この小説の終極に近いセクション32に、「綾音にとっての結婚生活とは、絞首台に立った夫を救済し続ける毎日だったのだ」という一文がある。「聖女の救済」という言葉はここに由来するようだ。聖女は綾音をさすことになる。
綾音は真柴義孝と結婚し後少しで1年を迎える。綾音はパッチワーク作家で、代官山に「アンズハウス」というパッチワーク教室を開校している。義孝はIT関連の会社を経営する社長だ。綾音には若山宏美という弟子がいる。「アンズハウス」には約30人の生徒が綾音直伝のパッチワークを習いに来ていて、宏美はその指導の手伝いをしている。宏美は真柴夫妻の自宅に出入りもしている。一方、義孝は猪飼という弁護士を会社の顧問として迎えていて、猪飼とは親しい間柄である。猪飼を伴い義孝はあるお見合いパーティの会場に行く。そこで義孝は綾音と出会い、わずかの交際期間の後に二人は結婚するという形に進展した。結果的に猪飼はその会場での二人の出会いの証人となる。
このストーリーは、義孝が猪飼夫妻を自宅に招き、ホームパーティを開くという日から始まって行く。猪飼夫妻がやってくる前に、義孝は綾音に結婚前に話していた己のライフプランの話に触れ、「俺はそう思うんだ。信じているし、その信念を変える気はない。で、信念を変えない以上、子供を持てる見込みのない生活を続けるわけにはいかない」と告げる。離婚宣告である。綾音との間には、子供が生まれる兆候が今までになかった。
猪飼夫妻が訪れて始まるホームパーティには、若山宏美も参加する。猪飼夫妻の間には2ヵ月前に、待望の赤ん坊ができたところだった。猪飼達彦は42歳、由紀子は35歳であり、二人は滑り込みセーフという台詞を何度も口にしていた。猪飼夫妻へのお祝いのパーティだった。パーティは和やかな雰囲気で午後11時過ぎに終わる。
その翌日から、綾音は父の具合が良くないからという理由で、2,3日札幌の実家に帰ることにした。帰る前に綾音は、翌朝パッチワーク教室の前で待ち、宏美に自宅の鍵を預けて、札幌に向かった。
宏美は義孝との間に関係ができていた。綾音が札幌に発った日、パッチワーク教室の仕事が夜まで続き、最後の生徒を送り出した頃に、義孝は宏美の携帯電話に連絡を取ってきた。自宅で会おうと言うのだ。義孝は綾音が離婚を納得したと言う。そういうルールだったからだと。
翌日の日曜日、宏美は綾音から引き継いだ池袋のカルチャースクールの講師のアルバイトがあった。義孝は宏美の仕事が終わった後一緒に夕食を摂ろうと言い、電話をしてくれと宏美に言っていた。宏美は義孝に電話を入れるが繋がらない。結局、真柴家まで行き、リビングルームに灯りがともっていたので、綾音から預かっていた鍵で中に入る。義孝が自分で入れたのだろうコーヒーの匂いがしていた。リビングルームのドアを開ける。そして、義孝が死んでいるのを発見する。
宏美は119番に通報し、救急隊員が死亡を確認、近所の医者に来てもらい死体を診てもらったところ死因に不審な点があるとのこと。そこで救急隊員が所轄署に連絡を取った。内海薫と岸谷、係長が先着していて、草薙が現場に到着する。
死因は毒物の疑いが濃厚だが、自殺・他殺の両面が考えられ、お呼びがかかったのだ。後に、残っていたコーヒーから亜ヒ酸ナトリウムが検出された。初動捜査から他殺と判断され、本格的な捜査が始まって行く。草薙・内海らがこの事件を担当していくことになる。
このストーリーの展開でおもしろい点がいくつかある。
1. 綾音とのコンタクトが取れ、草薙は義孝の死について伝える必要性から空港に綾音を出迎えに行った。綾音を空港で見るなり、綾音に魅了されてしまう。本文では次のように描写されている。
「彼は動揺していた。彼女から目が離せなかった。なぜ自分の心がこれほどまでに揺さぶられるのか、自分でもわからなかった」(p51)と。
被害者義孝の妻綾音には土曜日・日曜日、札幌に帰省していて、北海道に滞在していたアリバイが厳然とあった。勿論、草薙と内海は札幌に飛び、その裏付け捜査を実施し、その確証をとる。
草薙は、綾音は殺人事件とは無関係という立場を取る。綾音を捜査対象に考えようとせず、綾音に同情的な雰囲気を示す。
事件の捜査が進展する中で、草薙のスタンスと心理がどのように変化するのかしないのか。そこが今までにない設定でおもしろいところである。
