文芸誌『小説BOC』創刊号~10号(2016年4月~2018年7月)に連載されたものに加筆・修正を加えて、2019年6月に単行本化された小説。本書も「螺旋プロジェクト」の一冊であり、螺旋年表では、昭和前期を取り扱う位置づけになっている。
この小説は、昭和19年(1944)の夏の盛りを過ぎた時点から始まり、昭和20年(1945)の東京大空襲により東京が焦土と化した3月10日までが時代背景となる。
主人公の一人は、東京の国民学校6年生の浜野清子。学校単位での集団疎開に組み込まれた一人として列車で宮城県に出発する場面からストーリーが始まって行く。清子は妖怪、米英の間諜などと言われ周囲の子どもたちからは忌み嫌われる存在である。それはなぜか? 清子の目が蒼いからだ。
母と食堂を営んでいた父は昭和18年に突然に事故死した。父母が一緒に懇意の農家に蕎麦粉の買い付けに行った帰りの事故だった。母は危ういところを祖母から貰ったお守りで救われ、お守りは身代わりかのように粉みじんに壊れたという。父は普通の人だったが、母は清子と同じ蒼い目だった。清子の母は家の大黒柱の一部をくりぬき、それで螺旋模様を彫り込んだ首飾りをつくった。清子が疎開地へ旅立つ日に、それを清子の首にかけ、自分のかわりとなるお守りだと告げた。
宮城県のとある駅で下車後、10班に編成された生徒たちは、引率の先生に率いられ、順番にそれぞれの疎開先に分かれて行く。5年生と6年生の16人で編成された第10班には、山の方向に2時間ほど歩いた先にある高源寺が決められた疎開先だった。清子を含む第10班の16人と引率の女教師・金井先生は、高源寺の住職家族の世話になり、お寺の本堂を借りて、共同生活を始めることになる。
この高源寺に着いてから、清子は心をざわつかせ反射的に無意識に感応させる存在に気づく。それがもう一人の主人公となるリツという女の子だった。リツもまた清子の存在に感応し、心に爪を立てられたかのように荒立ってしまう。二人の目が合い、互いの存在を確認した途端、清子は無数の棘が肌を刺す感覚を初めて味わい、リツもまた体中の体毛が逆立つ思いを感じた。二人の間には、対立感情、敵意しか生まれなかった。対立の始まりである。
リツは短い前髪のおかっぱ頭で、凛々しい眉が吊り上がり、黒い大きな目と大きくとがった耳を持つ、日焼けした女の子である。集落の国民学校の男児からは「那須野リツは山犬のリツ」と揶揄される。リツの身のこなしや耳の形から山犬と揶揄されている。リツは高源寺の住職家族の一員として育てられている。しかし実は、山中の掘立小屋に一人暮らしをする今谷源助老人が拾った赤児で、高源寺に源助が預けたという経緯があった。拾った子というが、そこにはもっと哀しい現実が背景にある。
リツは学校に行き勉強することより、野山を駆けたり、源助老人のもとに行くことを好んだ。野山の少女である。源助老人を「爺つぁま」と呼んで親しんでいる。また、様々な事を源助から学び取っている。清子の目の蒼いことや嫌悪感を無意識に感じることまで、源助にすべて話していく。そのリツがあるとき、源助の片目が蒼いことに気づく。だが、リツは爺つぁまには敵意や嫌悪感などは一切感じないのだ。
このストーリーには、いくつかのテーマが含まれているように思う。
1.「螺旋プロジェクト」の一環として、海の族と山の族の対立は、清子とリツの間における対立という形で描き出されていく。無意識に起こる対立感情、敵意が互いの間で現出し、それがエスカレートし、爆発する。それがどういう結果になるか。それが主たるテーマとなり、そのプロセスが描かれて行く。
このプロセスを急展開させていく起因は高源寺の住職家族の一員である那須野健次郎に召集令状が来たこと。そして清子の首飾りが盗まれることがトリガーとなる。
それが因となり、どういう状況が連鎖的に起こっていくか。そのプロセスが読ませどころとなる。
2.清子が、あるいはリツが、その周りの子らから嫌われたり、揶揄されたり、除け者にされたりすることで疎外されるときの感情と、海の族と山の族とが接触することで発生する対立感情との質的、次元的な違いを対比的に描き出すこと。このコントラストの描写が補助的テーマとなっている。
3.海の族と山の族の対立を理解し、その両者の間において第三者の立場で関わりを持つ存在の有り様を描く。なぜか源助老人がその立場になる。源助はリツを見守り続ける立場となる。ある意味で仲介者的役割を担う者の存在と限界を描き出すこと。これもまた補助的テーマといえる。
たとえば、リツが目にした清子の首飾りの形を源助に語ると、源助は「まだ、作れるものがいだか」とつぶやく。源助は、リツに「海ど山の話だ」と語り始める。(p71-72)
