遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『与楽の飯 東大寺造仏所炊屋私記』  澤田瞳子  光文社

2020-07-07 21:53:15 | レビュー
 本書は「小説宝石」の2013年12月号~2015年2月号の偶数月号(4月を除く)に、短編連作として発表されたものをまとめて、2015年8月に単行本化された。
 副題から、東大寺の毘盧舎那大仏造立の作業所に関連する内容であること。その作業所に設けられた炊屋つまり食堂が関係してくるということ。そして、私記とあることから個人的な記録であるということ、という位置づけと推定できる。

 本書は、「山を削りて」から始まり「鬼哭の花」で終わる7編の短編から構成されている。読み始めるとこれら短編が連作として時の経過にそって相互に繋がっていくことがわかる。この小説のテーマは東大寺の毘盧舎那大仏(以降、大仏と略す)がどのようにして造立されたのか、さらに大仏とは何か、をその造像作業に徴発された人々の側から描くことであると受けとめた。
 このテーマは、さらに幾つかのサブ・テーマにブレークダウンされていく。そして個々の短編として描き出されている。この小説もオムニバス形式と呼ばれるものに相当するのだろう。
 この小説の主な登場人物の中で全編を通じてその中核となるのは、造仏所の仕丁(中央の官司で労役に当たる役夫)の真楯(またて)と造仏所で炊屋を運営する宮麻呂である。このストーリーの各編は真楯の目線・立場から描かれている。

 この小説で興味深い点がいくつかある。まずそれを列挙してみる。
1. 造仏所で仕丁として働く真楯の大仏に対する心境が、一緒に働く仲間たちやその他の人々との関わりの中で変化していくプロセスが描かれて行くこと。
2. 宮麻呂とは何者か? この点が短編連作のプロセスで明らかになっていく。
 それは、宮麻呂が仏教を、大仏を、大仏と人との関わりをどのようにとらえているか。それはなぜなのか、ということを知るプロセスでもある。
 真楯から宮麻呂を観察した解釈・推論としてのミステリー仕立て風になっているところがおもしろい。最後は宮麻呂が己の過去を語ることになる。
3.東大寺造仏所がどのような組織で、どれくらいの規模で、どのように運営されていたか。大仏がどのようなステップを踏んで鋳造されていくか、が具体的にわかる。毘盧舎那大仏造営の背景事情が教科書的解説ではなく、ストーリーの流れの中に少しずつ説明が組み込まれ、自然にわかって行くというところが興味深い。

 小説の内容をご紹介する前に、手許の『続日本紀(中) 全現代語訳』(宇治谷孟訳・講談社学術文庫)に記録されている史実(巻15~巻18)を年表風に略記し、ご紹介しておこう。
 天平15年(743)冬10月15日条 盧舎那仏の金銅像一体の造営の詔を発す
           紫香楽宮で大仏造営を開始。
   同年10月19日条 甲賀寺の寺地を開く(行基法師の活動)
 天平16年(744)夏4月13日条 紫香楽宮の西北の山で山火事
 天平17年(745)正月21条 行基法師が大僧正に任じられる
   同年夏4月1日、4月3日、4月11日 各条に紫香楽宮周辺の山での火災を記録
   同年地震の発生の記録が頻出する 5/1~5/10の各条、5/16・18、7/17・18、
                   8/24・29、9/2
    ⇒紫香楽宮での大仏造像は断念され、平城京での造像に方針変更となる
   同年9月25日条 天皇が平城京に還幸  9月26日条 天皇が平城京に到着
 天平18年(746)10月6日条 天皇ほかが金鐘寺(東大寺の前身)に行幸
              盧舎那仏(鋳造前の模型)に燃灯供養を行う
 天平勝宝元年(749)2月2日条 大僧正の行基和尚が遷化(死去)
   同年2月22日条 陸奥(みちのく)国からはじめて黄金を貢進した。
   同年夏4月1日条 天皇が東大寺に行幸し、盧舎那仏の前殿に出御

 この後、天平勝宝3年(751)春正月14日条には孝謙天皇の東大寺行幸が記され、翌年の天平勝宝4年(752)夏4月9日条に、東大寺盧舎那仏の像が完成して、開眼供養をしたと記されている。天皇は東大寺に行幸し、盛大な法会が行われた。
 聖武天皇はこの開眼供養においては、太上天皇として臨席したのだろう。そして天平勝宝8年(756)5月2日条に、「この日、太上天皇が内裏にいて崩御された」と記されている。
 この小説を読み、上掲の略年表と対比すると、天平18年(746)から749年の行基和尚の死までの期間が時代背景になっている。