2. 第一発見者の若山宏美がまず定石的に疑われる。そして彼女のアリバイ捜査と周辺捜査が進められる。その結果、宏美を被疑者から除外する決定的な理由が明らかになっていく。この本人への聴き取りと周辺捜査のプロセスおよび揺れ動く宏美の心理描写がまず一つの読ませどころである。
3.殺害された義孝がどのような人物だったか? この点も殺人犯を追跡する上での重要事項として周辺捜査が進められる。猪飼達彦への聴き取りから始まり、少しずつ義孝の隠された過去の部分が明らかになっていく。草薙は思わぬ糸口にたどり着く。
4.綾音に魅了されている草薙には無断で、内海は独断で行動し、湯川に相談を持ちかけ協力を依頼することに。警察との関わりはもう持ちたくないと当初拒絶していた湯川は、内海の説明を聞かされて、完全犯罪的な事件の状況に関心を抱く。内海に協力する行動に豹変する。待望のガリレオ先生の登場である。内海は一貫して綾音が犯人である可能性を捨てずに捜査活動を進める。何らかの殺害方法があるはずだ・・・・と。
内海はちゃんと湯川の指示しそうな情報はとりまとめて持参していた。判明している客観的事実情報をベースに、湯川の論理的な分析と推論、仮説設定が始まって行く。勿論、例の如く、現場を検分したいという湯川の要望に内海は対応していく。途中から草薙が湯川の協力を知ることに。だが、草薙は湯川とは一歩距離を置く。
湯川の推論と仮説設定がどのように展開していくか。これが読ませどころとなるのはいつもの通りである。湯川は一つの仮説が駄目になろうと意に介さない。科学の考え方とはそういうものだと。
湯川の推論と仮説の構築・瓦解のステップ・アップがどのように展開していくかをお楽しみいただきたい。
5. この事件に協力する行動に乗りだした湯川の興味深い発言をいくつか抽出して、ご紹介しておこう。
*内海に対しての発言
「だけど僕は科学者だからね。心理的に不自然な説と物理的に不可能な説では、どっちを選ぶかと訊かれれば、多少抵抗はあっても前者を選ばざるをえない。」 p221
*内海に対しての発言(毒を入れる方法について)
「僕が出した結論は、この方程式に解はない・・・・ただ一つを除いてね。ただし、虚数解だ。理論的には考えられるが、現実的にはありえない、という意味だ。・・・・それを実行した可能性は、限りなくゼロに近い。わかるかい? トリックは可能だが、実行することは不可能だということなんだ」 p287
*草薙に対しての発言
「特別な感情を持ったって、別に構わないんじゃないか。僕は君のことを、感情によって刑事としての信念を曲げてしまうような弱い人間ではないと信じている。それともう一つ、君がいっていることは、おそらく正しい。彼女は愚かな人間ではない」 p336
完全犯罪に近い状況をどう打破できるか。湯川の推論が最後には勝った。
その最終的証拠になるものを、何と草薙が保管していたのだから、おもしろい。
冒頭の引用文の持つ意味の重みを楽しんでいただきたいと思う。
ご一読ありがとうございます。
本書に関連して、関心をいだいた事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
パッチワーク :「コトバンク」
パッチワークって何? パッチワークの歴史 :「FELI-DA フェリダ」
亜ヒ酸ナトリウム :「国際化学物質安全性カード(ICSCs)」
SPring-8とは? :「SPring-8 大型放射光施設」
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
ふと手に取った作品から私の読書領域の対象、愛読作家の一人に加わりました。
次の本を読み継いできています。こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『ガリレオの苦悩』 文春文庫
『容疑者Xの献身』 文春文庫
『予知夢』 文春文庫
『探偵ガリレオ』 文春文庫
『マスカレード・イブ』 集英社文庫
『夢幻花』 PHP文芸文庫
『祈りの幕が下りる時』 講談社文庫
『赤い指』 講談社文庫
『嘘をもうひとつだけ』 講談社文庫
『私が彼を殺した』 講談社文庫
『悪意』 講談社文庫
『どちらかが彼女を殺した』 講談社文庫
『眠りの森』 講談社文庫
『卒業』 講談社文庫
