聖地巡礼シリーズとしとして、第1作はまず、大阪・京都・奈良が取り上げられた。
そうなると、近畿地方では、「熊野」という聖地が俎上に上るのは必然である。ということで、この第2作は、「熊野紀行」と副題が付いている。「紀伊山地の霊場と参詣道」が2004年7月7日に世界遺産(文化遺産)に登録された。その登録範囲の中に、熊野三山と熊野参詣道が入っている。熊野参詣道というより、熊野古道の通称の方が親しまれている。今、熊野古道を巡ることは一つのブームにすらなっている。熊野とは何か? このことを考える情報として、読みやすさと入りやすさからはタイムリーな企画本でもある。
「まえがき」で釈は、聖地巡礼のテーマは「場と関係性」であり、宗教性が高い場所に赴き、「そこで展開されている儀礼行為や舞台装置」に着目し、「その場に関わってきた俗信や習慣、権力や政治的な要素も合算して全体像に向き合おう」というスタンスで臨むとしている。つまり、場に臨んで著者二人が己のアンテナで感じ取ったことが、様々な連想発言として織り込まれていく。熊野の宗教性についての基礎知識を釈が解説していく。熊野という場所を訪ねるのが初めてという著者達のサポートとして、2人のナビゲータ(辻本雄一・森本祐司)がサポートし、熊野そのものについての説明役も兼ねていく。内田は釈の解説とナビゲータの説明を踏まえて、現地で得た霊的直観をベースにその場での考えを自由に発言していく。その言説がかなり即興的に広がって行く。読者には、その即興的仮説発言が、そういう見方もできるのかというおもしろみとなっていく。その一例が「熊野はバリだ」という直観的発言であり、その関係性をどこに見出したのかが、蕩々と語られている。こういう発想のしかた自体がおもしろい。
熊野本宮大社に至る熊野古道には、大辺路・中辺路・小辺路・大峰奥駈道・伊勢路がある。この聖地巡礼では、和歌山の田辺から中辺路を経由し本宮に至る巡礼コースが利用されている。
第1日目が「聖地の中枢へ ~熊野古道をめぐる~」としてまとめられている。
滝尻王子⇒発心門王子⇒船玉神社⇒熊野古道⇒熊野本宮大社⇒大斎原、と辿られる。
ここで、滝尻王子をスポット的に訪ねた後は、中辺路を発心門王子までバス移動し、発心門王子から先の熊野古道が歩かれた記録である。一日目は湯の峰温泉に泊まり、そこで釈による法話とその後の対談が行われている。
第2日目が「なぜ人は熊野に惹かれるのか?」と題してまとめられている。
熊野に惹かれる原因を考えるためには、熊野にある名所を巡礼せずには語れない。そこで、2日目は広い地域に点在する場所を巡るため、付記のない矢印箇所はバス移動となっている。
湯の峰温泉⇒神倉神社⇒花の窟神社⇒(徒歩)⇒産田神社⇒那智の滝(那智大社・青岸渡寺)⇒補陀落山寺
この聖地巡礼では、新宮に所在の熊野速玉大社はその対象に入っていない。
この2日間の熊野紀行での著者たちの総論は、近代的知性の宗教概念で熊野を読み解くことはできない。熊野の宗教性は近代的自我では太刀打ちできないスケールであり、様々な要素が重層化し習合している場所である。あらゆるものを排除せず同一化する力学が働く場所だというところだろうか。それ故に、対談での言説が収斂ではなく、拡散・拡大しがちになっていく。そこから本書を読む楽しさが生まれてくるとも言える。
この熊野紀行の対談と法話お中から、熊野が人々を惹きつける背景となる事象・事項の一端を抽出してご紹介しよう。これらの要素を含む総体としてのスケール、熊野の時空の懐の深さが人々を惹きつけるのだろう。
*熊野詣では中世までは日本最大の「回遊型」巡礼であり、九十九王子という小規模な聖地巡礼の先に、熊野三山という複合的な性格の目的地がある。
*熊野三山が祀る神はそれぞれ異なる。
*熊野は本地垂迹説を早くから受け入れた神仏習合の地である。
*熊野は修験道の聖地。陰陽道、儒教、道教なども融合している。
*熊野の「土地の信仰」という古層の上に、神道的宗教性、仏教的宗教性、その他が重層し、共生し、習合し、この地に馴染んで行った。宗教の境界が融ける地である。
*熊野は「信不信を選ばす、浄不浄を嫌わず」。和泉式部のエピソードがある。