 それでは、各短編を簡単にご紹介する。
<山を削りて>
 近江国高島郡に住む真楯が仕丁として徴発され、造仏所に配置されることとなった初日から、東大寺大仏鋳造開始を半月後に控えた晩秋の日までを描く。
 初日に、仕丁頭の猪飼と造仏所炊屋を運営する宮麻呂との出会いがある。山を削り、大仏鋳造のしかたを含めた準備段階の状況や造仏所の組織の有り様、炊屋の運営の実状などが書き込まれる。
 病人の仕丁浄須のことが大仏とはなにかというテーマに絡むひとつのエピソードになっている。真楯の心境が次の一文として書き込まれている。「自分たちを激しい労役に駆り立てる大仏造営を、疎ましく思わぬ日はない。さりながらこの作事場で働き続けていれば、いずれ浄須が何を思って仏への結縁を求めたのか、少しは理解できる日が来るように感ぜられた。」(p45-46)
 教科書や学習参考書に詳しくは出てくることのない、大仏造営の現場がイメージしやすくなる。

<与楽の飯>
 真楯は同輩の小刀良に呼ばれて、宮麻呂の炊屋に手伝いに行く。炊屋には先月水仕女として牟須女が雇われていた。しかしこの日は行基の弟子衆の誘引で在家の人々が造瓦所の手伝いに来て、この炊屋で食事をすることが加わり、大混雑していたのだ。
 宮麻呂は法弟衆のために、不殺生の戒を犯さぬように冬薯蕷を具とした一汁を特別に作っていた。だが、その汁を盗もうとしている男に牟須女が気づき、結果的に汁鍋をひっくり返されるという事件が起こる。そこから宮麻呂にあらぬ嫌疑がかかることになる。
 また、盗もうとしていた男を見つけ、宮麻呂に会わせることから、新たな展開が始まる。
 さらに、行基の弟子衆の一人、栄慶が宮麻呂の顔を見たときに驚愕の声を迸らせた状況と二人の短い会話を目撃した真楯は、宮麻呂という存在に関心を抱き始める。
 大仏造像のために徴発されてきてここで働く仕丁たちの「食」にハイライトが当たっている。仏法のための仏像造像に携わる人々が体力維持のために肉食で栄養を補うという現実の側面が描かれていて興味深い。

<みちの奥>
 大仏の3段階目の鋳込みが終わった頃の一事件を描く。(鋳造計画は8回に区分)
 仕丁頭の猪飼が労役3年の定めを引き延ばされたことで、くさっているところから始まる。その猪飼を造寺司主典(さかん)・葛井根道が何とか説得しようと試みる。
 真楯と一緒に造仏所に配置された鮠人(はやと)の組に最近加えられた乙虫-陸奥国から来た仕丁-に焦点があたる。骨惜しみせず働くのだが、彼の話す言葉が通じない。蝦夷かと奇異な目で見られている。また役人からは蔑まれている。
 そんな折、棹銅10本の盗難騒ぎが起こる。乙虫の床の下から2本が発見されたことで、乙虫に嫌疑がかかった。陸奥より来たばかりの男と聞いた宮麻呂は飛び出していく。その後を猪飼が追うことに。宮麻呂が棹銅の数が合わないという背景の謎解きをする。そして猪飼は仕丁頭として造仏所舎人の安都雄足と乙足の無実について交渉することに。
 この事件には別の意図が隠されていた。一方、雄足には蝦夷を憎悪する私怨もあった。
 乙虫の言葉を宮麻呂がわかっている感じであることと雄足の発言を聞いた折の宮麻呂の態度を眺めて、真楯は宮麻呂は何者かと一層関心を抱く。
 組織内における主導権争いの確執や内奥の怨念の一端が歪んだ形で行動化される様が描かれている。

<媼(おうな)の柿>
 大仏の第5段目の鋳込みを迎えた段階で、造寺司長官の市原王が、造東大寺司の高官・佐伯今毛人の案内で視察に来る。合図を受けて一斉に炉口が開けられ熔銅が樋に奔出した時、一個所で熔銅が樋から跳ねて溢れ出る事故が発生する。幸い死人は出なかったが8人が大火傷などを被った。その一人が鮠人だった。市原王は手厚い看護を指示した。隼人はなぜか、看護には雇女を要望し、絵所に勤める若狭売という60を過ぎた媼を指名した。作地場の奪衣婆とも呼ばれ、強欲で金貸しをする媼である。
 なせ、鮠人が若狭女を要望したのかという謎と若狭女が引き起こす騒動の物語。
 造寺司の一画に療養場所が設けられた。その造寺司に行基が訪れて休息する場面が加わってくる。たまたま鮠人の見舞いに行った真楯は、栄慶に出逢うとともに、行基の一面を垣間見ることに。
 人は普段なら他の人には見せない側面がある。その見せない側面が見られることになり描き込まれていく。