『新参者』 講談社
『麒麟の翼』 講談社
『プラチナデータ』 幻冬舎
『マスカレード・ホテル』 集英社
綾音は真柴義孝と結婚し後少しで1年を迎える。綾音はパッチワーク作家で、代官山に「アンズハウス」というパッチワーク教室を開校している。義孝はIT関連の会社を経営する社長だ。綾音には若山宏美という弟子がいる。「アンズハウス」には約30人の生徒が綾音直伝のパッチワークを習いに来ていて、宏美はその指導の手伝いをしている。宏美は真柴夫妻の自宅に出入りもしている。一方、義孝は猪飼という弁護士を会社の顧問として迎えていて、猪飼とは親しい間柄である。猪飼を伴い義孝はあるお見合いパーティの会場に行く。そこで義孝は綾音と出会い、わずかの交際期間の後に二人は結婚するという形に進展した。結果的に猪飼はその会場での二人の出会いの証人となる。
このストーリーは、義孝が猪飼夫妻を自宅に招き、ホームパーティを開くという日から始まって行く。猪飼夫妻がやってくる前に、義孝は綾音に結婚前に話していた己のライフプランの話に触れ、「俺はそう思うんだ。信じているし、その信念を変える気はない。で、信念を変えない以上、子供を持てる見込みのない生活を続けるわけにはいかない」と告げる。離婚宣告である。綾音との間には、子供が生まれる兆候が今までになかった。
猪飼夫妻が訪れて始まるホームパーティには、若山宏美も参加する。猪飼夫妻の間には2ヵ月前に、待望の赤ん坊ができたところだった。猪飼達彦は42歳、由紀子は35歳であり、二人は滑り込みセーフという台詞を何度も口にしていた。猪飼夫妻へのお祝いのパーティだった。パーティは和やかな雰囲気で午後11時過ぎに終わる。
その翌日から、綾音は父の具合が良くないからという理由で、2,3日札幌の実家に帰ることにした。帰る前に綾音は、翌朝パッチワーク教室の前で待ち、宏美に自宅の鍵を預けて、札幌に向かった。
宏美は義孝との間に関係ができていた。綾音が札幌に発った日、パッチワーク教室の仕事が夜まで続き、最後の生徒を送り出した頃に、義孝は宏美の携帯電話に連絡を取ってきた。自宅で会おうと言うのだ。義孝は綾音が離婚を納得したと言う。そういうルールだったからだと。
翌日の日曜日、宏美は綾音から引き継いだ池袋のカルチャースクールの講師のアルバイトがあった。義孝は宏美の仕事が終わった後一緒に夕食を摂ろうと言い、電話をしてくれと宏美に言っていた。宏美は義孝に電話を入れるが繋がらない。結局、真柴家まで行き、リビングルームに灯りがともっていたので、綾音から預かっていた鍵で中に入る。義孝が自分で入れたのだろうコーヒーの匂いがしていた。リビングルームのドアを開ける。そして、義孝が死んでいるのを発見する。
宏美は119番に通報し、救急隊員が死亡を確認、近所の医者に来てもらい死体を診てもらったところ死因に不審な点があるとのこと。そこで救急隊員が所轄署に連絡を取った。内海薫と岸谷、係長が先着していて、草薙が現場に到着する。
死因は毒物の疑いが濃厚だが、自殺・他殺の両面が考えられ、お呼びがかかったのだ。後に、残っていたコーヒーから亜ヒ酸ナトリウムが検出された。初動捜査から他殺と判断され、本格的な捜査が始まって行く。草薙・内海らがこの事件を担当していくことになる。
このストーリーの展開でおもしろい点がいくつかある。
1. 綾音とのコンタクトが取れ、草薙は義孝の死について伝える必要性から空港に綾音を出迎えに行った。綾音を空港で見るなり、綾音に魅了されてしまう。本文では次のように描写されている。
「彼は動揺していた。彼女から目が離せなかった。なぜ自分の心がこれほどまでに揺さぶられるのか、自分でもわからなかった」(p51)と。
被害者義孝の妻綾音には土曜日・日曜日、札幌に帰省していて、北海道に滞在していたアリバイが厳然とあった。勿論、草薙と内海は札幌に飛び、その裏付け捜査を実施し、その確証をとる。
草薙は、綾音は殺人事件とは無関係という立場を取る。綾音を捜査対象に考えようとせず、綾音に同情的な雰囲気を示す。
事件の捜査が進展する中で、草薙のスタンスと心理がどのように変化するのかしないのか。そこが今までにない設定でおもしろいところである。
