遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『親鸞 全挿画集』  山口晃  青幻舍

2022-04-11 18:13:15 | レビュー
 五木寛之著の小説『親鸞』三部作についての読後印象を各部について先日ご紹介した。
単行本を購入したままで、長い間書架に眠っていた。さあ読もうとエンジンがかかる前に、私にとってのきっかけができていた。
 『日本建築集中講義』という共著で、山口晃という画家を知り、この本から『ヘンな日本美術史』を知った。こちらを読んでいる時、著者についてネット検索していて『親鸞 全挿画集』というタイトルに出会った。五木寛之の『親鸞』はまず新聞連載小説として発表された。この時毎回挿画が併載される。その挿画を担当したのが山口晃であり、その全挿画を一冊にまとめたのが本書だという。新聞連載小説が後日に単行本となり、文庫化されるのは通例だが、挿画が利用されるということはあまりないように思う。挿画が利用されてもほんの一部に限定されるだろう。
 新聞連載小説の挿画がすべて集約されて一冊の本として独立して出版されているというのも目にしたことがなかった。俄然、そこで興味を抱いて購入したという次第。本書は2019年2月に出版されている。
 長らく休眠していた小説『親鸞』三部作を読み始める補助的なトリガーになった。

 直接の動機づけは、最近やっと『[現代語訳] 法然上人行状絵図』(浄土宗総合研究所[編]・浄土宗)と文庫本で法然『選択本願念仏集』の現代語解説部分を通読していたことにある。法然の専修念仏の先の1つとして、親鸞に関連するものを読み進めてみたくなったことにある。『歎異抄』はかなり以前から読んではいたが、ほぼそこにとどまっていた。

 五木寛之著の小説『親鸞』三部作を読み進めながら、この『親鸞 全挿画集』を併行して読み、眺めて行くことにした。連載を読むのに近い楽しみを加えることができた。おもしろい体験ができたと思う。

 著者は最終的に三部作の全体にわたって、挿画を描きつづけたことになる。それぞれの部は1年くらいの連載で、通算1052回の連載になったと「はじめに」に記されている。
 p14からp689まで、連載中の挿画で埋め尽くされている。各挿画には本にまとめることになったためだろうが、挿画に簡単な解説が付記されている。挿画を眺めつつ、この付記を読んでいくだけでもストーリーの大きな流れはつかめる形に仕上げてある。

 新聞連載中に、連載文を読みその都度挿画を見ているだけなら、多分意識せず、気づきもしない諸点について、この全挿画集から気づくことになると思う。

 まず、挿画自体に様々なスタイル、描法が試みられていて、1つの型にはまっていないことである。以下抽出してみる。括弧内は事例該当ページを示す。
 活劇漫画調(p19)、銅版画風(p34)、エングレービング風(p49)、回答用紙風(文字で構成)(p60)、結婚報告のハガキ形式(p163:親鸞が恵信を妻に)、挿画に符号を描き入れる(p239)、かすれたペンでの遠近描法(p269)、ネガ・ポジを反転させる描法(p317)、判じ物風の絵「愚に返れ」(p410:親鸞という時代小説に、サラリーマン風の男が暖簾をくぐり店内に入る絵)、マンガのコマ割り原理の応用(p429:十字名号をもじった文字列の描写に使う)、マンガチックな、あるいは絵本チックな描法(p439)、見たこともない場面を古写真風に(p455)、河鍋暁斎の絵日記風に(p518)、レンブラントの宗教画を踏まえて(p555:ローマ字表記も併用)といった具合である。この多様な描法は全体を通読していくことで楽しめる変化である。
 時には、著者のサインが書き込まれたり、落款が押されている挿画も見られる。その数は少ないけれど・・・・。

2. 時代小説への挿画であるのに、絵のなかに遊び心が描き込まれていたりする。これを見つけるのも楽しみになる。
 例えば、親鸞の少年時代として、「忠範」の姿が描かれ、名前の両側に「Free」「ride」の文字。「忠範」の下にはローマ字で「TADANORI」と。(p18)
 少年時代の親鸞が弟たちと過ごした小屋の挿画にさりげなく引き込み線を描写(p35)
 「問題は尻が落ちつかないことである」と評す一文から発想された絵(p243)
 上京している親鸞の末娘覚信が子供を自転車に乗せて移動する図(p511)
 こんな具体例が出てくる。他にも・・・・。

