月刊誌『芸術新潮』にトキワ荘についての特集が組まれていることを友人のブログで知った。上掲の表紙の写真が載っていた。2020年11月号である。p14からp83に特集が組まれている。「トキワ荘と日本マンガの夜明け」である。
東京に出た手塚治虫が「トキワ荘」というアパートの一室を22ヶ月間、活動拠点とした。そのアパートに若手マンガ家たちが集まった時期があったということを何かで知り、「トキワ荘」という言葉が頭の隅に残ったのだが、それ以上のことは知らなかった。そのトキワ荘が「日本マンガの夜明け」を開いていくマンガ家たちを生み出す母胎となった。トキワ荘はそれらマンガ家として独自の作風・世界を築き上げて行く若者たちをどのように受け入れ、そこでどのような人間関係の絆が育まれたのか。トキワ荘のことが世に知られたのは、その拠点からマンガ家たちが順次退居し居なくなり、さらに10年護のことだと言う。
この特集でトキワ荘とマンガ家たちの全体像が理解でき、興味深くかつ面白く読めた。
トキワ荘は西武池袋線「椎名町」が最寄り駅で、椎名町五丁目2253番地にあった。2階建ての木造アパート、ひと部屋は4畳半、1階と2階にそれぞれ10部屋ずつあるという建物だった。建物だったというのは既に取り壊されて、その跡地は今はある出版社のビルになっているからだ。今、建物の傍に「トキワ荘跡地モニュメント」が設置されている。
そのトキワ荘が、「豊島区立トキワ荘マンガミュージアム」として、2020年7月7日にオープンした。かつてのトキワ荘の建物がリアルな再現で甦ったのだ!
その所在地は、豊島区南長崎3-9-22。元のトキワ荘からすれば、南長崎通りを挟んで、少し西方向にある「南長崎花咲公園」の南端に再現された。インターネットで現在のマピオンの地図を確認すると、「南長崎通り、南長崎花咲公園」の名称で記されている。本書ではp40の地図が掲載されているが、「トキワ荘通り、トキワ荘公園(南長崎花咲公園)」と記されている。通称の方が普通に使われていくのではないだろうか。最寄り駅は都営大江戸線「落合南長崎駅」になった。
記事によると、このトキワ荘マンガミュージアムは、鉄骨造り、コンクリートの建物なのだが、二重構造になっていて当時の木造建物のように見えるように再現され、2階に上がる階段のギシギシ音も超リアルに再現されているという。p30~p36には、2階の廊下、当時居住していたマンガ家たちの部屋の状況が忠実に再現された写真が載っている。2階の窓を開けて当時見えた景色が絵で再現されている。私を含めて、そう簡単にこのミュージアムまで出かけて見ることができない人にとっては、トキワ荘のイメージが湧きやすくて便利だ。
この特集、以下の構成になっている。簡単な読後印象を織り込んでご紹介しよう。
◎見開きで「トキワ荘ジオラマ」(ジオラマ作家・山本高樹さん製作)の写真
2階の各部屋の全体風景がわかって楽しい。
◎「トキワ荘」とは?
2階のどの部屋に誰が住んでいたか、手塚治虫を筆頭に、居住者たちの顔マンガ付きでトキワ荘がらみのプロフィール紹介が行われている。棒グラフ形式で、「トキワ荘居住期間年表」が載っている。これを見ると、手塚治虫が昭和28(1953)年1月に入居し、29年10月にトキワ荘を出るまでの期間には、昭和28年12月に入居した寺田ヒロオが重なるだけだ。手塚治虫が退居した後に、マンガ家たちが順次入退居していく。寺田ヒロオが当初は、彼等のまとめ役だったという。
◎絵物語「トキワ荘の青春」 絵:吉本浩二 文:編集部
手塚治虫の「ジャングル大帝」最終回の原稿描きの折り、手塚に声を掛けられて藤子不二雄?がアシストしたエピソードから始まり、トキワ荘でのマンガ家たちの青春の一コマをエピソードでつないで行く。最後のエピソード11は「さようならトキワ荘」。手塚の入居で始まるトキワ荘は、昭和37(1962)年3月に山内ジョージが退居したことで、「トキワ荘に、マンガ家とそのアシスタントはひとりもいなくなった。」(p29)約10年間、マンガ家たちが住んでいた。
「トキワ荘とは?」に記されているが、「トキワ荘」のことが世に知られるようになったのは、『トキワ荘物語』の出版、藤子不二雄Aの作品「まんが道」とそのドラマ化などによるそうだ。
◎グラフ ようこそ!トキワ荘マンガミュージアムへ
ここは上記で触れている。
◎ミュージアム建設の関係者へのインタビュー記事
地域住民の夢実現の経緯を豊島区長・高野之夫氏が語る。そして、超リアルな建物再現の道のりを丹青社のクリエイティブディレクターの加藤剛氏が語る。それぞれ、興味深い裏話である。
◎「トキワ荘周辺ガイド」と「トキワ荘こぼれ話」
こぼれ話は、その後にも各所に載っている。こぼれ話がなかなかおもしろい!
