遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『容疑者Xの献身』 東野圭吾  文春文庫

2020-05-02 10:59:57 | レビュー
 ガリレオ・シリーズとして、この作品も「オール讀物」に2003年から2005年にかけて連載されたもの。2005年8月に単行本が出版され、2006年に同書で第134回直木賞受賞、併せて第6回本格ミステリ大賞を受賞。さらに2005年度の「週刊文春ミステリーベスト10」「このミステリーがすごい!」「本格ミステリ・ベスト10」各1位にも輝いたと言う。2008年8月に文庫本化されている。(著者紹介より)

 読後感は、やはりな~! 様々な賞を獲得するだけのすごさがある。
 冒頭の導入からさりげなく伏線が織り込まれている。最終段階でそこに伏線が書き込まれていたことに気づくという次第。このミステリーは、後半に出てくる会話のフレーズがベースになっていると思う。それをそのまま主な登場人物の一人である草薙刑事、ひいては読者に投げかける構想が成功していると言える。
 「人に解けない問題を作るのと、その問題を解くのとでは、どちらが難しいか」
 「自分で考えて答えを出すのと、他人から聞いた答えが正しいかどうかを確かめるのとでは、どちらが簡単か」(p300)

 冒頭は、清澄庭園という公園の手前にある私立高校の数学教師石神が、アパートを出て学校まで普段の通勤ルートを歩く情景の描写から始まる。彼は通勤途中で、『べんてん亭』に立ち寄り、昼食用の弁当を購入するのをほぼ日課にしている。その店には、石神の住むアパートの隣室の花岡靖子が店員として働いているからだ。『べんてん亭』の経営者夫妻は、石神が靖子に気があるのではないかと推測している。
 靖子には美里という一人娘がいる。勤め先の『べんてん亭』に、8年前に結婚し5年前に離婚した元夫の富樫が訪ねてくる。復縁したいという口実のもとに、靖子に金をせびりに来たのである。昨年春に今のアパートに靖子は引っ越ししたのだが、富樫はその夜、靖子のアパートの所在地を探し当て、押しかけて来た。
 靖子から金を引き出し、「いっておくがな、お前は俺から逃げられないんだ。」と言って靴を履くために腰を屈めたところを、美里が富樫の後頭部を銅製の花瓶で殴りつけた。そこから靖子がホーム炬燵のコードで必死になって富樫を絞殺してしまうという事態に至る。ストーリーの導入部で、早くも殺人犯人は確定している。
 大きな物音を聞き付けたと言って、隣室の石神が靖子の部屋に現れる。そして、石神は自分に任せろと言う。靖子の殺害事実を隠蔽するための計画を自分が立てて二人に嫌疑がかからないようにすると断言する。靖子と美里は石神の指示通りに動けばよい。もし警察に質問されるような場合には、どのように応対すればよいかまで考えて教えると言う。石神は二人を救うために完全犯罪になるように緻密な計画を立て始める。
 つまり、殺人事件の犯人を知っているのは当事者の靖子・美里と殺害現場を見た石神の3人、並びに読者だけである。

 石神は、富樫殺害の犯人の存在を与件として、犯人を隠蔽し、刑事には解けない完全犯罪という事件をここから作り出す。この問題を解く立場に立つのが草薙刑事と相棒の後輩刑事岸谷であり、草薙に相談を持ちかけられるのがガリレオ先生と呼ばれる湯川ということになる。
 つまり、読者は一面で靖子に準じた目線の立場に立つ。何時、石神の計画にほころびが発生し、逮捕されてしまうことになるのか・・・・である。他面では、石神は草薙刑事の捜査を遮るどのような手を打っているかを楽しむ立場になる。それは、草薙が捜査プロセスで発見した事実から容疑者を追求する上でどのように攪乱されるかを鳥瞰的に眺める立場と言える。