3. 著者が文章で使われている言葉からの連想で創作(想像、空想)した挿画が時折登場する。
 針木馬という拷問具(p43)、「ホンガンボコリ」という体長6cmの生物(p168)、架空の指を折る責具(p435)、「ためいきちゃん」という空想の生物(p475,p618)など。著者の発想がおもしろい。

 一方で、挿画を描くという仕事での裏話・エピソードにも触れられている。全挿画集という形で独立した一書になったことで読者が知ることができる側面といえる。こういうまとめ本がなければ見えない部分であり、興味深い。
まずは、著者自身が挿画を作成する過程での試行錯誤の一端をオープンに載せている。つまり、当初に描いた絵と描き直して挿画として公開されたものを両方載せている事例が所々で出てくる。

2.「情景がパッとわかって人物の顔が見えないこう云うタイプの絵が先生のお好みだと、後で編集の方から聞きました」(p15)とか、「後で先生はもっと凶暴な感じがよかったらしいと聞く。よくない流れ」(p21)。「描き直すように云われました」(p22)、「先生にコンテを頂いた」(p31)などという連載が始まった初期の裏話も記されている。

3. 「毎日のことですから時間切れで不本意な挿画を渡さざるをえない時もあるのですが、そう云う時はお酒が美味しくない訳です。」(p95)という本音も記されているからおもしろい。

4. 第1シリーズの終わりころ」にはこんな文章が出ている。
 「編集さんいわく、五木先生はいつも読者に添おうとなさる、大向こうをはる高尚な評論家ではなくて、人々の望むものを示そうとされる、そういう心の方であると。この挿画がおもしろいという読者の声があるならば、このラインで続けさせてみるか、という先生のご判断があったのでしょうか、段々挿画へハードルが下がってまいりまして、以前だったらダメかな、という絵でも、駄目出しをされなくなってきたのです。」(p162)

5. 主要な登場人物の顔を描かないという一種不文律ができていたようである。それが著者に挿画を描く際に、一工夫を加えざるを得ない障壁でもあり、チャレンジでもあったという。どんな工夫が凝らされたか・・・・、挿画をお楽しみいただきたい。何だコレ・・・という思いも含めて、実におもしろい作画になっている部分でもある。
  その一方、「脇役は描き放題です」(p492)という側面もあったという。 
 などと・・・・・。こちらの側面でも挿画をみながら、小説家と画家の二人三脚の有り様が楽しめる。

 作家五木寛之が日々オン・ゴーイングに紡ぎ出すストーリーの進展と連載の時間的制約の中で、画家山口晃がバラエティに富んだ描法と発想を駆使しながら、多分悪戦苦闘の局面にも遭遇し、創造していった挿画である。
 一読者として、おもしろくかつ楽しめる挿画集である。勿論、『親鸞』三部作とパラレルに本書を読み、かつ眺めることをお薦めする。

 最後に、本書の前半部で、著者の所感と私が思った箇所をいくつか引用し、ご紹介しておきたい。勿論、他にもいろいろあるのだが・・・・。
*小説がどちらにゆくか先生しかわからない以上、文章のゆらぎから立ちあがった絵の、その成るようにさせてあげるのが絵描きの仕事であり、「文章でないもの」をしっかりと立ちあげる事が文章のためでもあるのです。その為の挿画です。(p32)
*(補記:親鸞の)伯父の顔をラフに下描きしたらよい感じになりましたので、挿画にしようとするとどうしても描けません。下描きをなぞろうとしてしまっているのです。本番を失敗するのは大体なぞろうとするからです。結局ラフをはりつけ拡大して載せてもらいました。(p57)
*東京新聞では、挿画が基本的に横長の小説欄の中央にレイアウトされましたので、原稿のどこを絵にしよう、と思った場合、一回の連載のまんなかあたりを描くことが多かったです。(p71)
*目をつむって描くのと開いて描くのでは明らかに線の質が違います。今さら絵に教わりました。(p155)
*顔自粛令のもと、人物は黒ぬりです。紙の粗さとペンの掠れ、黒の溜め方、白の抜き方、禁止された方が自由になることもあります。(p336)
*自分の淺い意識が決めた失敗など、失敗でないかもしれません。(p350)
*私が思う挿画と云うのはこんなペンのタッチを活かして写実的に描いたタイプのものです。(p404)

 ご一読ありがとうございます。

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『親鸞』上・下      五木寛之  講談社
『親鸞 激動篇』上・下  五木寛之  講談社
『親鸞 完結篇』上・下  五木寛之  講談社

『日本建築集中講義』  藤森照信・山口 晃  中公文庫
『ヘンな日本美術史』  山口 晃       祥伝社


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