また、疎開児童たちは山に入り薪拾いの作業をする。その時、清子は炭を背負った源助に出会う。その時源助は清子に言う。「いづかリツがおめえになにがを乞うだら、一度でいい、聞いてけろ。おめえは気進まんだべが、そのどぎだけは折れてけろ」(p88)と。
また、リツが大事件を引き起こした後、源助はリツに言う。「本当に強い者は、憎しみを相手さ向げね。その、自分の憎しみど戦う」(p170)と。この言葉は、再度出てくる。
以下の5の項に関係する文脈でのことだが、源助はリツに言う。「自分が嫌な思いを引ぎ受げ、おめにいい思いをさせる道を選んだ。少なぐども、今朝はな」(p256)と。
4.集団疎開による共同生活がどういう状況であったかを描くこと。そして、その時の教育方針と教育がどういうものだったかを具体的に描くこと。
教育という現場において、集団疎開という史実があったことを、フィクションという形を介してであるが、具体的に描き出し風化させない試みという側面もあると思う。
戦争という対立が生み出した影響と結果の一つを描き込むということになる。ここにもまた、別の次元での対立や疎外が生まれていく。
パラレルに進行するテーマと言えると思う。
5.上記1のテーマの一部とも言えるが、清子の母が経験から体得した対立の止揚について、清子が自ら考え実践するプロセスを描く。これ自体を一つのテーマととらえることもできるだろう。
集団疎開先に、疎開児たちの親たちが一度訪ねて来る。清子の母も高源寺にやって来る。その時、結果的に清子は疎開先の生活での苦しみをすべて母に訴えてしまう。その時、母は清子に言う。「嫌いだという感情をただぶつけるのは、お腹が空いたから泣く赤ん坊と同じ。憎しみを抱いても、争わないでいることはできるはずです」「自制しなさい。好きな相手には、自然に気持ちの良い振る舞いができるもの。だから嫌いな相手には特に意識して、誰よりも丁寧に、親切になさい」と。(p238)
清子は、心を閉ざしていたのは自分のほうかも知れないと受けとめ、身近なところで母の言葉を実践しようと行動を取り始める。寺で共同生活をする疎開児童に対して。また、リツに対して。
己が行動で実践するプロセスを通して、清子は気づく。次の一文が記されている。
「蒼い目を理由に意地悪の炎をつけたのは周りの子だが、炎に油を注いだのは自分自身だったと、清子は気づいたのだった」(p264)
昭和20年3月に、清子たち6年生が卒業とその先の受験を控え、東京に戻る日が来る。帰京の列車が出発する直前に再び問題事象が起こる。それは運命の分かれ目にもなっていく。
このストーリーを貫くキーワードは「首飾り」である。後は本書を読み、その意味を確かめていただきたい。
最後に、本書のタイトル「コイコワレ」は、考えて見ると、主人公の浜野清子、リツ、那須野健次郎、疎開児童のそれぞれが、それぞれの胸中に抱く思いが重層化された言葉として選択されているのだと思った。様々な色合いの思いと重みを重ね合わせ凝縮した「コイコワレ」である。
ご一読、ありがとうございます。
本書からの関心事項として、幾つか検索してみた。一覧にしておきたい。
集団疎開 :「コトバンク」
学童疎開 :「コトバンク」
疎開 :ウィキペディア
資料室 戦争に伴う学童疎開の記録 :「京都市学校歴史博物館」
戦争体験談「集団疎開の思い出」 池田眞砂子さん :「西宮市」
児童と集団疎開 終戦翌年まで 語り継ぐ戦争 :「朝日新聞DIGITAL」
しながわのチ・カ・ラ しながわの学童集団疎開PART2 :YouTube
子どもたちを空襲からまもるための「学童疎開」 :「総務省」
子供たちの見た戦争 はだしのゲンとともに 「企画展を見よう」
東京大空襲・戦災資料センター ホームページ
東京大空襲 :ウィキペディア
75年前、首都はなぜ焼き尽くされた 東京大空襲を知る:「朝日新聞DIGITAL」
東京大空襲 B 29 無差別爆撃と被害 YouTube
【東京大空襲75年】「無差別爆撃」ではなく非戦闘員と住宅地をあえて狙った「選別爆撃」と「政治的爆撃」としての東京大空襲/「処刑」されたB-29の米兵や忌み嫌われた戦災孤児、そして国に見捨てられた空襲被害者たち :「note」
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「螺旋」プロジェクトに関連する次の小説の読後印象をまとめています。
こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『月人壮士 つきひとおとこ』 澤田瞳子 中央公論新社
