遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『親鸞』上・下  五木寛之  講談社

2022-04-01 11:36:49 | レビュー
 本書は、奥書を読むと、2008年9月1日から2009年8月31日まで新聞27紙に連載された後、加筆修正されて2010年1月に上・下巻の単行本として発刊された。2011年10月に「青春篇」の副題が付き文庫化されている。

 この小説『親鸞』は親鸞の幼少の頃から30代にいたる放浪、勉学の時代を描き出す。
 著者は親鸞の生涯を大まかに三期にわけてとらえていて、本書は親鸞の人生の初期に焦点をしぼっている。当初からの構想だったのか、新聞連載が好評でその後も継続したのか、どちらなのかは知らないが、この後「激動篇」「完結篇」が引き続き、三部構成の作品になっている。
 「激動篇」は親鸞が流刑者として越後に配流となり、その後関東において家族とともに暮らした時代を扱う。「完結篇」では親鸞が京都に戻り、60代から享年90歳で没するまでを扱っている。

 著者は「完結篇」の「あとがき」に「この作品は、典型的な稗史(はいし)小説である。」と記す。「中国で民間に語りつがれる噂や風聞を、身分の低い役人が集めて献上したものを稗史といった。稗史小説という言葉は、ここからきているらしい」と述べ、この自作『親鸞』を「正確な伝記でもなく、格調高い文芸でもない。あくまで俗世間に流布する作り話のたぐいにすぎない」「事実をもとにして自由に創作されたフィクションである。」と明確に述べている。

 これは逆に、読者にとっては幼少期、忠範と称した親鸞がなぜ比叡山に登り、後に比叡山を飛び出して法然の門下に入ったのか。さらに、後鳥羽上皇の逆鱗に触れた専修念仏の道を歩む一人として、越後に流罪の身となったのか。役人からは藤井善信(ふじいのよしざね)という俗名を与えられ、自らは越後に旅立つ時点で愚禿親鸞と名乗るのはなぜか。親鸞の人生初期における点的史実はきっちりと読者にわかりやすい形で織り込まれている。その空隙に著者の自由な創作が組み込まれ、読者を惹きつけていく。人生の初期段階で親鸞が選び取った行動とその思いを楽しみながら読み進めることができる。
 親鸞の思考プロセスと基本的エッセンスを教条的になることなく理解できると思う。

 本書ののおもしろさは、「親鸞という特異な宗教家」が主人公として中心にいて、中世に生きた様々な人々の姿、有り様が描き出され、それら一群の人々が親鸞の人生と要所要所で絡んでいくプロセスにある。そこにフィクションが加わっている。親鸞を支える人々。親鸞を破滅させようと企む人々。人々の関わり方の白黒がわかりやすく、おもしろさとなる。

 ストーリーは、忠範(=親鸞)8歳の時点から始まる。父日野有範は出家して家を出、母は死に、忠範は弟たちとともに伯父日野範綱の許に引き取られる。忠範にとって肩身の狭い幼少期が始まる。
 忠範は伯父の宗業の所に寄ると召し使いの犬丸に嘘をつき、黒頭巾と牛頭王丸という名物牛の対決する競べ牛を見物に行く。牛が暴れ、忠範は危地に陥るが、河原坊浄寬に助けられる。浄寬は鴨川の河原に住みつき、河原にすてられた屍の世話をする河原の聖である。忠範はこの浄寬との関わりを深めていく。それを契機に奇妙な男たちとのつながりが生まれる。白河の印地の頭だったというツブテの弥七、弥七に大ボラ吹きの乞食坊主と笑われる法螺坊弁才。そして伯父範綱の召し使いである犬丸。犬丸は一方で闇の顔を持ち、後白河法皇とも闇の世界の一端でつながりを持っている。
 河原坊浄寬、ツブテの弥七、法螺坊弁才、犬丸という人々が、忠範8歳の時点から親鸞の生涯に渡って、親鸞を支える陰の群像として折々に登場し続けるのだからおもしろい。つまり、親鸞にとって生涯のサポーターである。ここにフィクションのおもしろさがある。
 浄寬らとの交わりの中で、忠範は祖父日野経尹(つねまさ)以来の放埒人の血を自覚していく。

