大政奉還策を城中で慶喜に話すのだが、この考え方を最初に幕閣の会議で進言したのは、将軍の上洛についての幕閣の会議で、大久保忠寛だったという。「幕府にて掌握する天下の政治を朝廷に返還し奉りて、徳川家は諸侯の列に加わり、駿遠参(駿河・遠江・三河)の旧地を領し、居城を駿府に占め候儀、当時の上策なり」。このとき大久保は苦肉の策として考えたのだが、春嶽はそれを開国を進める手段として使うことに発想を転換したのである。
もう一つは、坂本龍馬が策したという「新政府綱領八策」。通常、「船中八策」と称されている。著者は竜馬と三岡八郎との対話の中で、この八策の大本は横井小楠が春嶽に献策した国是七条に想を得たものだろうと三岡に尋ねさせ、龍馬にそうだと言わせている。たしかに数箇条は同趣旨の内容だ。それに新たな要件を加えるところに、龍馬の発想が飛躍している。
西洋諸外国が開国要求をしてきた幕末期に、国の存亡をかけて様々な動きが現れた。江戸幕府体制への批判、尊王思想の高まり、開国論、攘夷論、佐幕、公武合体論、尊王攘夷論などが錯綜する。世の中が大きくうねり動く中で様々なレベルで合従連衡も起こる。その渦中で、春嶽は一つの考えを志として持ち続け、活動を推進した。幕府の政権の一角を担いながら、明治政府の中枢でも当初活躍の場を得るという異色の存在となった。
だが、時が経つと「薩長の軽格武士たちが、維新回天の功績は自分たちにあり、と大きな顔をしてのさばる明治政府」(p280)に堕していく。春嶽はそれを笑止と見つめるだけになる。これは、己の志のもとに奔走し、活躍して、死んで行った者たちが忘れ去れていき、勝者の歴史、言い分が罷り通るだけの現実への虚無感に繋がって行くように思う。
この小説は、松平春嶽の考えと活動を中核に、幕末の時代がどのように蠢いていたのかを描こうとした歴史小説である。ここに幕末動乱期をとらえ直すための一石が投じられたと言えようか。
ご一読ありがとうございます。
本書に関連する事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
松平慶永 :「コトバンク」
松平慶永(松平春嶽)63年の生涯をスッキリ解説!調停、調停、また調停!:「BUSHIDO!JAPAN」
【 幕末の四賢侯 】英邁な越前福井藩主・松平春嶽 :「歴人マガジン」
徳川斉昭 :ウィキペディア
「幕末の賢侯」と呼ばれた徳川斉昭 たしかに仕事はデキる!されど精力的過ぎて問題も多し :「BUSHIDO!JAPAN」
横井小楠 :ウィキペディア
横井小楠 :「熊本歴史・人物 散歩道」
横井小楠の教育・政治思想 荒川 紘 氏 pdfファイル
松浦玲・横井小楠 :「松岡正剛の千夜千冊」
橋本左内 :「コトバンク」
橋本左内書状 :「京都大学貴重資料デジタアルアーカイブ」
由利公正 :「コトバンク」
三岡八郎(由利公正) :「歴Naviふくい」
由利公正(三岡八郎)をめぐるエピソード集 pdfファイル
徳川慶喜 :ウィキペディア
徳川慶喜(一橋慶喜)の解説 徳川家最後の征夷代将軍 その人柄と評価は?
:「幕末維新風雲伝」
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『雨と詩人と落花と』 徳間書店
『古都再見』 新潮社
『河のほとりで』 文春文庫
『玄鳥さりて』 新潮社
『津軽双花』 講談社
『草雲雀』 実業之日本社
『日本人の肖像』 聞き手・矢部明洋 講談社
『草笛物語』 祥伝社
『墨龍賦』 PHP
『大獄 西郷青嵐賦』 文藝春秋
『嵯峨野花譜』 文藝春秋
『潮騒はるか』 幻冬舎
『風のかたみ』 朝日新聞出版
===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新5版(46+4冊)2017.7.26
天保9年(1838)7月福井藩主松平斉善が病没した際、将軍家慶の命により春嶽は11歳で越前松平家を継ぐ。11歳で少年藩主となったが、当時の福井藩は膨大な借財を抱えていた。常盤橋の福井藩邸で過ごし、16歳の折りに許されて越前福井に帰国する。そして、福井藩の実情をつぶさに知る。横井小楠を起用し藩財政の改革、建て直しを実現していく。一方で、御三卿の出で親藩の藩主という立場から、江戸幕府における春嶽の存在は大きくなり、幕末期における春嶽の政治上の発言・献策と彼の進退は注目されるものとなっていく。この小説は16歳で帰国する時点から、明治23年、東京、小石川関口台町邸で逝去するまでの春嶽を政治活動の側面から描く。伝記風小説の形を取るが、松平春嶽を中核人物として据えながら、幕末という時代の様相、ダイナミックな国策、政治のうねりを描き出そうとした歴史小説である。
