奥書を見ると、「群像」の1999年9月号に発表された後、同月に単行本化され、2003年1月に文庫本が出版されている。ネットで調べてみると、1999年に著者は文学者としての業績により第55回日本藝術院賞を授与されている。勿論、それまでに『フランドルの冬』での芸術選奨文部大臣新人賞を皮切りに、個別作品で様々な賞を授与されてきた。私は名前は知っていたが著者の作品をこれまでなぜかきっかけがなくて読んだことはない。本書を読了後に、調べてみて遅ればせながら知った次第だ。
京都にあるキリシタン史跡を探訪したことから、キリシタン殉教、隠れキリシタンに関心を抱き始めた。その伏線は遠藤周作の『沈黙』が出版された当時にこの小説を読み、近年その映画化された作品を見ていたこともある。いずれにしても、これらの背景から、高山右近というキリシタン大名に関心を持ち始めたときに、この文庫本に出会った。著者の名前が記憶にあったので、すんなりと読む気になったといえる。
1587年に秀吉が突如バテレン追放令を出した折、秀吉が政策を実行するうえで、キリシタン大名だった高山右近は影響力があり判りやすいターゲットとみなされたのではないかという気がする。秀吉は明石6万石の大名だった高山右近に棄教を迫った。ところが右近は「現世においてはいかなる立場に置かれようと、キリシタンをやめはしない。霊魂の救済のためには、たとえ乞食となり、司祭たちのように追放に処せられようとも、なんら悔いはない」(カトリック高槻教会の「高山右近について」より)という立場を堅持した。多分、秀吉は右近が己の威光に服しあっさりと棄教すると思っていたのかもしれない。だがその思惑が外れると、明石の領土を剥奪し、追放してしまう。また、逆にこの秀吉による右近に対する制裁の苛烈さは、他の諸大名その他への見せしめという形で目玉に仕立て上げることになった。右近の意志がどちらに転んでも、秀吉にとり、高山右近は己の威光、権力を知らしめる良いターゲットであり、アピールの目玉だったのだろう。
淡路島・小豆島などへの流浪を経て、1588年、右近は加賀藩前田利家の招きを受けて、金沢に移り住む。利家から2万5000石の禄を与えられていたと著者は記す。前田利家自身はキリシタンではなかったが、信仰そのものにはかなり寛容だったようである。右近を含め「伴天連屋敷」と総称され、キリシタン信仰者の家臣たちが集まった地域が金沢に一時期できていたという。
江戸幕府の治世に入ると、二代将軍秀忠の時代、家康の意図・命令から1612年まず直轄領を手始めにキリシタン禁止令が発布される。それが翌年には全国に及んでいく。
前置きが長くなってしまった。だが、こういう背景を踏まえて、この伝記風時代小説の時期が絞り込まれる形で設定されている。つまり、右近は己が近いうちにこの金沢を追われる日が到来することを予期して準備を始めるという時点からストーリーが始まる。
この小説の興味深いところは、その構成にある。大きくは2つの流れが織り交ぜられていく。
一つは冒頭「1 さい果ての島国より」から始まる通信文スタイルでの記述の断続的な進展である。それは1613年12月20日金曜日付の手紙から始まる。金沢在住の宣教師ファン・バウティスタ・クレメンテが故国に居る最愛の妹宛に、日本におけるキリスト教布教状況ととそれに対する信長大王、秀吉大王がどのように対応してきたかなど、変転する厳しい情勢を含めて、書き綴るという形のいわば報告書の代理版というスタイルで時系列的な叙述が行われて行く。それは布教と迫害との記録である。宣教師の目に映じた状況把握と己の考え、思いが綴られていく。
この流れを追っていくと、宣教師視点での教会側の考えが見えてくる。そして、それは右近の動勢を断続的に語り伝えていく。右近を別視点から捕らえ、状況理解に広がりを加えて行く。
「1 さい果ての島国より」、「2 降誕祭」、「10 長崎の聖体行列」、「14 迫害」、「17 遺書」という風にストーリーに織り込まれていく。このストーリーは、宣教師の通信文で始まり、宣教師の通信文で終わるという異色の構成になっている。正直なところ、冒頭を読み始めた時は、少し勝手が違う・・・そんな感じから、引き込まれていった。