『蒼色の大地』 薬丸 岳 中央公論新社
この小説は、昭和19年(1944)の夏の盛りを過ぎた時点から始まり、昭和20年(1945)の東京大空襲により東京が焦土と化した3月10日までが時代背景となる。
主人公の一人は、東京の国民学校6年生の浜野清子。学校単位での集団疎開に組み込まれた一人として列車で宮城県に出発する場面からストーリーが始まって行く。清子は妖怪、米英の間諜などと言われ周囲の子どもたちからは忌み嫌われる存在である。それはなぜか? 清子の目が蒼いからだ。
母と食堂を営んでいた父は昭和18年に突然に事故死した。父母が一緒に懇意の農家に蕎麦粉の買い付けに行った帰りの事故だった。母は危ういところを祖母から貰ったお守りで救われ、お守りは身代わりかのように粉みじんに壊れたという。父は普通の人だったが、母は清子と同じ蒼い目だった。清子の母は家の大黒柱の一部をくりぬき、それで螺旋模様を彫り込んだ首飾りをつくった。清子が疎開地へ旅立つ日に、それを清子の首にかけ、自分のかわりとなるお守りだと告げた。
宮城県のとある駅で下車後、10班に編成された生徒たちは、引率の先生に率いられ、順番にそれぞれの疎開先に分かれて行く。5年生と6年生の16人で編成された第10班には、山の方向に2時間ほど歩いた先にある高源寺が決められた疎開先だった。清子を含む第10班の16人と引率の女教師・金井先生は、高源寺の住職家族の世話になり、お寺の本堂を借りて、共同生活を始めることになる。
この高源寺に着いてから、清子は心をざわつかせ反射的に無意識に感応させる存在に気づく。それがもう一人の主人公となるリツという女の子だった。リツもまた清子の存在に感応し、心に爪を立てられたかのように荒立ってしまう。二人の目が合い、互いの存在を確認した途端、清子は無数の棘が肌を刺す感覚を初めて味わい、リツもまた体中の体毛が逆立つ思いを感じた。二人の間には、対立感情、敵意しか生まれなかった。対立の始まりである。
リツは短い前髪のおかっぱ頭で、凛々しい眉が吊り上がり、黒い大きな目と大きくとがった耳を持つ、日焼けした女の子である。集落の国民学校の男児からは「那須野リツは山犬のリツ」と揶揄される。リツの身のこなしや耳の形から山犬と揶揄されている。リツは高源寺の住職家族の一員として育てられている。しかし実は、山中の掘立小屋に一人暮らしをする今谷源助老人が拾った赤児で、高源寺に源助が預けたという経緯があった。拾った子というが、そこにはもっと哀しい現実が背景にある。
リツは学校に行き勉強することより、野山を駆けたり、源助老人のもとに行くことを好んだ。野山の少女である。源助老人を「爺つぁま」と呼んで親しんでいる。また、様々な事を源助から学び取っている。清子の目の蒼いことや嫌悪感を無意識に感じることまで、源助にすべて話していく。そのリツがあるとき、源助の片目が蒼いことに気づく。だが、リツは爺つぁまには敵意や嫌悪感などは一切感じないのだ。
このストーリーには、いくつかのテーマが含まれているように思う。
1.「螺旋プロジェクト」の一環として、海の族と山の族の対立は、清子とリツの間における対立という形で描き出されていく。無意識に起こる対立感情、敵意が互いの間で現出し、それがエスカレートし、爆発する。それがどういう結果になるか。それが主たるテーマとなり、そのプロセスが描かれて行く。
このプロセスを急展開させていく起因は高源寺の住職家族の一員である那須野健次郎に召集令状が来たこと。そして清子の首飾りが盗まれることがトリガーとなる。
それが因となり、どういう状況が連鎖的に起こっていくか。そのプロセスが読ませどころとなる。
2.清子が、あるいはリツが、その周りの子らから嫌われたり、揶揄されたり、除け者にされたりすることで疎外されるときの感情と、海の族と山の族とが接触することで発生する対立感情との質的、次元的な違いを対比的に描き出すこと。このコントラストの描写が補助的テーマとなっている。
3.海の族と山の族の対立を理解し、その両者の間において第三者の立場で関わりを持つ存在の有り様を描く。なぜか源助老人がその立場になる。源助はリツを見守り続ける立場となる。ある意味で仲介者的役割を担う者の存在と限界を描き出すこと。これもまた補助的テーマといえる。
たとえば、リツが目にした清子の首飾りの形を源助に語ると、源助は「まだ、作れるものがいだか」とつぶやく。源助は、リツに「海ど山の話だ」と語り始める。(p71-72)