 一方、著者は、当時六波羅一帯に集い住み勢力を誇った平清盛が、探索方として京の町に放った六波羅童(ろっぱらわっぱ)の頭領・六波羅王子、伏見平四郎を登場させる。水もしたたるいい男なのだが、その相貌に反して拷問を好む強烈な嗜虐性を持つ男である。自ら十悪五逆の魂を持つと言い放つ。親鸞に挑みつづける悪役。著者はおもしろいキャラクターを配した。波乱含みの活劇仕立ての場面が織り込まれていくことになり、読者を飽きさせない。平四郎に対抗するのは、勿論、浄寬、弥七、法螺坊弁才、犬丸などである。結果的に、この平四郎が、生涯をかけ親鸞を葬りさろうと狙う群像の一人になる。

 8歳の忠範は浄寬らとの交わりを通して社会の底辺を実体験する。比叡山に上ることをめざし出家の道を歩み出すことが幼年期との別れになる。これからどう生きるのか、比叡山に行くかと忠範に問いかけたのは法羅坊だったという流れが興味深い。

 親鸞の初期の人生は様々なエピソードを交えながら次のような節目を経て行く。
 9歳の忠範は慈円と面談する。白河房に入室。範宴の名を与えられ出家の準備に入る。
 12歳で比叡山に入山。
 入山して間もなく、横川の音覚法印を師とし歌唱の指導を受ける。讚嘆を好む。
  ⇒著者は慈円に「天台の声明を学べば大成するかもしれぬ。またよき引声念仏の僧ともなれよう」と言わせている。
 19歳の範宴は、ここ数年間<自分には仏性がないのではないか>と疑問を抱いてきた。
 19歳の範宴は後白河法皇の催す暁闇法会後の深夜の歌競べで最後にうたうことに。
  ⇒この場面に著者は黒面法師を登場させる。この経緯がおもしろい。
   黒面法師とは何者か。本書で楽しんでほしい。三部作中で要所要所に登場する。
 法会後、慈円の指示で白河房に留まる。大和・磯長の聖徳太子廟への参籠に旅立つ。
  ⇒この旅で範宴は傀儡の女・玉虫に出会う。この出会いが後の重要な伏線になる。
   範宴は二上山から葛城、金剛の古道を経て法隆寺を訪れる。
 慈円からは吉水の法然房の様子を調べよと指示を受けていたという設定がある。
  ⇒山の念仏と法然の念仏。慈円の範宴に対する問い詰めはひとつの読ませどころ。
 範宴は横川で修行を再開。慈円からの受戒を拒否し、自誓自戒を表明したと描かれる。
  ⇒範宴の修行の有り様が克明に描かれて行く。範宴の修行の苛烈さが感じ取れる。
   このとき、範宴の世話をするのが若い良禅。彼は学生として入山していた。
   範宴が比叡山を去った後、良禅は親鸞打倒を画策する首謀者に転身していく。
 29歳の折り、範宴は六角堂での百日参籠を思い立つ。比叡山からの通いによる参籠!
  ⇒この参籠は、六角堂で施療所を開く法螺坊との再会にもなる。転機の契機に。
   紫野(しの)と名乗る女との出会い。運命的な人生の転機の始まりとなる。
   紫野が範宴に語った言葉が、範宴の心に大きく響き、頭に残る。
 法羅坊を介して、熱い欲望の目覚めを引き起こさせる傀儡女に会う機会が生まれる。
  ⇒そう玉虫。10年後の今は大和随一の今様の歌い手當麻御前。だが悲劇が起こる。
   
 上巻は結構波乱万丈のエピソードを含みながら、範宴が山に戻らない決心をするところで終わる。

 下巻は六角堂での百日参籠の最終ステージの描写から始まる。有名な夢告は現実感のある展開として描写されている。その場に紫野が居るのだ。紫野が言う。「吉水へ、おいでなさいませ」と。
 29歳の範宴は、100日間の吉水の草庵通いを決心をする。これが専修念仏の道への第一歩となる。
 下巻では法然の念仏に対する思い、選択という考え方が底流として語られていく。法然の考える念仏について、わかりやすく記述されていて、専修念仏の考えの基本がわかることにもなる。100日間の聞法の後、範宴は法然に会い、弟子として受け入れられ、綽空という名を授けられる。
 一方、他宗派の圧迫と動向が織り込まれていく。専修念仏に吹く嵐の兆しである。