2. 第一発見者の若山宏美がまず定石的に疑われる。そして彼女のアリバイ捜査と周辺捜査が進められる。その結果、宏美を被疑者から除外する決定的な理由が明らかになっていく。この本人への聴き取りと周辺捜査のプロセスおよび揺れ動く宏美の心理描写がまず一つの読ませどころである。
3.殺害された義孝がどのような人物だったか? この点も殺人犯を追跡する上での重要事項として周辺捜査が進められる。猪飼達彦への聴き取りから始まり、少しずつ義孝の隠された過去の部分が明らかになっていく。草薙は思わぬ糸口にたどり着く。
4.綾音に魅了されている草薙には無断で、内海は独断で行動し、湯川に相談を持ちかけ協力を依頼することに。警察との関わりはもう持ちたくないと当初拒絶していた湯川は、内海の説明を聞かされて、完全犯罪的な事件の状況に関心を抱く。内海に協力する行動に豹変する。待望のガリレオ先生の登場である。内海は一貫して綾音が犯人である可能性を捨てずに捜査活動を進める。何らかの殺害方法があるはずだ・・・・と。
内海はちゃんと湯川の指示しそうな情報はとりまとめて持参していた。判明している客観的事実情報をベースに、湯川の論理的な分析と推論、仮説設定が始まって行く。勿論、例の如く、現場を検分したいという湯川の要望に内海は対応していく。途中から草薙が湯川の協力を知ることに。だが、草薙は湯川とは一歩距離を置く。
湯川の推論と仮説設定がどのように展開していくか。これが読ませどころとなるのはいつもの通りである。湯川は一つの仮説が駄目になろうと意に介さない。科学の考え方とはそういうものだと。
湯川の推論と仮説の構築・瓦解のステップ・アップがどのように展開していくかをお楽しみいただきたい。
5. この事件に協力する行動に乗りだした湯川の興味深い発言をいくつか抽出して、ご紹介しておこう。
*内海に対しての発言
「だけど僕は科学者だからね。心理的に不自然な説と物理的に不可能な説では、どっちを選ぶかと訊かれれば、多少抵抗はあっても前者を選ばざるをえない。」 p221
*内海に対しての発言(毒を入れる方法について)
「僕が出した結論は、この方程式に解はない・・・・ただ一つを除いてね。ただし、虚数解だ。理論的には考えられるが、現実的にはありえない、という意味だ。・・・・それを実行した可能性は、限りなくゼロに近い。わかるかい? トリックは可能だが、実行することは不可能だということなんだ」 p287
*草薙に対しての発言
「特別な感情を持ったって、別に構わないんじゃないか。僕は君のことを、感情によって刑事としての信念を曲げてしまうような弱い人間ではないと信じている。それともう一つ、君がいっていることは、おそらく正しい。彼女は愚かな人間ではない」 p336
完全犯罪に近い状況をどう打破できるか。湯川の推論が最後には勝った。
その最終的証拠になるものを、何と草薙が保管していたのだから、おもしろい。
冒頭の引用文の持つ意味の重みを楽しんでいただきたいと思う。
ご一読ありがとうございます。
本書に関連して、関心をいだいた事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
パッチワーク :「コトバンク」
パッチワークって何? パッチワークの歴史 :「FELI-DA フェリダ」
亜ヒ酸ナトリウム :「国際化学物質安全性カード(ICSCs)」
SPring-8とは? :「SPring-8 大型放射光施設」
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
ふと手に取った作品から私の読書領域の対象、愛読作家の一人に加わりました。
次の本を読み継いできています。こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『ガリレオの苦悩』 文春文庫
『容疑者Xの献身』 文春文庫
『予知夢』 文春文庫
『探偵ガリレオ』 文春文庫
『マスカレード・イブ』 集英社文庫
『夢幻花』 PHP文芸文庫
『祈りの幕が下りる時』 講談社文庫
『赤い指』 講談社文庫
『嘘をもうひとつだけ』 講談社文庫
『私が彼を殺した』 講談社文庫
『悪意』 講談社文庫
『どちらかが彼女を殺した』 講談社文庫
『眠りの森』 講談社文庫
『卒業』 講談社文庫
『新参者』 講談社
『麒麟の翼』 講談社
『プラチナデータ』 幻冬舎
『マスカレード・ホテル』 集英社