もう一つが高山右近の立場、視点からのストーリー展開である。慶長19年(1614)に右近は金沢を追われることになる。このストーリーは右近が金沢を退去する前年あたりから始まって行く。それは、「立つ鳥。跡を濁さず」の如く、キリシタンとして生きてきた右近が縁あってこの加賀に居住し、布教を進める活動に加わってきたことへの区切りを如何につけるかから始まっている。加賀の信者達に余計な弾圧等が及ばないように手配りすることなど、右近が何を考え、残されていく信者の人々のために何を配慮し準備したかが具体的に描かれて行く。そして、グレゴリオ暦1614年元旦(慶長18年11月21日)に、右近は茶人南坊として恒例の初釜を開き、金沢の主だった信者たちと最後の茶会を催したという。
金沢では、慶長19年(2014)に、パードレ・クレメンテとイルマン・エルナンデスたちが追放令を受けて、まずは京都へ護送されていく事態から始まる。その後、高山右近追放令が出る。右近一家は2月15日に雪の北陸路を徒歩でまずは京都をめざして退去していく。高山右近、妻のジュスタ、娘のルチア、十太郎を始め5人の孫たち、それに岡本惣兵衛と生駒弥次郎、侍女二人という一団だったと著者は描く。娘のルチアは前田藩筆頭家老の横山長知のたっての希望で、長知の嫡男康玄に10年ほど前に嫁いでいた。だが、廃キリシタンの風潮の中で、離別という形をとり、右近・ジュスタの許に戻って来たのだ。
最終的に高山右近はマニラへ追放となる。そして、マニラ到着後、1615年2月3日に熱病により63歳の生涯を閉じる。
このストーリーは、2013年~2015年という高山右近の最晩年、キリシタン追放令を受けた右近とその家族を中心に、追放の旅路に焦点を当てる。その行路とプロセスが克明に描写されていく。
この追放される旅のプロセスを通して、著者は高山右近像を浮かび上がらせるという構想(観点)を組みあげて行く。その第1の観点は、キリシタン信仰者としての右近の信仰・信念やキリシタン信者への思いを描くということにある。そこには右近と宣教師たちとの関係も勿論描き込まれていく。右近が宣教師たちからどのように見られていたかも浮彫にされていく。第2の観点は、この時期南坊と号した茶人としての右近を描くという側面がある。第3の観点は、かつて武人として生きた右近像をあきらかにしていく。武士の立場を織り込むことで、キリシタン右近がより鮮明に浮かび上がるという側面である。この側面は、追放令を受けて、右近一家と合流する内藤一家の一人、内藤好次が「高山右近伝」をまとめたいという目標を持って、右近から過去の話を聞き出すという形で、旅路の折々に自然な流れとして織り込まれていく。このあたり、巧みな構想になっている。
高山右近という人物を多面的に浮彫にし、眺め、一人格に総合していくことになる。このような多面的視点のアプローチが、護送されながらの追放の旅路というプロセスを単調なものにさせない工夫になっている。
また、高山右近とクレメンテを介して、この旅のプロセスとの関わりにおいて、当時の日本に育まれたキリシタン文化の諸行事の一端や、キリシタン禁止令の発令された渦中でのキリシタンではない人々の反応なども織り込まれていて、当時の風俗・宗教環境がイメージできるという側面もある。
高山右近をキーワードとして、当時の日本とキリスト教及び西洋との関係を理解する上でも役立つ伝記風小説である。
フィクションを交えてという形ではあるが、キリシタン大名高山右近という人物の個性・人格と生き様に惹きつけられていく。一方で、高山右近へのさらなる関心、及び当時のキリシタンの信仰と生き様・隠れキリシタンへの関心を誘発されていく小説である。
ご一読、ありがとうございます。
本書に関連する事項及びそこからの関心事項の広がりでネット検索したことを一覧にしておいたい。
加賀乙彦オフィシャルブログ
高山右近 :ウィキペディア
高山右近について :「カトリック高槻教会」
高山右近研究室・久保田へようこそ
高山右近を訪ねて :「たかつきナビ」(高槻市観光協会)
【高槻市】クローズアップNOW「没後400年 高山右近をひも解く」 :YouTube
高山右近生誕の地 高山のキリシタン遺物 :YouTube