*英気を養い、何か大事を果たす前のエネルギーの充填、野生の霊気を浴びる場所。
*かつて熊野比丘尼という芸能民的宗教者により熊野の信仰が全国に流布された。
*九十九王子は海民系の信仰と思われ、「王子」は沖縄の言葉で、ポリネシア語に繋がるとか。王子は聖地中枢への中継ポイントになっている。
*花の窟神社、神倉山、那智の滝は、沖合からの山立てのランドマークだった。
*黒潮文化圏の一箇所であり、海洋他界信仰、補陀落山渡海信仰が存在する土地。
*熊野はロゴスはなく、パトスの横溢する土地。
*大斎原の自然景観は母体回帰を連想させるたたずまいである。母性原理的な空間。
*熊野古道は聖地の中枢に行くプロセスとして段階的に霊的な濃度が上がっていく。
*神倉山は山岳修行の場であり、もとは産鉄系の金属を扱う集団の居住地。
*神倉神社のお燈祭りには、祭りの開放性がある。誰でも参加できる宗教的な共同体を立ち上げるための装置として機能する。
*神倉神社の階段は、軽いトランス状態に入るための装置になっている。
*もともとも熊野は照葉樹林文化圏。花の窟神社付近は典型的な照葉樹林域にある。
*産田神社は靴を脱いで参拝が必要。玉石を踏み、足裏で五感を活性化するしかけ。
*那智の滝はトランス・スポットである。
*熊野には旺盛な「受容性」がある。
他にもいろいろな惹かれる原因が対談の中で語られていると思うが、本書を広げて考えていただくとよいだろう。
最後の第3章では、第1回の大阪の上町台地巡礼からこの第4回熊野紀行までのおさらいとしての対談となっていて、この後どこに行く? という話が出てくる。この中で、「隠れキリシタン」からみで、第3作が既に出版されている。
対談の中では、津和野、佐渡、出羽三山、四国などがアイデアとして出ている。現時点では、第3作の後は出ていない。どこが取り上げられているのだろうか・・・・。私には第4作が心待ちである。
この読後記の最後として、共著者の一人、内田が本書の末尾近くで、「でも、日本って歓待の文化はあまり根づいていないですよね。イスラムに比べたら・・・・」という発言をしているのが、興味深い。ここでの発言はイスラムとの比較であり、掘り下げた発言まではなされていない。能の『鉢の木』の事例の側面だけが語られている。今、よく言われている「おもてなしの文化」とはどういう繋がりになっていくのか。「聖地巡礼」とは離れるが、考える材料としてご紹介しておきたい。
ご一読ありがとうございます。
本書に関係する事項をネット検索してみた。一覧にして置きたい。
熊野古道 :「熊野本宮」(熊野本宮観光協会)
熊野古道ウォークコース
熊野古道・高野参道を歩く モデルプラン :「わかやま観光情報」
熊野本宮大社 ホームページ
熊野那智大社 ホームページ
熊野速玉大社 ホームページ
摂社神倉神社
和歌山県世界遺産センター ホームページ
【熊野参詣5】 なぜか落ちない神倉神社の巨岩 & 凄絶な補陀洛渡海 :「4travel.jp」
世界遺産 花の窟 ホームページ
産田神社 :「観光のごあんない」(熊野市観光公社)
那智の滝 熊野の神域・那智 :「南紀熊野 那智勝浦観光ガイド」
那智山 西岸渡寺 熊野の神域・那智 :「南紀熊野 那智勝浦観光ガイド」
補陀洛山寺(ふだらくさんじ) 熊野の神域・那智:「南紀熊野 那智勝浦観光ガイド」
補陀洛山寺 :「日本風景街道 熊野」
鉢 木 (はちのき)
『鉢木』を勤めて ―能の謡に芝居心を― :「粟谷能の会」
能「鉢木」:北条時頼の廻国伝説 :「壺齋閑話」
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
次の著書も読後印象記を書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『聖地巡礼 ビギニング』 内田 樹×釈 徹宗 東京書籍
『聖地巡礼 リターンズ』 内田樹×釈撤宗 東京書籍
『現代霊性論』 内田 樹・釈 徹宗 講談社
『街場の戦争論』 内田 樹 ミシマ社
『ブツダの伝道者たち』 釈 徹宗 角川選書