春嶽、享年は63歳。「なき数によしやいるとも天翔り御代を守らむ皇国のため」という辞世の和歌を残したという。本書のタイトルはこの「天翔り」に由来するのだろう。また、その少し前に、西郷隆盛の志を春嶽が「天を翔けるような志」と回想し、己もそんな志をかつて持ったと言わせている。由来はここにもリンクしている。
アメリカのペリー提督により開国を迫られる頃から大きく時代が動き出す。この時代の枢要な人々は中国におけるアヘン戦争の状況について情報を入手していた。鎖国を続けてきた江戸幕府にアメリカをはじめ諸国が開国を要求してくる。開国か攘夷かという国策選択での紛糾に加えて、尊王攘夷運動の動きが生まれていく。江戸幕府にとっては、その存立をどうはかるかが焦点となっていく。幕府主導の立場、公武合体の動き、一方で倒幕への動きと、うねりゆく時代の様相が捕らえられ、その渦中に投げ込まれた主要人物群が点描風に、春嶽との様々な関わりあいとして描かれ織り込まれていく。
本書を通読すると、春嶽の基本的考え方と国策として提言する政策は、激しく揺れ動く幕末の政治状況の中で一貫していたようだ。幕府の政事総裁職という立場になり、己の考えを述べつつ幕閣の状況次第で、幾度も進退を繰り返すという動きをとった。
江戸幕府において政権を担当するという立場にありながら、倒幕・明治維新により、新政府が誕生したときに、春嶽は民部卿・大蔵卿という中枢の要職に就いた。時代の転換の中で、旧幕から新政府の中枢に加わったのは春嶽だけだったという。それは、なぜか? 著者は、春嶽の一貫した考え方にその因があったととらえているように感じた。
春嶽は福井藩の財政改革には横井小楠を起用し、小楠には我国の今後の有り様について、献策させている。また藩医の子で、緒方洪庵の適塾で研鑽した橋本左内の見解を取り入れ、己の手足として活動させていく。この小説は、横井小楠と橋本左内の小伝という役割も果たしている。もう一人、春嶽の傍で、春嶽を支えたのは中根靭負である。中根は時には小楠の見解と対立する立場にもなる。春嶽はその対立も止揚していく動きを見せる。
春嶽の思考の根底は「日の本の国を守る」にある。徳川幕府体制を守ることではない。大政奉還をし、徳川家を一雄藩と位置づけて諸藩と連合し、一緒になって公武合体の形で、日本という国のベクトルを合わせ、開国し、国を富ます方策を講じるという考え方を貫こうとしたようである。その実現のためには、多少の方便をも使うという行動もとる。
春嶽が己の考えを形成する上で、関わりを持ち影響を受けた人物たちが勿論いる。また春嶽が己の考えと方策を実現しようとするが、それが時代のうねりの中で頓挫を繰り返す。その頓挫に関わった主要な人物群も勿論いる。その経緯が描き込まれていくところがおもしろい。ここには、春嶽という人物を介して、多分著者の人物観・歴史観も投影されているのだろう。
春嶽が16歳で越前に帰国する前に、水戸斉昭に面会を申込み、教示を受ける。斉昭と面談した春嶽は、斉昭の考えと直接の面談で得た人物観を通し、斉昭の教示を是々非々で受け止める。
18歳の時、20歳年長の島津斉彬と交際する機会を得ると、蘭癖と言われた斉彬から、開国と国を守る軍備について、大いに学び影響を受けたようだ。春嶽は斉彬の観点から考えるという思考を活かしているように感じる。著者は「策は行ってこそ、意味があります。実現いたしてこそ初めて妙策と呼べるのでございましょう」(p73)と斉彬に語らせている。もし斉彬が志半ばにして死ぬという結末でなく、そのまま生きていれば幕末史はどうなっていたかと、空想したくなる。春嶽と斉彬は強力なタッグを組んでいたのではないか。
春嶽が大老井伊直弼と対峙する場面が描かれている。井伊直弼のふてぶてしい態度の描き込みかたがおもしろい。立場は違え、井伊もまた己の信念があったのだろう。
文久2年に島津久光は上洛し、その続きに勅使とともに江戸に下向した。江戸の福井藩邸で春嶽は久光と面談したようだ。だがこの時、春嶽は久光という人物を見限ったようである。久光が行った西郷への措置も背景にあるようだ。この後、久光が帰国の途上で、あの生麦事件を起こしている。時間軸での繋がりの経緯をこの小説で初めて知った。
文久3年に、越前に帰国していた春嶽のところに、幕府軍艦奉行並、勝安房守の使いと称する坂本龍馬が訪れている。これが春嶽と竜馬の初対面だったようだ。その言動から「あの漢、使える」と春嶽は評価したと著者は記す。おもしろい。このとき、小楠を介して竜馬は三岡八郎と面談している。人の繋がり方もまた、おもしろい。