また、疎開児童たちは山に入り薪拾いの作業をする。その時、清子は炭を背負った源助に出会う。その時源助は清子に言う。「いづかリツがおめえになにがを乞うだら、一度でいい、聞いてけろ。おめえは気進まんだべが、そのどぎだけは折れてけろ」(p88)と。
また、リツが大事件を引き起こした後、源助はリツに言う。「本当に強い者は、憎しみを相手さ向げね。その、自分の憎しみど戦う」(p170)と。この言葉は、再度出てくる。
以下の5の項に関係する文脈でのことだが、源助はリツに言う。「自分が嫌な思いを引ぎ受げ、おめにいい思いをさせる道を選んだ。少なぐども、今朝はな」(p256)と。
4.集団疎開による共同生活がどういう状況であったかを描くこと。そして、その時の教育方針と教育がどういうものだったかを具体的に描くこと。
教育という現場において、集団疎開という史実があったことを、フィクションという形を介してであるが、具体的に描き出し風化させない試みという側面もあると思う。
戦争という対立が生み出した影響と結果の一つを描き込むということになる。ここにもまた、別の次元での対立や疎外が生まれていく。
パラレルに進行するテーマと言えると思う。
5.上記1のテーマの一部とも言えるが、清子の母が経験から体得した対立の止揚について、清子が自ら考え実践するプロセスを描く。これ自体を一つのテーマととらえることもできるだろう。
集団疎開先に、疎開児たちの親たちが一度訪ねて来る。清子の母も高源寺にやって来る。その時、結果的に清子は疎開先の生活での苦しみをすべて母に訴えてしまう。その時、母は清子に言う。「嫌いだという感情をただぶつけるのは、お腹が空いたから泣く赤ん坊と同じ。憎しみを抱いても、争わないでいることはできるはずです」「自制しなさい。好きな相手には、自然に気持ちの良い振る舞いができるもの。だから嫌いな相手には特に意識して、誰よりも丁寧に、親切になさい」と。(p238)
清子は、心を閉ざしていたのは自分のほうかも知れないと受けとめ、身近なところで母の言葉を実践しようと行動を取り始める。寺で共同生活をする疎開児童に対して。また、リツに対して。
己が行動で実践するプロセスを通して、清子は気づく。次の一文が記されている。
「蒼い目を理由に意地悪の炎をつけたのは周りの子だが、炎に油を注いだのは自分自身だったと、清子は気づいたのだった」(p264)
昭和20年3月に、清子たち6年生が卒業とその先の受験を控え、東京に戻る日が来る。帰京の列車が出発する直前に再び問題事象が起こる。それは運命の分かれ目にもなっていく。
このストーリーを貫くキーワードは「首飾り」である。後は本書を読み、その意味を確かめていただきたい。
最後に、本書のタイトル「コイコワレ」は、考えて見ると、主人公の浜野清子、リツ、那須野健次郎、疎開児童のそれぞれが、それぞれの胸中に抱く思いが重層化された言葉として選択されているのだと思った。様々な色合いの思いと重みを重ね合わせ凝縮した「コイコワレ」である。
ご一読、ありがとうございます。
本書からの関心事項として、幾つか検索してみた。一覧にしておきたい。
集団疎開 :「コトバンク」
学童疎開 :「コトバンク」
疎開 :ウィキペディア
資料室 戦争に伴う学童疎開の記録 :「京都市学校歴史博物館」
戦争体験談「集団疎開の思い出」 池田眞砂子さん :「西宮市」
児童と集団疎開 終戦翌年まで 語り継ぐ戦争 :「朝日新聞DIGITAL」
しながわのチ・カ・ラ しながわの学童集団疎開PART2 :YouTube
子どもたちを空襲からまもるための「学童疎開」 :「総務省」
子供たちの見た戦争 はだしのゲンとともに 「企画展を見よう」
東京大空襲・戦災資料センター ホームページ
東京大空襲 :ウィキペディア
75年前、首都はなぜ焼き尽くされた 東京大空襲を知る:「朝日新聞DIGITAL」
東京大空襲 B 29 無差別爆撃と被害 YouTube
【東京大空襲75年】「無差別爆撃」ではなく非戦闘員と住宅地をあえて狙った「選別爆撃」と「政治的爆撃」としての東京大空襲/「処刑」されたB-29の米兵や忌み嫌われた戦災孤児、そして国に見捨てられた空襲被害者たち :「note」
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その点、ご寛恕ください。)
「螺旋」プロジェクトに関連する次の小説の読後印象をまとめています。
こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『月人壮士 つきひとおとこ』 澤田瞳子 中央公論新社
『蒼色の大地』 薬丸 岳 中央公論新社