『不干斎ハビアン 神と仏を棄てた宗教者』 釈 徹宗 新潮選書
そうなると、近畿地方では、「熊野」という聖地が俎上に上るのは必然である。ということで、この第2作は、「熊野紀行」と副題が付いている。「紀伊山地の霊場と参詣道」が2004年7月7日に世界遺産(文化遺産)に登録された。その登録範囲の中に、熊野三山と熊野参詣道が入っている。熊野参詣道というより、熊野古道の通称の方が親しまれている。今、熊野古道を巡ることは一つのブームにすらなっている。熊野とは何か? このことを考える情報として、読みやすさと入りやすさからはタイムリーな企画本でもある。
「まえがき」で釈は、聖地巡礼のテーマは「場と関係性」であり、宗教性が高い場所に赴き、「そこで展開されている儀礼行為や舞台装置」に着目し、「その場に関わってきた俗信や習慣、権力や政治的な要素も合算して全体像に向き合おう」というスタンスで臨むとしている。つまり、場に臨んで著者二人が己のアンテナで感じ取ったことが、様々な連想発言として織り込まれていく。熊野の宗教性についての基礎知識を釈が解説していく。熊野という場所を訪ねるのが初めてという著者達のサポートとして、2人のナビゲータ(辻本雄一・森本祐司)がサポートし、熊野そのものについての説明役も兼ねていく。内田は釈の解説とナビゲータの説明を踏まえて、現地で得た霊的直観をベースにその場での考えを自由に発言していく。その言説がかなり即興的に広がって行く。読者には、その即興的仮説発言が、そういう見方もできるのかというおもしろみとなっていく。その一例が「熊野はバリだ」という直観的発言であり、その関係性をどこに見出したのかが、蕩々と語られている。こういう発想のしかた自体がおもしろい。
熊野本宮大社に至る熊野古道には、大辺路・中辺路・小辺路・大峰奥駈道・伊勢路がある。この聖地巡礼では、和歌山の田辺から中辺路を経由し本宮に至る巡礼コースが利用されている。
第1日目が「聖地の中枢へ ~熊野古道をめぐる~」としてまとめられている。
滝尻王子⇒発心門王子⇒船玉神社⇒熊野古道⇒熊野本宮大社⇒大斎原、と辿られる。
ここで、滝尻王子をスポット的に訪ねた後は、中辺路を発心門王子までバス移動し、発心門王子から先の熊野古道が歩かれた記録である。一日目は湯の峰温泉に泊まり、そこで釈による法話とその後の対談が行われている。
第2日目が「なぜ人は熊野に惹かれるのか?」と題してまとめられている。
熊野に惹かれる原因を考えるためには、熊野にある名所を巡礼せずには語れない。そこで、2日目は広い地域に点在する場所を巡るため、付記のない矢印箇所はバス移動となっている。
湯の峰温泉⇒神倉神社⇒花の窟神社⇒(徒歩)⇒産田神社⇒那智の滝(那智大社・青岸渡寺)⇒補陀落山寺
この聖地巡礼では、新宮に所在の熊野速玉大社はその対象に入っていない。
この2日間の熊野紀行での著者たちの総論は、近代的知性の宗教概念で熊野を読み解くことはできない。熊野の宗教性は近代的自我では太刀打ちできないスケールであり、様々な要素が重層化し習合している場所である。あらゆるものを排除せず同一化する力学が働く場所だというところだろうか。それ故に、対談での言説が収斂ではなく、拡散・拡大しがちになっていく。そこから本書を読む楽しさが生まれてくるとも言える。
この熊野紀行の対談と法話お中から、熊野が人々を惹きつける背景となる事象・事項の一端を抽出してご紹介しよう。これらの要素を含む総体としてのスケール、熊野の時空の懐の深さが人々を惹きつけるのだろう。
*熊野詣では中世までは日本最大の「回遊型」巡礼であり、九十九王子という小規模な聖地巡礼の先に、熊野三山という複合的な性格の目的地がある。
*熊野三山が祀る神はそれぞれ異なる。
*熊野は本地垂迹説を早くから受け入れた神仏習合の地である。
*熊野は修験道の聖地。陰陽道、儒教、道教なども融合している。
*熊野の「土地の信仰」という古層の上に、神道的宗教性、仏教的宗教性、その他が重層し、共生し、習合し、この地に馴染んで行った。宗教の境界が融ける地である。
*熊野は「信不信を選ばす、浄不浄を嫌わず」。和泉式部のエピソードがある。
