遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『知られざる北斎』  神山典士  幻冬舎

2022-02-04 21:21:55 | レビュー
 絵師葛飾北斎と彼の作品には関心を寄せている。美術展で北斎の数々の絵を鑑賞する機会を幾度か積み重ねてきた。見過ごした機会もある。北斎の絵師としての活動について小説の中で副産物として断片的に知ったこともある。だが、北斎の人生を伝記的な視点で捉える発想は今までなかった。北斎が晩年に描いた絵を見たこともあるが、北斎が80歳代にどのような生き方をしていたかを考えたことはない。

 本書は、2018年7月に出版されている。その時点において、「なぜいま『北斎』なのか?」(序章)という問いかけからスタートする。著者は、2017年7月にフランスのパリで開催された「ジャパン・エクスポ2017」を訪れた。会場でのアニメに対する熱狂への印象記から始める。そして、1870年代から1900年頃にかけてパリを中心に「ジャポニスム」と呼ばれる日本文化への大ブームが発生していた事を重ねて、時を溯って行く。そのブームの中心の一つが北斎の絵だった。特に『北斎漫画』と「神奈川沖浪裏」が熱狂的に受け入れられたという。
 そのうえで、「150年前と今日と、二つの熱狂に共通しているのは一部の愛好家の熱狂と、一般大衆の無関心という構図だ」(p22)と記す。150年前に、ジャポニスムのブームの中で北斎は「世界の北斎」になった。知らないのは日本人だけか、という問いかけでもある。続きに、著者はごく簡略に「北斎の誕生」プロセスをまとめる。見出しのキーワーでいえば、<多色摺り版画と共に><彫師体験><他流派の画法を学ぶ><狂人伝説><作品の多彩さ>という形でまとめている。
 私は、2017年に世界各地、また日本国内各地で多発的に「北斎展」が開かれていたとは知らなかった。特に著者は大英博物館と大阪・あべのハルカス美術館が共同で「北斎展」を開催したという。読んでいておもしろかった点の一つは、大英博物館ではこの北斎展を「北斎~Beyond The Great Wave」と名付けたが、ハルカス美術館は「北斎~Beyond Mt. Fuji」にしたという。著者はインタビューから得た事実としてその理由を説明している。

 なぜいま北斎なのか? その究明が本書のテーマである。つまり、”知られざる”北斎の実像を明らかにすることを介してそのなぜを解明する試みがこれだ。

 マクロ的な視点に立つと、葛飾北斎は、19世紀の「ジャポニスム」のブームの中で、西欧にデビューした。アメリカにも直に北斎の絵が伝搬されている。「世界の北斎」として熱狂的に受容された後に、北斎が改めて日本でも再評価されるに至ったようである。日本でよく見られる現象の先駆的事象と言えるかもしれない。北斎の50歳以降の活動が特に大きな影響を世界に与えているようだ。
 北斎は絵手本「略画早指南」他14册以上を52歳から61歳にかけて描いた。風景画「冨獄三十六景」は60代から70代にかけて、『北斎漫画』は55歳の頃に初編を発表、没後の1878年に15編が刊行されたという具合である。

 著者は、本書で「世界の北斎」になった側面に光りを当て、そして80歳代の北斎の活動とその活動拠点に着目していく。序章につづく本書の構成にそい、簡略なまとめと感想等をご紹介する。

<第1章 北斎の世界デビュー、19世紀ジャポニズム>
 パリを訪れた松方幸次郎がモネのアトリエで、彼の絵を見て、この中の18枚の絵を譲って欲しいと直談判したエピソードから始める。西欧にコレクショニズムという名の征服欲が内在する点に触れた上で、印象派が台頭してくる時代背景を語る。印象派の画家たちがなぜ浮世絵に引きつけられたのか。特に北斎を熱狂的に受け入れたのはなぜかに迫る。
 特に事例として、北斎とゴッホの関係を取り上げている。「ゴッホは、一説には約500点の浮世絵を所有していた」(p83)という。ゴッホが北斎の使ったベロ藍に関心を抱いたということをここで初めて知った。

