ある史跡探訪講座に参加して、滋賀県の湖西、高島市に所在の鴨稲荷山古墳と高島市歴史民俗資料館を初めて見たのがきっかけで、それ以来継体天皇に関心を抱き始めた。そして別の探訪企画に参加して、何度か現地とその周辺の古墳遺跡・史跡を訪れている。この6月に、著者の前著『謎の継体大王 継体天皇』(文春新書)を読んだ。この書は2001年9月に出版されていて、本書の「はしがき」には、「私にとって初めて書き上げた新書」だったという。前著を読んだとき、初書きの新書と書かれていたかどうか記憶にない。本書が出版されていると知ったのも、異なる視点からの高島市史跡探訪の数度目のときだった。
本書は2013年7月に出版された新書である。つまり、12年の歳月を経て継続的に研究されてきた成果、持論の一端が古代史に興味を抱く読者向けに書かれた新書だと言える。
著者は文献史学を専門とする研究者である。その著者が「あとがき」で継体天皇をめぐる研究状況について、「今やこの分野の主役は文献史学から、考古学を中心とした研究へと交代したかんさえある」とその冒頭で述べている。筆者は自ら専門的な考古学の手ほどきを受けていないという。そこで、「ただできるだけ現地に足を運ぶこと、論文その他から吸収した近年の膨大な考古学の成果を自分なりに咀嚼し、これを文献から行った自らの考察と突き合わせ、総合化し、できるだけ客観的な歴史像を構築して行くことしかできない」(p247)という認識のもとで、諸研究・諸史(資)料との格闘の結果を本書にまとめたという。
そういう観点だからだろうか、考古学的情報については諸研究成果の事実や論点の結論部分を巧みに採り入れて紹介し、時には疑問を呈し、文献史学的視点と比較検討しながら論を進めている。考古学の発掘プロセスの詳細な事実や論争点の細部へ踏み込むことがない分、素人には読みやすい形になっている。
前著は今城塚古墳からの大量の埴輪群発掘成果の報道前に書かれた本であり、高島市の現地古墳群を高島市歴史民俗資料館の白井氏の案内を受けて訪ねて回ったという探訪プロセスでの体験と思索を記しながら、継体天皇の存在に迫っていくというものだったと記憶する。本書では、それから10年という期間の研究がやはり濃縮されているように感じる。また、文献史学的立場だからこそ、立論を進めることができることかもしれないが、著者の所見、仮説をかなり大胆に本書で提示されているように思う。継体天皇をめぐる諸状況について、本書を読み、一歩踏み込んで理解を深めていくことができた。
本書の構成を目次の見出しでご紹介しておこう。
第1章 新たな謎の始まり
第2章 近江国高島郡と継体天皇
第3章 継体天皇のルーツを探る
第4章 冠と大刀
第5章 継体天皇と渡来人
第6章 有明海沿岸勢力と大和政権
第7章 百済文化と継体天皇
終 章 継体天皇とは誰か
著者が継体天皇のプロフィールとしてまとめた結論(持論)を最初に箇条書きでご紹介しよう。本書を読む楽しみは、なぜそういう推論、仮説が立論できるのか、という部分にあり、その思考並びに分析プロセスに沿って考えてみることこそ読者の楽しみと思うからだ。(著者の見解について、誤読箇所があるかもしれない。その点お断りしておきたい。本書を読まれて、気づかれた点があればご教示いただきたい。)
終章を基軸に、関連章とも絡めて要約してみたい。
継体天皇は、
*近江湖北の出身である。幼少時に母の里越前三国・高向で育つ(-著者はこの点に疑問符をつけている-)が、基盤は現在の高島市地域にある。
継体の母布利比売(振媛)の母方は余奴臣(江沼臣)-現在の石川県加賀市を本拠とした豪族-だが、父方は近江国高島郡の豪族、三尾氏であった。
*近江湖北を基点にして若狭、越前、美濃、尾張などを勢力の背景基盤とした。
*秦氏など渡来人を重用した。高島には渡来人との共存が見られ、若狭には秦氏がいたという事実がある。継体と渡来人の関係は深い。
*奈良大和との関係では、物部氏、大伴氏、和爾氏、阿部氏ら豪族の指示を受けた。
しかし、葛城氏(旧勢力の代表的存在)とは対立関係にあったようだ。
*近江高島の鴨稲荷山古墳で発掘された広帯二山式冠や捩り環頭大刀を、朝鮮半島で活躍し帰国した各地の首長に与え評価するという方法を採った。雄略天皇のやり方を採り入れている。著者は鴨稲荷山古墳の被葬者の半島渡海経験すら想定してみている。
*継体自らも半島に渡り、帰国した首長の一人だったのではないかと著者は推論する。
*若狭、日本海経由で継体は九州有明海の勢力との連携があった。
*継体は半島の武寧王と厚誼の関係、協力関係にあった。『日本書紀』から武寧王は461年生まれと推定できる。一方、継体はほぼ同年代だがやや年長だったようだ。