*英気を養い、何か大事を果たす前のエネルギーの充填、野生の霊気を浴びる場所。
*かつて熊野比丘尼という芸能民的宗教者により熊野の信仰が全国に流布された。
*九十九王子は海民系の信仰と思われ、「王子」は沖縄の言葉で、ポリネシア語に繋がるとか。王子は聖地中枢への中継ポイントになっている。
*花の窟神社、神倉山、那智の滝は、沖合からの山立てのランドマークだった。
*黒潮文化圏の一箇所であり、海洋他界信仰、補陀落山渡海信仰が存在する土地。
*熊野はロゴスはなく、パトスの横溢する土地。
*大斎原の自然景観は母体回帰を連想させるたたずまいである。母性原理的な空間。
*熊野古道は聖地の中枢に行くプロセスとして段階的に霊的な濃度が上がっていく。
*神倉山は山岳修行の場であり、もとは産鉄系の金属を扱う集団の居住地。
*神倉神社のお燈祭りには、祭りの開放性がある。誰でも参加できる宗教的な共同体を立ち上げるための装置として機能する。
*神倉神社の階段は、軽いトランス状態に入るための装置になっている。
*もともとも熊野は照葉樹林文化圏。花の窟神社付近は典型的な照葉樹林域にある。
*産田神社は靴を脱いで参拝が必要。玉石を踏み、足裏で五感を活性化するしかけ。
*那智の滝はトランス・スポットである。
*熊野には旺盛な「受容性」がある。
他にもいろいろな惹かれる原因が対談の中で語られていると思うが、本書を広げて考えていただくとよいだろう。
最後の第3章では、第1回の大阪の上町台地巡礼からこの第4回熊野紀行までのおさらいとしての対談となっていて、この後どこに行く? という話が出てくる。この中で、「隠れキリシタン」からみで、第3作が既に出版されている。
対談の中では、津和野、佐渡、出羽三山、四国などがアイデアとして出ている。現時点では、第3作の後は出ていない。どこが取り上げられているのだろうか・・・・。私には第4作が心待ちである。
この読後記の最後として、共著者の一人、内田が本書の末尾近くで、「でも、日本って歓待の文化はあまり根づいていないですよね。イスラムに比べたら・・・・」という発言をしているのが、興味深い。ここでの発言はイスラムとの比較であり、掘り下げた発言まではなされていない。能の『鉢の木』の事例の側面だけが語られている。今、よく言われている「おもてなしの文化」とはどういう繋がりになっていくのか。「聖地巡礼」とは離れるが、考える材料としてご紹介しておきたい。
ご一読ありがとうございます。
本書に関係する事項をネット検索してみた。一覧にして置きたい。
熊野古道 :「熊野本宮」(熊野本宮観光協会)
熊野古道ウォークコース
熊野古道・高野参道を歩く モデルプラン :「わかやま観光情報」
熊野本宮大社 ホームページ
熊野那智大社 ホームページ
熊野速玉大社 ホームページ
摂社神倉神社
和歌山県世界遺産センター ホームページ
【熊野参詣5】 なぜか落ちない神倉神社の巨岩 & 凄絶な補陀洛渡海 :「4travel.jp」
世界遺産 花の窟 ホームページ
産田神社 :「観光のごあんない」(熊野市観光公社)
那智の滝 熊野の神域・那智 :「南紀熊野 那智勝浦観光ガイド」
那智山 西岸渡寺 熊野の神域・那智 :「南紀熊野 那智勝浦観光ガイド」
補陀洛山寺(ふだらくさんじ) 熊野の神域・那智:「南紀熊野 那智勝浦観光ガイド」
補陀洛山寺 :「日本風景街道 熊野」
鉢 木 (はちのき)
『鉢木』を勤めて ―能の謡に芝居心を― :「粟谷能の会」
能「鉢木」:北条時頼の廻国伝説 :「壺齋閑話」
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
次の著書も読後印象記を書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『聖地巡礼 ビギニング』 内田 樹×釈 徹宗 東京書籍
『聖地巡礼 リターンズ』 内田樹×釈撤宗 東京書籍
『現代霊性論』 内田 樹・釈 徹宗 講談社
『街場の戦争論』 内田 樹 ミシマ社
『ブツダの伝道者たち』 釈 徹宗 角川選書
『不干斎ハビアン 神と仏を棄てた宗教者』 釈 徹宗 新潮選書