<第2章 北斎をプロデュースした男・林忠正>
 原田マハの小説『たゆたえども沈まず』はゴッホを描いている。この小説を読んだとき、私は林忠正という人物の存在を知った。この章で、林忠正について改めて学び直すことができた。パリ万博を契機に、浮世絵が熱狂的に受け入れられ、ジャポニスムが沸き起こる背景には、仕掛人がいた。それが画商林忠正である。パリのオルセー美術館にはブロンズの忠正のマスクが残されているそうだ。
 この章は林忠正について伝記風に語る。忠正は日本の美術のコンテクストを西洋に正しく提示する役割を果たした人、美術界のエヴァンジェリスト(伝道師)であると位置づけている。そして、北斎をプロデューズしたのが忠正だという仮説を提示する。なるほどと思う捉え方である。

<第3章 小布施の北斎と高井鴻山、豪商文化>
 戦前からの北斎研究は、晩年の北斎は衰退し芸術的生命は終わっていたと結論づける。これらの諸研究結果に対し、著者はこの章で反論を展開する。
 1836年(天保7)、北斎(76歳)は小布施出身で江戸に遊学中の高井鴻山ニ出会ったという。寛政の改革に始まる江戸の出版規制、全国的な経済不況と天候不順が発生している時期である。それが機縁で、1843年(天保14)、83歳の北斎は小布施を訪ねる。これが契機となり、北斎は数度、高井鴻山に世話になり小布施に長逗留することになる。江戸からの距離は250km。小布施で北斎は肉筆画に傾倒して行ったという。
 この地で北斎は日々「日新除魔」を中心に絵筆をとった。東町祭屋台天井絵(鳳凰図と龍図)、上町祭屋台天井絵(怒濤図)、木彫の公孫勝像と飛龍、岩松院天井画を次々に制作していく。
 江戸の北斎としては空白の時代であったが、小布施では精力的に絵を描いていたわけである。それも、浮世絵から肉筆画に移行した形で活動していた。北斎に衰退という言葉はあてはまらないようだ。まさに驚嘆すべきエネルギッシュな絵師だったのだ。
 この章では、北斎を支援・庇護した高井鴻山にも光りを当てている。さらに十八屋・小山文右衛門にも触れている。小布施には豪商文化があった。

<第4章 北斎再生! そして未来へ>
 北斎が人生最後の段階で創作活動をしていた小布施においても、北斎は忘れられた存在になっていく。だが、その北斎が見直され始める契機が訪れる。1966年(昭和41)9月~11月に、日本経済新聞社主催でモスクワの「プーシキン美術館」とレニングラードの「エルミタ-ジュ美術館」で「北斎展」が開かれた。その企画と実現への仕掛人は当時、専務取締役になった円城寺次郎だったという。
 ソビエトでの北斎展では延べ約33万人の動員となったそうだ。その結果、国内で俄に北斎ブームが沸き起こる。北斎展開催が国内各地に広がって行く。
 著者はこの経緯の中で、小布施北斎館の誕生と町づくりの経緯として、小布施の状況をレポートしている。ここにも市村郁夫という小布施町長が北斎からのまちづくりを主導する仕掛人だったことがわかる。
 小布施の北斎に関しての真贋論争にも触れていて興味深い。この論争があることも本書で初めて知った。
 
<第5章 世界で北斎が求められる理由~すみだ北斎美術館誕生>
 「いまなぜ北斎なのか?」という問いかけに再び立ち戻り、著者が行き着いた仮説を論じるとともに、それをキュレーターたちにぶつけた時の応答について述べている。ここは上記の各章の展開のまとめでもある。本書を開いてご確認いただくとよい。
 すみだ北斎美術館の誕生の経緯をここに取り上げている。これは著者の仮説を例証しようとする試みでもあると受けとめた。私はこの美術館が誕生したことも本書で初めて知った。

 最後に、冒頭に載せた本書の表紙に触れておこう。これは葛飾北斎画「上町屋台天井絵怒濤図」の男浪の部分図が使われている。
 本書を読み、北斎の知られざる側面を知る機会になった。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して、ネット検索した事項をいくつか一覧にしておきたい。
葛飾北斎  :「コトバンク」
葛飾北斎  :ウィキペディア
信州小布施 北斎館 ホームページ
  小布施と北斎
すみだ北斎美術館  ホームページ
  北斎漫画 三編
北斎漫画 1編  :「国立国会図書館デジタルコレクション」
富嶽三十六景  :ウィキペディア
葛飾北斎  :「浮世絵のアダチ版画」
葛飾北斎の壮絶な人生描く『HOKUSAI』新予告編 柳楽優弥&田中泯が熱演! YouTube
映画『HOKUSAI』特別番組【今だから葛飾北斎に学べスペシャル】 YouTube

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