*継体は「礼」の導入により、中国を中心とする東アジア文明への参入、グローバルな文化の構築をめざした。
この継体のプロフィール理解に大きく関係するが、著者は本書でいくつかの推論・仮説を提起している。このあたりが研究を進展させた結果なのだろう。その論理展開が興味深い。古代史理解の広がりがでてくるように思う。その仮説とは、
*三尾氏や彦主人王は渡来人と同じ集落で生活し、大陸文化をいち早く取り入れ暮らしていた。そこが継体の育成環境である。
*彦主人王と継体天皇の父子は続けて高島郡の三尾氏から妻を娶っている。彦主人王と三尾氏のつながりはきわめて太い。彦主人王は三尾氏の本拠地に寄寓していた。
*継体の曾祖父は意富富等王であり、系譜上、息長氏・坂田氏
とは同祖関係となる。
息長真手王(息長氏の祖先)と坂田大俣王(坂田氏)はおそらく意富富等王の子孫。
息長氏、坂田氏の本拠地は坂田郡(現長浜市・米原市地域)で高島郡の対岸になる。
*著者は湖北の諸古墳群発掘調査成果を踏まえて、被葬者推定の試論を提示している。
長浜茶臼山古墳: 中央からこの地域に土着したいわば初代の王墓 ←長浜古墳群
村居田古墳(450~470年代): 意富富等王(若野毛二俣王の子) ←長浜古墳群
垣籠(かいごめ)古墳: 坂田大俣王 ←長浜古墳群
塚の越古墳: 継体の祖父・呼非(おひ)王 ←息長古墳群
田中王塚古墳(5世紀後半): 継体の父・彦主人王 ←高島郡
山津照神社古墳(6世紀前半~半ば): 息長真手王 ←息長古墳群
鴨稲荷山古墳: 継体の長子大郎子(おおいらつこ)皇子 ←高島郡
*息長真手王は乎非王の子孫であり、継体のいとこではないかと推論
→ 息長真手王は継体に娘を后妃として送っている。(坂田大俣王も同じ)
また、継体の孫にあたる敏達の皇后広媛の父でもある。
*坂田郡に古くから原・息長氏のような土着豪族が存在。そこに若野毛二俣王が婿入りする形で入る。「咋俣長日子(くいまたながひこ)王」が若野毛二俣王に娘を納れる。
つまり、若野毛二俣王は近江国坂田郡に土着した初代の王家
→「咋俣長日子王」は原・息長氏を象徴する人物
→「咋俣長日子王」は意富富等王の外祖父となる。
*継体の父祖たちは、近江国坂田郡から美濃国、尾張に勢力を拡張した。
継体の祖父乎非王は美濃国武儀郡の豪族、牟羲都国造の娘を娶っている。
また、継体の妃「目子郎女」は尾張連の出身であり、継体が仁賢天皇の娘「手白香皇女」と婚姻するまでは、継体の正妻だった。父は尾張連草香。
*尾張型埴輪が近江から越前、淀川流域へと近畿地方に展開し分布する。それは継体の勢力拡大の広がりと一致する。
この他に、著者は渡来人、有明沿岸勢力、大和政権の非葛城連合勢力を考察していく。さらに、五経博士の来日を通じて、継体が百済文化の積極的導入を図った意図にも論を進めていく。
終章末尾までで245ページの新書であるが、継体並びにその時代状況を深く知るためには有益な一書だと思う。大胆な仮説提示という刺激があっておもしろい。
ご一読ありがとうございます。
関連施設や用語をネット検索して見た。一覧にしておきたい。
「5世紀のヤマト政権と三尾氏」 水谷千秋氏 :「豊中歴史同好会」
継体王権の出現 『福井県史』通史編1 原始・古代
継体大王の生い立ち :「継体大王と越の国・福井県」
史跡今城塚古墳とは :「インターネット歴史館」(高槻市)
県外の継体大王ゆかりの地 :「継体大王と越の国・福井県」
滋賀県(田中王塚古墳、鴨稲荷山古墳、水尾神社)
越の国を代表する古墳群 :「継体大王と越の国・福井県」
稲荷山古墳 学習シート NO.073 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課
茶臼山古墳 学習シート N0.040 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課
垣籠古墳 学習シート NO.041 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課
山津照神社古墳 学習シート N0.061 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課
鴨稲荷山古墳<<含む高島市歴史民俗資料館>> :「JAPAN-GEOGRAPHIC.TV」
高島市歴史民俗資料館 :「邪馬台国大研究」
4月1日に歴史都市・高槻市にオープン 今城塚古代歴史館 2011.2.9
:「阪急レンタサイクル公式ブログ」