高山右近からのメッセージー列福祈願マニラ公式巡礼の旅 :YouTube
かってのマニラ日本人町を訪ねる ― 高山右近と内藤如安の足跡を求めて:「4travel.jp」
高山右近を訪ねてーマニラ、パコ地区の高山右近像! :「異邦人の目-旅人日記」
DVD キリシタン大名 ダイジェスト版 :YouTube
2014HCFF2-17 江戸キリシタン史 :YouTube
HCFF2017 2-13 京都キリシタン史 一条戻り橋 日本26聖人殉教のスタート地点:YouTube
2015HCFF2-5 北陸浦上キリシタン史 :YouTube
日本CGNTV 8周年 特集ドキュメンタリー `キリシタン` :YouTube
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京都にあるキリシタン史跡を探訪したことから、キリシタン殉教、隠れキリシタンに関心を抱き始めた。その伏線は遠藤周作の『沈黙』が出版された当時にこの小説を読み、近年その映画化された作品を見ていたこともある。いずれにしても、これらの背景から、高山右近というキリシタン大名に関心を持ち始めたときに、この文庫本に出会った。著者の名前が記憶にあったので、すんなりと読む気になったといえる。
1587年に秀吉が突如バテレン追放令を出した折、秀吉が政策を実行するうえで、キリシタン大名だった高山右近は影響力があり判りやすいターゲットとみなされたのではないかという気がする。秀吉は明石6万石の大名だった高山右近に棄教を迫った。ところが右近は「現世においてはいかなる立場に置かれようと、キリシタンをやめはしない。霊魂の救済のためには、たとえ乞食となり、司祭たちのように追放に処せられようとも、なんら悔いはない」(カトリック高槻教会の「高山右近について」より)という立場を堅持した。多分、秀吉は右近が己の威光に服しあっさりと棄教すると思っていたのかもしれない。だがその思惑が外れると、明石の領土を剥奪し、追放してしまう。また、逆にこの秀吉による右近に対する制裁の苛烈さは、他の諸大名その他への見せしめという形で目玉に仕立て上げることになった。右近の意志がどちらに転んでも、秀吉にとり、高山右近は己の威光、権力を知らしめる良いターゲットであり、アピールの目玉だったのだろう。
淡路島・小豆島などへの流浪を経て、1588年、右近は加賀藩前田利家の招きを受けて、金沢に移り住む。利家から2万5000石の禄を与えられていたと著者は記す。前田利家自身はキリシタンではなかったが、信仰そのものにはかなり寛容だったようである。右近を含め「伴天連屋敷」と総称され、キリシタン信仰者の家臣たちが集まった地域が金沢に一時期できていたという。
江戸幕府の治世に入ると、二代将軍秀忠の時代、家康の意図・命令から1612年まず直轄領を手始めにキリシタン禁止令が発布される。それが翌年には全国に及んでいく。
前置きが長くなってしまった。だが、こういう背景を踏まえて、この伝記風時代小説の時期が絞り込まれる形で設定されている。つまり、右近は己が近いうちにこの金沢を追われる日が到来することを予期して準備を始めるという時点からストーリーが始まる。
この小説の興味深いところは、その構成にある。大きくは2つの流れが織り交ぜられていく。
一つは冒頭「1 さい果ての島国より」から始まる通信文スタイルでの記述の断続的な進展である。それは1613年12月20日金曜日付の手紙から始まる。金沢在住の宣教師ファン・バウティスタ・クレメンテが故国に居る最愛の妹宛に、日本におけるキリスト教布教状況ととそれに対する信長大王、秀吉大王がどのように対応してきたかなど、変転する厳しい情勢を含めて、書き綴るという形のいわば報告書の代理版というスタイルで時系列的な叙述が行われて行く。それは布教と迫害との記録である。宣教師の目に映じた状況把握と己の考え、思いが綴られていく。
この流れを追っていくと、宣教師視点での教会側の考えが見えてくる。そして、それは右近の動勢を断続的に語り伝えていく。右近を別視点から捕らえ、状況理解に広がりを加えて行く。