海軍創設の方針を打ち出したのは春嶽であり、その結果、勝海舟が用いられるようになり、文久3年、神戸に海軍操練所が作られることになる。春嶽と勝海舟の接点ができる。
最後の将軍となる一橋慶喜に対し、才気はあるが状況次第で変節する人物であり、徳川をつぶすと春嶽が判断しているところが興味深い。
小御所会議の折に、西郷が「越前様には、もはや橋本左内殿のことはお忘れになりもしたか」と訊いたことを春嶽は思い出す。それは、妻の勇姫から西南戦争で西郷が死んだのち、「実家の者が新聞記者から聞いたそうでございます。西郷殿が最期まで持っていたカバンには左内の手紙が入っていたそうでございます」と述べたときである。春嶽はそこに西郷の心を知る。「西郷は死ぬまで左内のことを忘れなかったのだ。それだけではない。若いころ国を守ろうと思い立った志を最期まで抱きつづけたということでもあるのだ」と。
この小説を読み、関心を惹かれた箇所が2つある。これに触れておこう。
一つは、春嶽が大政奉還策を城中で慶喜に話すのだが、この考え方を最初に幕閣の会議で進言したのは、将軍の上洛についての幕閣の会議で、大久保忠寛だったという。「幕府にて掌握する天下の政治を朝廷に返還し奉りて、徳川家は諸侯の列に加わり、駿遠参(駿河・遠江・三河)の旧地を領し、居城を駿府に占め候儀、当時の上策なり」。このとき大久保は苦肉の策として考えたのだが、春嶽はそれを開国を進める手段として使うことに発想を転換したのである。
もう一つは、坂本龍馬が策したという「新政府綱領八策」。通常、「船中八策」と称されている。著者は竜馬と三岡八郎との対話の中で、この八策の大本は横井小楠が春嶽に献策した国是七条に想を得たものだろうと三岡に尋ねさせ、龍馬にそうだと言わせている。たしかに数箇条は同趣旨の内容だ。それに新たな要件を加えるところに、龍馬の発想が飛躍している。
西洋諸外国が開国要求をしてきた幕末期に、国の存亡をかけて様々な動きが現れた。江戸幕府体制への批判、尊王思想の高まり、開国論、攘夷論、佐幕、公武合体論、尊王攘夷論などが錯綜する。世の中が大きくうねり動く中で様々なレベルで合従連衡も起こる。その渦中で、春嶽は一つの考えを志として持ち続け、活動を推進した。幕府の政権の一角を担いながら、明治政府の中枢でも当初活躍の場を得るという異色の存在となった。
だが、時が経つと「薩長の軽格武士たちが、維新回天の功績は自分たちにあり、と大きな顔をしてのさばる明治政府」(p280)に堕していく。春嶽はそれを笑止と見つめるだけになる。これは、己の志のもとに奔走し、活躍して、死んで行った者たちが忘れ去れていき、勝者の歴史、言い分が罷り通るだけの現実への虚無感に繋がって行くように思う。
この小説は、松平春嶽の考えと活動を中核に、幕末の時代がどのように蠢いていたのかを描こうとした歴史小説である。ここに幕末動乱期をとらえ直すための一石が投じられたと言えようか。
ご一読ありがとうございます。
本書に関連する事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
松平慶永 :「コトバンク」
松平慶永(松平春嶽)63年の生涯をスッキリ解説!調停、調停、また調停!:「BUSHIDO!JAPAN」
【 幕末の四賢侯 】英邁な越前福井藩主・松平春嶽 :「歴人マガジン」
徳川斉昭 :ウィキペディア
「幕末の賢侯」と呼ばれた徳川斉昭 たしかに仕事はデキる!されど精力的過ぎて問題も多し :「BUSHIDO!JAPAN」
横井小楠 :ウィキペディア
横井小楠 :「熊本歴史・人物 散歩道」
横井小楠の教育・政治思想 荒川 紘 氏 pdfファイル
松浦玲・横井小楠 :「松岡正剛の千夜千冊」
橋本左内 :「コトバンク」
橋本左内書状 :「京都大学貴重資料デジタアルアーカイブ」
由利公正 :「コトバンク」
三岡八郎(由利公正) :「歴Naviふくい」
由利公正(三岡八郎)をめぐるエピソード集 pdfファイル
徳川慶喜 :ウィキペディア
徳川慶喜(一橋慶喜)の解説 徳川家最後の征夷代将軍 その人柄と評価は?
:「幕末維新風雲伝」
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『雨と詩人と落花と』 徳間書店
『古都再見』 新潮社
『河のほとりで』 文春文庫
『玄鳥さりて』 新潮社
『津軽双花』 講談社
『草雲雀』 実業之日本社
『日本人の肖像』 聞き手・矢部明洋 講談社
『草笛物語』 祥伝社
『墨龍賦』 PHP
『大獄 西郷青嵐賦』 文藝春秋
『嵯峨野花譜』 文藝春秋
『潮騒はるか』 幻冬舎
『風のかたみ』 朝日新聞出版
===== 葉室 麟 作品 読後印象記一覧 ===== 更新5版(46+4冊)2017.7.26