 吉水に集まる念仏信者の増大が進む一方、法然の説く専修念仏についても弟子の間に、一念義、多念義など様々な解釈の幅が生まれていく。称名念仏の隆盛は、他宗派の反感・圧力につながり、法難へと進展する。法然は「七ヵ条の起請文」を延暦寺に送る。
 起請文が送られた後の時点で、綽空は法然から『選択本願念仏集』の書写を許される。法然は書とともに新しい名・善信を授ける。綽空が心の中で繰り返していた名をまさに法然から授けられたという。
 安楽房遵西と住蓮が東山で行った夜中の念仏法会に参加した二人の後鳥羽上皇の女官が出家する事件が起こる。それが上皇の逆鱗に触れ、1207年に専修念仏禁止の事態に。法然は土佐への配流。善信は越後への配流などという結果となる。
 下巻ではこのプロセスが進行していく。愚禿親鸞と名乗り、越後に出立するところで、この第一部が終わる。

 下巻にはストーリーとして、いくつかの山場がある。読者を飽きさせない仕掛けが織り込まれている。その点に触れておこう。
*紫野が越後に戻り、療養することになる。紫野は出家はしないが恵信と名乗る。
 代わりに、京には鹿野という妹が出てくる。この鹿野は綽空に惹かれていくが、綽空は距離を置く。そこから鹿野に関わる別方向へのエピソードが進展していく。そこに安楽房遵西が関わっていく。これは著者が創作したフィクションだろうが、読者には興味津々の顛末となる。
*日野範綱の召し使いだった犬丸は主家を離れ、独立して商売に成功する。葛山犬麻呂と改名し、綽空の前に登場する。妻サヨとともに、綽空をサポートする役割を担っていく。
*恵信(=紫野)が再び都に戻って来る。綽空は恵信を妻にする。
*法然が著した『選択本願念仏集』を盗みだすという企みが進行する。黒面法師が企てるのだが、安楽房遵西が盗みだしに加担するという。一方、黒面法師は白河にそびえる法勝寺の八角九重塔を焼くという。
*慈円の意を受ける形で、良禅が善信を打倒の対象として登場してくる。

 最後に、印象深い文章をいくつか引用しておこう。
*わたくしがごときに選択集をおあたえになったのも、その心は、これで選ばれた真の弟子にしたぞ、というのではなかろう。わが仏法の真実をそなたにわたしたぞ、それを抱いて自分の道を往け、とおっしゃっておられるのだ。恵信どの、もしも生涯の師弟というものがあるとすれば、師、高弟、弟子、門下、といったつながりではなく、易行念仏を説きつつ人びとの暮らしの底にそれぞれはいっていくところにあるのかもしれぬ。旅立つことが真の師との出会いなのだ。  下、p226
*わたしは浄土にはいったことがありません。ですから、師の言葉を信じるしかないでしょう。信じるというのは、はっきりした証拠を見せられて納得することではない。信じるのは物事ではなく、人です。その人を信じるがゆえに、その言葉を信じるのです。
 わたしのような者を、しっかりと信じてくださった。だからわたしも法然上人についていくのです。     下、p262-263
*聖とは、世を捨てた僧のことではない。世間の俗塵にまみれながら、俗に染まらぬ生き方をつらぬくことだ。 下、p278

  ご一読ありがとうございます。
 
本書に関連して、ネット検索した事項を一覧にしておきたい。
法然上人とお念仏  :「浄土宗総本山 知恩院」
法然        :「Web版 新纂浄土宗大辞典」
宗祖親鸞聖人 ご生涯 :「お西さん(西本願寺)」
親鸞聖人の生涯  :「東本願寺」
親鸞聖人を訪ねて :「真宗教団連合」
親鸞    :「Web版 新纂浄土宗大辞典」
専修念仏 :「Web版 新纂浄土宗大辞典」
選択本願念仏集    :「Web版 新纂浄土宗大辞典」
七箇条制誡      :「Web版 新纂浄土宗大辞典」
七箇條の起請文 (浄土宗全書) :「WIKISOURCE」
仏の道に殉じた青年僧たち”住蓮房・安楽房”の伝説  :「胡国浪漫風土記」
住蓮  :「Web版 新纂浄土宗大辞典」
遵西  :「Web版 新纂浄土宗大辞典」

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