「1 さい果ての島国より」、「2 降誕祭」、「10 長崎の聖体行列」、「14 迫害」、「17 遺書」という風にストーリーに織り込まれていく。このストーリーは、宣教師の通信文で始まり、宣教師の通信文で終わるという異色の構成になっている。正直なところ、冒頭を読み始めた時は、少し勝手が違う・・・そんな感じから、引き込まれていった。
もう一つが高山右近の立場、視点からのストーリー展開である。慶長19年(1614)に右近は金沢を追われることになる。このストーリーは右近が金沢を退去する前年あたりから始まって行く。それは、「立つ鳥。跡を濁さず」の如く、キリシタンとして生きてきた右近が縁あってこの加賀に居住し、布教を進める活動に加わってきたことへの区切りを如何につけるかから始まっている。加賀の信者達に余計な弾圧等が及ばないように手配りすることなど、右近が何を考え、残されていく信者の人々のために何を配慮し準備したかが具体的に描かれて行く。そして、グレゴリオ暦1614年元旦(慶長18年11月21日)に、右近は茶人南坊として恒例の初釜を開き、金沢の主だった信者たちと最後の茶会を催したという。
金沢では、慶長19年(2014)に、パードレ・クレメンテとイルマン・エルナンデスたちが追放令を受けて、まずは京都へ護送されていく事態から始まる。その後、高山右近追放令が出る。右近一家は2月15日に雪の北陸路を徒歩でまずは京都をめざして退去していく。高山右近、妻のジュスタ、娘のルチア、十太郎を始め5人の孫たち、それに岡本惣兵衛と生駒弥次郎、侍女二人という一団だったと著者は描く。娘のルチアは前田藩筆頭家老の横山長知のたっての希望で、長知の嫡男康玄に10年ほど前に嫁いでいた。だが、廃キリシタンの風潮の中で、離別という形をとり、右近・ジュスタの許に戻って来たのだ。
最終的に高山右近はマニラへ追放となる。そして、マニラ到着後、1615年2月3日に熱病により63歳の生涯を閉じる。
このストーリーは、2013年~2015年という高山右近の最晩年、キリシタン追放令を受けた右近とその家族を中心に、追放の旅路に焦点を当てる。その行路とプロセスが克明に描写されていく。
この追放される旅のプロセスを通して、著者は高山右近像を浮かび上がらせるという構想(観点)を組みあげて行く。その第1の観点は、キリシタン信仰者としての右近の信仰・信念やキリシタン信者への思いを描くということにある。そこには右近と宣教師たちとの関係も勿論描き込まれていく。右近が宣教師たちからどのように見られていたかも浮彫にされていく。第2の観点は、この時期南坊と号した茶人としての右近を描くという側面がある。第3の観点は、かつて武人として生きた右近像をあきらかにしていく。武士の立場を織り込むことで、キリシタン右近がより鮮明に浮かび上がるという側面である。この側面は、追放令を受けて、右近一家と合流する内藤一家の一人、内藤好次が「高山右近伝」をまとめたいという目標を持って、右近から過去の話を聞き出すという形で、旅路の折々に自然な流れとして織り込まれていく。このあたり、巧みな構想になっている。
高山右近という人物を多面的に浮彫にし、眺め、一人格に総合していくことになる。このような多面的視点のアプローチが、護送されながらの追放の旅路というプロセスを単調なものにさせない工夫になっている。
また、高山右近とクレメンテを介して、この旅のプロセスとの関わりにおいて、当時の日本に育まれたキリシタン文化の諸行事の一端や、キリシタン禁止令の発令された渦中でのキリシタンではない人々の反応なども織り込まれていて、当時の風俗・宗教環境がイメージできるという側面もある。
高山右近をキーワードとして、当時の日本とキリスト教及び西洋との関係を理解する上でも役立つ伝記風小説である。
フィクションを交えてという形ではあるが、キリシタン大名高山右近という人物の個性・人格と生き様に惹きつけられていく。一方で、高山右近へのさらなる関心、及び当時のキリシタンの信仰と生き様・隠れキリシタンへの関心を誘発されていく小説である。
ご一読、ありがとうございます。
本書に関連する事項及びそこからの関心事項の広がりでネット検索したことを一覧にしておいたい。
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