 余談だが、この第3作を読んでいて、ふと気づいたことがある。前2作はストーリーの中で、湯川助教授と記述されていた。本書では、p197で草薙が夜に湯川の研究室を訪ねるときに守衛室で、湯川准教授と会う旨の目的を告げる場面が書き込まれている。助教授ではなく准教授になっている。助教授という名称が、准教授に改正されたのは、2007年の学校教育法の改正による。つまり、単行本出版は2005年、文庫本化は2008年だから、文庫本の出版段階で准教授に改称されたのだろうと推測する。
 2007年の法改正以降、大学での職階は、「教授>准教授>講師>助教>助手」となっている。

 さて、ストーリーの展開プロセスで興味深い点をいくつかご紹介しておこう。
1. 近くに下水処理場が見える旧江戸川の堤防でむごたらしい死体がジョギング中の老人によって発見される。死体は全裸で顔はスイカを割ったように潰され、手の指は焼かれ指紋が完全に破壊されていた。しかし、傍に放置されていた自転車に指紋があり、比較的早く被害者が富樫と判明する。完全犯罪計画を石神が企んだとすれば、なぜそんなレベルの死体遺棄なのか、と読者にまず疑問を持たせる。著者はどう展開するのか・・・・・と。

2. 富樫の線からの聞き込み捜査で、花岡靖子が俎上に上る。草薙は岸谷と組み聞き込み捜査を重ねる。隣室の石神に当然聞き込み捜査をする。そのとき、郵便物に記された帝都大学の文字に草薙が気づく。石神は帝都大学のOB会報だと答える。
 草薙が湯川に石神のことを語ったところから、湯川は石神が同期であり、数学の天才とも言える人間だったと言う。草薙とも学部が違え同期ということになる。つまり、湯川は石神という人間を熟知していた。湯川は草薙に「心の読めない男だろ」と苦笑する。
 つまり、敵に回せば一筋縄ではいかない男ということである。石神と湯川の知恵比べという想定が読者にはでき、ストーリー展開がどうなるか、楽しみの要素が増える。

3. 湯川は草薙に聞いた住所から石神の住まいを訪ねるが、湯川と石神の学生時代の回顧を含めて、二人の間の会話にある種の科学トレビア的な話題がエピソード風に織り込まれていくところが興味深い。キーワードだけ記しておこう。この種の話題を本書で初めて知った。
 エルデッシュ(=ポール・エルデッシュ)信者。A・ケリーが1879年に提出した四色問題。リーマン予想。クレイ数学研究所が賞金をかけ提出したP≠NP問題である。
 また、湯川と草薙の関係を知った石神は、次にそれを与件として、彼の計画遂行で完全犯罪を成功させるために、その対応と組立て直しをはかる。石神にとってこの計画遂行は数学問題の発想の応用とも言える冷徹で論理的な組立てなのだ。

4.富樫が殺害されて発見されたという報道を知った工藤という人物が『べんてん亭』に靖子を訪ねてくる。彼は靖子がクラブで働いていた頃の常連客の一人だった。富樫と靖子の離婚問題の折にも靖子に協力していた。この工藤の登場がどういう影響を及ぼし始めるのか。読者には興味津々となる要素を含んでいくことになる。靖子にとり、工藤は恩人ともいえ、また女として惹かれる存在でもある。一方、石神は靖子に気がある。靖子は石神の思いに気づきつつも、隣人以上には見ていない。石神が工藤の出現をどう扱っていくのか。新たなファクターが計画遂行にどんな影響を投げかけるのか。
 草薙は勿論、工藤の存在を知ると、聞き込み捜査の対象としてアプローチしていく。

5. ここまで殺人事件に関わりその隠蔽工作に石神を駆りたてのめり込ませる動機は何なのか。

 石神が最後にとった行動がすさまじい。読者は唖然として、その先を読み進めることになるだろう。
 「オール讀物」に連載されたときは、『容疑者X』というタイトルだったそうである。それが、『容疑者Xの献身』に改題された。この「献身」という言葉がすごく重みを加えたように感じる。
 このミステリー、お薦めできる一冊である。

 ご一読ありがとうございます。

ふと手に取った作品から私の読書領域の対象、愛読作家の一人に加わりました。
次の本を読み継いできています。こちらもお読みいただけるとうれしいです。
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