◎かつてのトキワ荘住人の思い出話
鈴木伸一、水野英子、よこたとくお、山内ジョージ各氏がインタビューに答えて語った話がまとめられている。当時の様子がわかっておもしろい。特に印象深い箇所を引用してみよう。
*手塚先生が雑誌でどんどん描くようになって、マンガの世界をひっくり返しちゃったんですよ。手塚以前、手塚以降で、変わってしまった。(鈴木伸一 p43)
*その大胆なコマ割りには驚きました。見開き、縦長、斜め取りなどのコマ割りの斬新な表現は、みな石森さんが始めたものです。(水野英子 p44)
*手塚イズムを胸に 何があっても手を抜かないこと、誰も描いていないものに挑戦すること、自分が本当に描きたいものを描くことを理想とし、みなさんと机を並べてマンガを描けたことは素晴らしい経験でした。 (水野英子 p45)
*マンガというのは、何を描いたって構わないんです。・・・やはり漫画家自身が本当に好きなものを描いてこそ、その情熱が読者に伝わる。(水野英子 p45)
*でもいちばん楽しかったのは、小松川の赤塚氏のうちに泊まりに行っていた頃ですね。夢があってね。お互いにマンガ家になろうと、夢がいっぱいだったから、楽しかったなあ。(よこたとくお p47)
*あの頃は、大人のンガを描いている人はマンガ家として認知されていたけれど、児童マンガはそれよりずっと下の存在でした。新聞に描いている近藤日出造とか横山隆一とか長谷川町子はマンガ家として見られていたけど、手塚先生も、デッサン力がないとか、よく悪口を言われていました。 (山内ジョージ p48)
◎黎明期のマンガ進化論 文 中条昌平 学習院大学教授、手塚治虫文化賞選好委員
タイトルの下に記されたキャプションを紹介する。「少年たちは、手塚治虫作品のどこに衝撃を受けたのか? そして、トキワ荘のマンガ家たち自身の表現上の挑戦とはー-。」
手塚治虫のマンガ作品のコマを筆頭に、トキワ荘のマンガ家たちの作品から、マンガのコマを引用しながら論じていて、興味深い。日本のマンガが大きく広がりうねりだす状況がイメージしやすくなる。
◎水野英子と「少女マンガ」誕生
少女マンガには縁がなかったので、私はこの特集記事で初めて知ったマンガ家だ。
「水野英子は少女マンガを描いたのではない、水野英子の描くものがすなわち少女マンガになったのである」(p58)そうだ。いわば、パイオニアなんだ!
◎厳選!トキワ荘時代の貴重マンガ再録
「漫画少年」「漫画王」の掲載された作品と「墨汁一滴」(東日本漫画研究会誌)の一部ページ。まさに保存版と言えるマンガが収録されている。
現在の高齢者にとっては、なつかしく思う人々が多いのではなかろうか。
◎秘蔵グラフ 手塚九州逃避行写真とトキワ荘からの年賀状
上掲の各所での記述に関連する写真が一葉載っている。「ぼくのそんごくう」代筆事件に絡む写真だという。マンガ家の個性豊かな年賀状が4例紹介されている。
◎エピローグ マンガ家たちのそれから
トキワ荘を退居した後のマンガ家たちのマンガ人生を簡潔にまとめている。
「早すぎた死」の節で、手塚治虫(1989年、60)、藤子・F・不二雄(1996年、62)、石ノ森章太郎(1998年、60)、赤塚不二夫(208年、72)、森安なおや(1999年、64)の死に触れている。最後の節で寺田ヒロオ(1992年、61)の死にも触れられている。括弧内の西暦年は逝去年、数字は享年を示す。
特集としてはこれで終わりだが、その続きに「トキワ荘ワールドをもっと楽しむための展覧会&施設案内」が見開き2ページで紹介されている。手塚治虫の記念館は知っていたのだが、他のマンガ家の関係する記念的施設がいくつかあることをここで知った。
この11月号について、一点だけふれておきたい。
第2特集として「浸る、愛でる、アイヌの世界」が掲載されている。11ページの特集。
北海道・白老町に「ウポポイ」が誕生したという。「国立民族共生公園」である。園内は、「民族共生象徴空間(ウポポイ)」であり、いざないの回廊、体験交流ホール、体験学習館、伝統的コタンなど様々な施設で構成されているそうだ。また、園内には「国立アイヌ民族博物館」が設けられている。大きな舟のような外観の写真が載っている。
マンガの聖地「トキワ荘」、ウポポイ、いずれもいつか訪れてみたい!!