秦氏考 :「おとくに」
『日本書紀』に記された秦氏のプロフィール :「京都の古代の風景に想いを馳せる」
渡来人 秦氏についての覚書
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継体天皇関連として過日一書の感想を載せている。
『大王陵発掘!巨大はにわと継体天皇の謎』
NHK大阪「今城塚古墳」プロジェクト NHK出版
こちらもご一読いただけるとうれしいです。
本書は2013年7月に出版された新書である。つまり、12年の歳月を経て継続的に研究されてきた成果、持論の一端が古代史に興味を抱く読者向けに書かれた新書だと言える。
著者は文献史学を専門とする研究者である。その著者が「あとがき」で継体天皇をめぐる研究状況について、「今やこの分野の主役は文献史学から、考古学を中心とした研究へと交代したかんさえある」とその冒頭で述べている。筆者は自ら専門的な考古学の手ほどきを受けていないという。そこで、「ただできるだけ現地に足を運ぶこと、論文その他から吸収した近年の膨大な考古学の成果を自分なりに咀嚼し、これを文献から行った自らの考察と突き合わせ、総合化し、できるだけ客観的な歴史像を構築して行くことしかできない」(p247)という認識のもとで、諸研究・諸史(資)料との格闘の結果を本書にまとめたという。
そういう観点だからだろうか、考古学的情報については諸研究成果の事実や論点の結論部分を巧みに採り入れて紹介し、時には疑問を呈し、文献史学的視点と比較検討しながら論を進めている。考古学の発掘プロセスの詳細な事実や論争点の細部へ踏み込むことがない分、素人には読みやすい形になっている。
前著は今城塚古墳からの大量の埴輪群発掘成果の報道前に書かれた本であり、高島市の現地古墳群を高島市歴史民俗資料館の白井氏の案内を受けて訪ねて回ったという探訪プロセスでの体験と思索を記しながら、継体天皇の存在に迫っていくというものだったと記憶する。本書では、それから10年という期間の研究がやはり濃縮されているように感じる。また、文献史学的立場だからこそ、立論を進めることができることかもしれないが、著者の所見、仮説をかなり大胆に本書で提示されているように思う。継体天皇をめぐる諸状況について、本書を読み、一歩踏み込んで理解を深めていくことができた。
本書の構成を目次の見出しでご紹介しておこう。
第1章 新たな謎の始まり
第2章 近江国高島郡と継体天皇
第3章 継体天皇のルーツを探る
第4章 冠と大刀
第5章 継体天皇と渡来人
第6章 有明海沿岸勢力と大和政権
第7章 百済文化と継体天皇
終 章 継体天皇とは誰か
著者が継体天皇のプロフィールとしてまとめた結論(持論)を最初に箇条書きでご紹介しよう。本書を読む楽しみは、なぜそういう推論、仮説が立論できるのか、という部分にあり、その思考並びに分析プロセスに沿って考えてみることこそ読者の楽しみと思うからだ。(著者の見解について、誤読箇所があるかもしれない。その点お断りしておきたい。本書を読まれて、気づかれた点があればご教示いただきたい。)
終章を基軸に、関連章とも絡めて要約してみたい。
継体天皇は、
*近江湖北の出身である。幼少時に母の里越前三国・高向で育つ(-著者はこの点に疑問符をつけている-)が、基盤は現在の高島市地域にある。
継体の母布利比売(振媛)の母方は余奴臣(江沼臣)-現在の石川県加賀市を本拠とした豪族-だが、父方は近江国高島郡の豪族、三尾氏であった。
*近江湖北を基点にして若狭、越前、美濃、尾張などを勢力の背景基盤とした。
*秦氏など渡来人を重用した。高島には渡来人との共存が見られ、若狭には秦氏がいたという事実がある。継体と渡来人の関係は深い。
*奈良大和との関係では、物部氏、大伴氏、和爾氏、阿部氏ら豪族の指示を受けた。
しかし、葛城氏(旧勢力の代表的存在)とは対立関係にあったようだ。
*近江高島の鴨稲荷山古墳で発掘された広帯二山式冠や捩り環頭大刀を、朝鮮半島で活躍し帰国した各地の首長に与え評価するという方法を採った。雄略天皇のやり方を採り入れている。著者は鴨稲荷山古墳の被葬者の半島渡海経験すら想定してみている。
*継体自らも半島に渡り、帰国した首長の一人だったのではないかと著者は推論する。
*若狭、日本海経由で継体は九州有明海の勢力との連携があった。
*継体は半島の武寧王と厚誼の関係、協力関係にあった。『日本書紀』から武寧王は461年生まれと推定できる。一方、継体はほぼ同年代だがやや年長だったようだ。
*継体は「礼」の導入により、中国を中心とする東アジア文明への参入、グローバルな文化の構築をめざした。
