遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『洛陽』  朝井まかて  祥伝社

2022-05-21 14:29:54 | レビュー
 明治という時代を改めて考える材料になる小説。本書は平成28年(2016)7月に書き下ろしにより単行本として出版された。

 何気なく読み出し、読み進める内に本書のテーマが何かが理解できてきた。大きく捉えると、明治時代とはどういう時代だったのかを見つめようとした小説である。それを見つめるために、少なくとも2つのサブ・テーマが設定されていると受けとめた。
 1つは、明治神宮が造営された背景と造営プロジェクトの進展経緯を明らかにするというテーマである。神宮林の造営には当初反対意見を提起していた研究者が中核になる。150年計画という展望のもとに神宮林の造営に着手していくプロセスが描き出されていく。 
 2つめは、明治という時代において天皇はどういう存在だったのかというテーマである。私たちが使う明治天皇という言葉は、調べてみると大正元年(1912)8月27日に勅定された追号である。

 さて、本書の構成という視点からこの2つのテーマがどのように進展するか。それが本書の構成のおもしろさと関連している。まず、目次をご紹介する。
 (青年)
  第1章 特種(スクープ)、第2章 異例の夏、第3章 奉悼、第4章 神宮林
 (郷愁)
  第5章 東京の落胆、第6章 国見、第7章 洛陽

 この冒頭の(青年)と(郷愁)は本文のストーリーの進展とはほぼ独立した描写となっている。一方で、ストーリーと重要な照応関係を持つ。ここには天皇自身の心境の一端が描かれている。独立した記述でありながら、改めて読むとそこにはテーマに絡む重要な意味が含まれている。この部分は上記の2つめのテーマに関わり、いわばコインの片面に相当すると思う。
 「ふと、五箇条の後に続けた一文を思い出した。
  ーこの誓文の達成に率先して励む覚悟であるゆえ、万民も協心、努力してほしい。
  民草にそう呼びかけたのだ。」(p7-8)
「一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」から始まる5箇条は日本史の一環として学んだことがある。しかし、それに付された文をこの小説で初めて意識した。手許にある高校生用参考書を書棚から引っ張り出してきて改めて読むと、五箇条の御誓文の草案写真が併載されている。その草案との表現の違いも初めて知る機会となった。いずれにしても、この引用部分を著者は重視している。そこに大いなる意味づけをしているように感じた。
 「帰りたい。
  后だけを我が胸に抱いて馬を駆り、帰ってしまいたい。
  あの静かな、美しき都に。」(p185)
こちらは、(郷愁)の末尾に出てくる天皇の思い。もし、この思いがなければ、東京に御陵が造営され、明治神宮はなかったのかもしれない。そう思えてくる。もしそうなら、その後の歴史は変わっていただろうか・・・・。そんなことも考えて見たくなる。

 第1章は、東都タイムスの記者瀬尾亮一が日野男爵の自邸に男爵夫人を訪ねる場面から始まる。瀬尾はある特種記事原稿を持参し強請を行うという場面。冒頭の(青年)とこの第1章の冒頭場面とのギャップが大きい。私は、アレ!とその出だしに戸惑った。
 このストーリーには二流あるいは三流新聞である東都タイムスの瀬尾亮一と唯一の女記者伊東響子が主な主人公として登場する。時にはスクープをネタに強請を行うことも平然とできる記者を主な主人公の一人に設定しているところがユニークでおもしろい。
 第1のテーマである明治神宮造営計画については、伊東が熱心に情報を収集し、瀬尾は伊東の熱意に捲き込まれる形で関わって行くことになる。そこには当寺の女記者の位置づけや社会認識も背景に関わっていることがうかがえる。瀬尾は、伊東とともに明治神宮造営の発案経緯とその進行を追う過程で、造営計画の進捗そのものよりも、崩御された天皇その人に己の関心を移していく。つまり、サブ・テーマ2が瀬尾には重要になっていくのだ。伊東は終始、直接的に最初のテーマ、神宮林造成計画のプロセスを追跡していく。

 このストーリーの興味深い部分は、なぜ明治神宮が造営されるということになったのか、その経緯がわかることにある。東京では神社にとっての針葉樹林の荘厳な森を築くことは不可能であると研究者が問題を提起した。しかし、その研究者たちが針葉樹林ではなく広葉樹林による杜を150年計画で造林するという壮大な展望のもとに明治神宮造営に関わって行くことになる。伊東が中心となり、そのプロセスを克明に追跡していくという形でその経緯が明らかになっていく。
 読者は、現在の明治神宮の壮大な神域、その杜がどのようにできあがったのかを具体的に知る機会になる。この小説を読むしばらく前に、たまたまテレビの番組を見ていて、この明治神宮の杜が人工的に造林されたのだという経緯の要点を映像として私は見ていた。このストーリーがそのことに関連していることがわかってからは一気に興味が倍増した。
 