ご一読ありがとうございます。
特集に関連して、関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
豊島区トキワ荘マンガミュージアム ホームページ
トキワ荘マンガミュージアム紹介VTR YouTube
トキワ荘マンガミュージアム7月オープン! YouTube
手塚治虫 手塚治虫記念館 公式ウエブサイト
手塚治虫記念館 :「宝塚市」
手塚治虫 :ウィキペディア
寺田ヒロオ :ウィキペディア
藤子不二雄 :ウィキペディア
川崎市藤子・F・不二雄ミュージアム ホームページ
髙岡市藤子・F・不二雄ふるさとギャラリー ホームページ
氷見市藤子不二雄まんがワールド ホームページ
氷見市潮風ギャラリー 藤子不二雄A アートコレクション
藤子不二雄Aさん、手塚治虫さんとの“秘話”を紹介(2021年4月6日) YouTube
トキワ荘ミュージアムに藤子不二雄Aさん初訪問「20歳のころが蘇った」 YouTube
藤子不二雄(A)が語る『漫画の青春と宝焼酎』 YouTube
鈴木伸一 :ウィキペディア
東京工芸大学 杉並アニメーションミュージアム ホームページ
森安なおや :ウィキペディア
石ノ森章太郎 :ウィキペディア
石ノ森萬画館 ホームページ
石ノ森章太郎ふるさと記念館 ホームページ
赤塚不二夫 :ウィキペディア
赤塚不二夫 NHKアーカイブズ NHK人×物×録
水野英子 :ウィキペディア
水野英子(漫画家)――クローズアップ :「文春オンライン」
「夜くらいは鍵を掛けて寝なさいね」と言われ……
「トキワ荘」ただ一人の女性が振り返るあの頃
水野英子 ツイッター
よこたとくお :ウィキペディア
「マーガレットちゃん」モニュメント登場 元トキワ荘住人の作品 2020.3.1 :「産経新聞」
山内ジョージ :ウィキペディア
トキワ荘・元住人の山内ジョージさん、動物文字絵で「あいうえお」 2021.3.19 :「産経新聞」
山内ジョージさんモニュメント除幕式 YouTube
「トキワ荘の青春 デジタルリマスター版」予告編 YouTube
テラさんの激励 YouTube
まんが道/にっぽんマンガ遺産第1位! YouTube
手塚先生のサプライズ登場に恐縮する藤子不二雄の2人 YouTube
ウポポイ ホームページ
アイヌ文化について
国立アイヌ民族博物館 ホームページ
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
東京に出た手塚治虫が「トキワ荘」というアパートの一室を22ヶ月間、活動拠点とした。そのアパートに若手マンガ家たちが集まった時期があったということを何かで知り、「トキワ荘」という言葉が頭の隅に残ったのだが、それ以上のことは知らなかった。そのトキワ荘が「日本マンガの夜明け」を開いていくマンガ家たちを生み出す母胎となった。トキワ荘はそれらマンガ家として独自の作風・世界を築き上げて行く若者たちをどのように受け入れ、そこでどのような人間関係の絆が育まれたのか。トキワ荘のことが世に知られたのは、その拠点からマンガ家たちが順次退居し居なくなり、さらに10年護のことだと言う。
この特集でトキワ荘とマンガ家たちの全体像が理解でき、興味深くかつ面白く読めた。
トキワ荘は西武池袋線「椎名町」が最寄り駅で、椎名町五丁目2253番地にあった。2階建ての木造アパート、ひと部屋は4畳半、1階と2階にそれぞれ10部屋ずつあるという建物だった。建物だったというのは既に取り壊されて、その跡地は今はある出版社のビルになっているからだ。今、建物の傍に「トキワ荘跡地モニュメント」が設置されている。
そのトキワ荘が、「豊島区立トキワ荘マンガミュージアム」として、2020年7月7日にオープンした。かつてのトキワ荘の建物がリアルな再現で甦ったのだ!