この継体のプロフィール理解に大きく関係するが、著者は本書でいくつかの推論・仮説を提起している。このあたりが研究を進展させた結果なのだろう。その論理展開が興味深い。古代史理解の広がりがでてくるように思う。その仮説とは、
*三尾氏や彦主人王は渡来人と同じ集落で生活し、大陸文化をいち早く取り入れ暮らしていた。そこが継体の育成環境である。
*彦主人王と継体天皇の父子は続けて高島郡の三尾氏から妻を娶っている。彦主人王と三尾氏のつながりはきわめて太い。彦主人王は三尾氏の本拠地に寄寓していた。
*継体の曾祖父は意富富等王であり、系譜上、息長氏・坂田氏
とは同祖関係となる。
息長真手王(息長氏の祖先)と坂田大俣王(坂田氏)はおそらく意富富等王の子孫。
息長氏、坂田氏の本拠地は坂田郡(現長浜市・米原市地域)で高島郡の対岸になる。
*著者は湖北の諸古墳群発掘調査成果を踏まえて、被葬者推定の試論を提示している。
長浜茶臼山古墳: 中央からこの地域に土着したいわば初代の王墓 ←長浜古墳群
村居田古墳(450~470年代): 意富富等王(若野毛二俣王の子) ←長浜古墳群
垣籠(かいごめ)古墳: 坂田大俣王 ←長浜古墳群
塚の越古墳: 継体の祖父・呼非(おひ)王 ←息長古墳群
田中王塚古墳(5世紀後半): 継体の父・彦主人王 ←高島郡
山津照神社古墳(6世紀前半~半ば): 息長真手王 ←息長古墳群
鴨稲荷山古墳: 継体の長子大郎子(おおいらつこ)皇子 ←高島郡
*息長真手王は乎非王の子孫であり、継体のいとこではないかと推論
→ 息長真手王は継体に娘を后妃として送っている。(坂田大俣王も同じ)
また、継体の孫にあたる敏達の皇后広媛の父でもある。
*坂田郡に古くから原・息長氏のような土着豪族が存在。そこに若野毛二俣王が婿入りする形で入る。「咋俣長日子(くいまたながひこ)王」が若野毛二俣王に娘を納れる。
つまり、若野毛二俣王は近江国坂田郡に土着した初代の王家
→「咋俣長日子王」は原・息長氏を象徴する人物
→「咋俣長日子王」は意富富等王の外祖父となる。
*継体の父祖たちは、近江国坂田郡から美濃国、尾張に勢力を拡張した。
継体の祖父乎非王は美濃国武儀郡の豪族、牟羲都国造の娘を娶っている。
また、継体の妃「目子郎女」は尾張連の出身であり、継体が仁賢天皇の娘「手白香皇女」と婚姻するまでは、継体の正妻だった。父は尾張連草香。
*尾張型埴輪が近江から越前、淀川流域へと近畿地方に展開し分布する。それは継体の勢力拡大の広がりと一致する。
この他に、著者は渡来人、有明沿岸勢力、大和政権の非葛城連合勢力を考察していく。さらに、五経博士の来日を通じて、継体が百済文化の積極的導入を図った意図にも論を進めていく。
終章末尾までで245ページの新書であるが、継体並びにその時代状況を深く知るためには有益な一書だと思う。大胆な仮説提示という刺激があっておもしろい。
ご一読ありがとうございます。
関連施設や用語をネット検索して見た。一覧にしておきたい。
「5世紀のヤマト政権と三尾氏」 水谷千秋氏 :「豊中歴史同好会」
継体王権の出現 『福井県史』通史編1 原始・古代
継体大王の生い立ち :「継体大王と越の国・福井県」
史跡今城塚古墳とは :「インターネット歴史館」(高槻市)
県外の継体大王ゆかりの地 :「継体大王と越の国・福井県」
滋賀県(田中王塚古墳、鴨稲荷山古墳、水尾神社)
越の国を代表する古墳群 :「継体大王と越の国・福井県」
稲荷山古墳 学習シート NO.073 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課
茶臼山古墳 学習シート N0.040 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課
垣籠古墳 学習シート NO.041 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課
山津照神社古墳 学習シート N0.061 滋賀県教育委員会事務局文化財保護課
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渡来人 秦氏についての覚書
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継体天皇関連として過日一書の感想を載せている。
『大王陵発掘!巨大はにわと継体天皇の謎』
NHK大阪「今城塚古墳」プロジェクト NHK出版
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