 東京に陵墓を築くという発案は潰れた。京都府下の旧桃山城址伏見城に陵墓を築くということが内定されていたのだ。そこで、東京に神宮を造営する計画が浮上した。神宮造営を目指す委員会が発足する。中野商工会議所会頭、阪谷東京市長、青淵先生(渋沢栄一)らが発起人となる。針葉樹林に囲まれた静謐な神域を造営するという発想で始まる。だが、それでは東京に神社を造営するのは不可能だという意見を、駒場の帝国大学農科大学の講師が発表する。
 だが、神宮造営計画が正式に認可されると、反対意見を表明した研究者たちが、神宮林の造林推進責任者に指名されることになる。自然の摂理を取り入れての妥協が、150年という展望で常緑広葉樹林の杜を造るという形になる。「神社奉祀調査会」には樹林、樹木の専門家として東京帝国農科大学の川瀬善太郎博士、本田静六博士が名を連ねた。実務面では、当初反対意見を表明した林学科講師本郷高徳が技師となり、造林現場では大学院生上原啓二が技手として役割を担っていく。伊東は本郷・上原との関わりが深まっていく。
 第5章には興味深い記述がある。大正4年(1915)5月1日に、内務省が明治神宮造営局の官制を公布し、貴族本会議ではその予算も可決されていた。しかし、その予算には神宮林の造成についての予算化まではなされていた。だが、予算書には樹木購入費自体は計上されていなかったという。一瞬目を疑った。なんという計画! 献木という国民運動が行われることになる。
 
 瀬尾の質問に対し、本郷講師は「学者としての使命感、そして無力感を否定しません。我々の主張は全く、顧みられることがなかった。ただ、かくなる上は、己が為すべきことを全うするだけです。明治を生きた人間として」(p120)と語る。
 一方、その前に、瀬尾は伊東から筆記された『法学協会雑誌』に掲載された奉悼文を見せられている。その文は「・・・・遂に崩御の告示に会ふ我等臣民の一部分として籍を学界に置くもの顧みて 天皇の徳を懐ひ 天皇の恩を憶ひ謹んで哀衷を巻首に展ぶ」と結ばれていた。この文は夏目漱石が書いたと知らされる。
 瀬尾は「思想と魂を分け、この国と天皇を別に捉えている」(p97)という有り様に気づいていく。瀬尾は崩御された天皇その人に関心を抱き始める。

 明治神宮造営計画の背景とその進展を追跡することが、明治という時代の背景を併せて浮彫にしていくことになる。それとパラレルに、明治という時代において、天皇がどのような存在として人々の中に受け入れられていたのかに迫っていく。
 天皇の東京行幸は、戦闘が未だ続き、江戸の町が相当に荒廃している状態の中で実行されたのだった。そこから、明治が始まっているのだ。考えれば当たり前のことなのだが、この点を今まであまり意識していなかったことに気づかされた。

 神宮林については、本書の巻末近くで、本郷が語ることが印象深い。
「手を入れぬ管理と言った方が正しいでしょうな。人為の植伐を行なわずに林相を維持し、天然の更新を成し得るよう、次の世代に申し送らねばなりません。その仕事がまだ残っています。」(p311)

 一流新聞社の優等生的報道の立場ではなく、二流・三流新聞社に居る記者である故に、より庶民的な目線、思考を踏まえる視点で物事が語られていくことになる。武藤が主筆という立場で瀬尾や伊東らの行動をコントロールしている点も興味深い。武藤自身がかなり癖のある人物として描かれ、逆に武藤を介して、明治の報道界、マスコミがどのような状況だったかも垣間見えて楽しめる。
 
 冒頭で述べたが、明治という時代を知り、あの時代を改めて考える上で役立つ小説と言える。
 
 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して、関心事項を少しネット検索してみた。一覧にしておきたい。
明治天皇 :「コトバンク」
明治天皇 :ウィキペディア
五箇条の御誓文  :「明治神宮」
明治神宮  ホームページ
 杜(もり)・見どころ
明治神宮の森:林学者や造園家によるナショナルプロジェクト :「nippon.com」
永遠の杜、明治神宮 -百年後、千年後を見据えた森造り- 若林陽子
    :「芸術教養学科WEB卒業研究展」(京都芸術大学通信教育課程)
上原敬二  :ウィキペディア

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こちらの本も読後印象を書いています。お読みいただけるとうれしいです。
『類』   集英社
『グッドバイ』   朝日新聞出版
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