その所在地は、豊島区南長崎3-9-22。元のトキワ荘からすれば、南長崎通りを挟んで、少し西方向にある「南長崎花咲公園」の南端に再現された。インターネットで現在のマピオンの地図を確認すると、「南長崎通り、南長崎花咲公園」の名称で記されている。本書ではp40の地図が掲載されているが、「トキワ荘通り、トキワ荘公園(南長崎花咲公園)」と記されている。通称の方が普通に使われていくのではないだろうか。最寄り駅は都営大江戸線「落合南長崎駅」になった。
記事によると、このトキワ荘マンガミュージアムは、鉄骨造り、コンクリートの建物なのだが、二重構造になっていて当時の木造建物のように見えるように再現され、2階に上がる階段のギシギシ音も超リアルに再現されているという。p30~p36には、2階の廊下、当時居住していたマンガ家たちの部屋の状況が忠実に再現された写真が載っている。2階の窓を開けて当時見えた景色が絵で再現されている。私を含めて、そう簡単にこのミュージアムまで出かけて見ることができない人にとっては、トキワ荘のイメージが湧きやすくて便利だ。
この特集、以下の構成になっている。簡単な読後印象を織り込んでご紹介しよう。
◎見開きで「トキワ荘ジオラマ」(ジオラマ作家・山本高樹さん製作)の写真
2階の各部屋の全体風景がわかって楽しい。
◎「トキワ荘」とは?
2階のどの部屋に誰が住んでいたか、手塚治虫を筆頭に、居住者たちの顔マンガ付きでトキワ荘がらみのプロフィール紹介が行われている。棒グラフ形式で、「トキワ荘居住期間年表」が載っている。これを見ると、手塚治虫が昭和28(1953)年1月に入居し、29年10月にトキワ荘を出るまでの期間には、昭和28年12月に入居した寺田ヒロオが重なるだけだ。手塚治虫が退居した後に、マンガ家たちが順次入退居していく。寺田ヒロオが当初は、彼等のまとめ役だったという。
◎絵物語「トキワ荘の青春」 絵:吉本浩二 文:編集部
手塚治虫の「ジャングル大帝」最終回の原稿描きの折り、手塚に声を掛けられて藤子不二雄?がアシストしたエピソードから始まり、トキワ荘でのマンガ家たちの青春の一コマをエピソードでつないで行く。最後のエピソード11は「さようならトキワ荘」。手塚の入居で始まるトキワ荘は、昭和37(1962)年3月に山内ジョージが退居したことで、「トキワ荘に、マンガ家とそのアシスタントはひとりもいなくなった。」(p29)約10年間、マンガ家たちが住んでいた。
「トキワ荘とは?」に記されているが、「トキワ荘」のことが世に知られるようになったのは、『トキワ荘物語』の出版、藤子不二雄Aの作品「まんが道」とそのドラマ化などによるそうだ。
◎グラフ ようこそ!トキワ荘マンガミュージアムへ
ここは上記で触れている。
◎ミュージアム建設の関係者へのインタビュー記事
地域住民の夢実現の経緯を豊島区長・高野之夫氏が語る。そして、超リアルな建物再現の道のりを丹青社のクリエイティブディレクターの加藤剛氏が語る。それぞれ、興味深い裏話である。
◎「トキワ荘周辺ガイド」と「トキワ荘こぼれ話」
こぼれ話は、その後にも各所に載っている。こぼれ話がなかなかおもしろい!
◎かつてのトキワ荘住人の思い出話
鈴木伸一、水野英子、よこたとくお、山内ジョージ各氏がインタビューに答えて語った話がまとめられている。当時の様子がわかっておもしろい。特に印象深い箇所を引用してみよう。
*手塚先生が雑誌でどんどん描くようになって、マンガの世界をひっくり返しちゃったんですよ。手塚以前、手塚以降で、変わってしまった。(鈴木伸一 p43)
*その大胆なコマ割りには驚きました。見開き、縦長、斜め取りなどのコマ割りの斬新な表現は、みな石森さんが始めたものです。(水野英子 p44)
*手塚イズムを胸に 何があっても手を抜かないこと、誰も描いていないものに挑戦すること、自分が本当に描きたいものを描くことを理想とし、みなさんと机を並べてマンガを描けたことは素晴らしい経験でした。 (水野英子 p45)
*マンガというのは、何を描いたって構わないんです。・・・やはり漫画家自身が本当に好きなものを描いてこそ、その情熱が読者に伝わる。(水野英子 p45)
*でもいちばん楽しかったのは、小松川の赤塚氏のうちに泊まりに行っていた頃ですね。夢があってね。お互いにマンガ家になろうと、夢がいっぱいだったから、楽しかったなあ。(よこたとくお p47)
*あの頃は、大人のンガを描いている人はマンガ家として認知されていたけれど、児童マンガはそれよりずっと下の存在でした。新聞に描いている近藤日出造とか横山隆一とか長谷川町子はマンガ家として見られていたけど、手塚先生も、デッサン力がないとか、よく悪口を言われていました。 (山内ジョージ p48)
◎黎明期のマンガ進化論 文 中条昌平 学習院大学教授、手塚治虫文化賞選好委員
タイトルの下に記されたキャプションを紹介する。「少年たちは、手塚治虫作品のどこに衝撃を受けたのか? そして、トキワ荘のマンガ家たち自身の表現上の挑戦とはー-。」
手塚治虫のマンガ作品のコマを筆頭に、トキワ荘のマンガ家たちの作品から、マンガのコマを引用しながら論じていて、興味深い。日本のマンガが大きく広がりうねりだす状況がイメージしやすくなる。
◎水野英子と「少女マンガ」誕生
少女マンガには縁がなかったので、私はこの特集記事で初めて知ったマンガ家だ。
「水野英子は少女マンガを描いたのではない、水野英子の描くものがすなわち少女マンガになったのである」(p58)そうだ。いわば、パイオニアなんだ!
◎厳選!トキワ荘時代の貴重マンガ再録
「漫画少年」「漫画王」の掲載された作品と「墨汁一滴」(東日本漫画研究会誌)の一部ページ。まさに保存版と言えるマンガが収録されている。
現在の高齢者にとっては、なつかしく思う人々が多いのではなかろうか。
◎秘蔵グラフ 手塚九州逃避行写真とトキワ荘からの年賀状
上掲の各所での記述に関連する写真が一葉載っている。「ぼくのそんごくう」代筆事件に絡む写真だという。マンガ家の個性豊かな年賀状が4例紹介されている。
◎エピローグ マンガ家たちのそれから
トキワ荘を退居した後のマンガ家たちのマンガ人生を簡潔にまとめている。
「早すぎた死」の節で、手塚治虫(1989年、60)、藤子・F・不二雄(1996年、62)、石ノ森章太郎(1998年、60)、赤塚不二夫(208年、72)、森安なおや(1999年、64)の死に触れている。最後の節で寺田ヒロオ(1992年、61)の死にも触れられている。括弧内の西暦年は逝去年、数字は享年を示す。
特集としてはこれで終わりだが、その続きに「トキワ荘ワールドをもっと楽しむための展覧会&施設案内」が見開き2ページで紹介されている。手塚治虫の記念館は知っていたのだが、他のマンガ家の関係する記念的施設がいくつかあることをここで知った。
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ご一読ありがとうございます。
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豊島区トキワ荘マンガミュージアム ホームページ
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手塚治虫 手塚治虫記念館 公式ウエブサイト
手塚治虫記念館 :「宝塚市」
手塚治虫 :ウィキペディア
寺田ヒロオ :ウィキペディア
藤子不二雄 :ウィキペディア
川崎市藤子・F・不二雄ミュージアム ホームページ
髙岡市藤子・F・不二雄ふるさとギャラリー ホームページ
氷見市藤子不二雄まんがワールド ホームページ
氷見市潮風ギャラリー 藤子不二雄A アートコレクション
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石ノ森章太郎 :ウィキペディア
石ノ森萬画館 ホームページ
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「トキワ荘」ただ一人の女性が振り返るあの頃
水野英子 ツイッター
よこたとくお :ウィキペディア
「マーガレットちゃん」モニュメント登場 元トキワ荘住人の作品 2020.3.1 :「産経新聞」
山内ジョージ :ウィキペディア
トキワ荘・元住人の山内ジョージさん、動物文字絵で「あいうえお」 2021.3.19 :「産経新聞」
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まんが道/にっぽんマンガ遺産第1位! YouTube
手塚先生のサプライズ登場に恐縮する藤子不二雄の2人 YouTube
ウポポイ ホームページ
アイヌ文化について
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その点、ご寛恕ください。)