<巨仏の涙>
 真楯の同輩小刀良は、石見・出雲両国を襲った悪疫により妻と娘が死んだという報せを受ける。それが原因で、馬馗という30過ぎの奴の誘いに乗り逃亡をはかり、大騒ぎになる場面から始まる。馬馗は3年前に東大寺に売られてきたで、頭の南備も手をやくワルだった。小刀良を何とか見つけることができた。一方、馬馗は安都雄足に見つけられ、小屋に戻ったという。
 千手という老奴の言で、その馬馗は造寺所長官の国公麻呂に気に入られ、時折手足として用事を言いつけられているという情報を猪飼と真楯が知る。
 小刀良の件が一段落し、周囲が明るみ始めて、猪飼は東大寺の作事場に首天皇が行幸される予定を思い出す。それで、長官の国公麻呂が大鋳師の高市大国を陥れるために謀略をしているのではないかと気づく。そして、真楯とともに己の裁量でその阻止をはかる。その顛末譚がおもしろい。その結果、猪飼と真楯にとっても、重要な生き方の選択発言をすることになっていく。
 大仏は誰のものなのか? それがこの短編の根底に横たわっている。
 もう一点、宮麻呂が真楯に質問し、真楯の返事を聞いた上で、重要な課題を語りかけている。この短編を楽しんでいただきたい。 

<一字一仏>
 写経所の廚が食中りを出したことが原因で、約50人の写経生の食事を、一時期宮麻呂の炊屋で面倒をみることになる。役人の葛井根道はその代わり、仕丁の食事時間帯の前後に振り分けて負荷を分散することを約束した。だが、その決めを平然と無視する5人の写経生がいた。炊屋で彼らを観察する真楯の目と思いから語られて行く。
 写経所の仕組みと経師が校生を侮蔑する姿が描かれる。そして、経師5人組の中につき従う黒主と校生となっている阿須太という、元興寺から東大寺の写経を手伝うように派遣された二人の写経生が事件を引き起こす展開となる。
 造仏所の仕丁とは違った写経所の写経生たちの世界が対比的に描き出される。
 人と人のつながりが生み出す人としての温かみがテーマになっている。経典を写すという仏に近いはずの写経生がいつしか仏から遠ざかっているというパラドクスが描かれる。 牟須女の小声でぼやく「ここに銭なんぞないからこそ」というのが、キーフレーズにもなっている。

<鬼哭の花>
 造仏所の作事場では七段目の鋳込みが終了し、次の八段目との結合部分について半月あまり試行錯誤しているという状況から始まる。
 深更に宮麻呂は行基が拠点とする菅原寺を真楯と訪れることになる。だが、宮麻呂は大仏の上で揺れる小さな火影に不審を抱き、まず確かめに現場へ走る。そこには忍海の金工の石隅が居た。大仏の首継ぎの件で、鋳師衆の試行錯誤の苦労を、鍍金の技で助けられないか思案するために大仏を見に来たという。そして、砂金だろうが鉱金だろうがなんでも扱えると宮麻呂に豪語する。ここに一つの伏線が敷かれていることを後で理解した。
 行基が目を覚まさないので、粥づくりを諦めて炊屋に戻ることになる。帰路、大仏の肩先に灯が大きく膨れ上がる。大仏の火事! 付け火と推測した宮麻呂は真楯と犯人を捕まえるための行動に出る。付け火の犯人を捕らえると意外な男だった。
 ここに仏とは何かというテーマが大きくのしかかっていく。
 火は大事に到らずに消し止められた。一方、造仏所舎人の安都雄足が犯人の捜索をする。
 栄慶が宮麻呂を呼びに来る。行基が目を覚まし、宮麻呂を呼ぶようにと指示したという。宮麻呂は真楯に碾磑(石臼)を運ばせて菅原寺に駆けつける。宮麻呂は行基のために割り粥を作るという。
 行基の宮麻呂に対する語りかけは、宮麻呂の過去に繋がって行く。
 そして、後に宮麻呂は真楯に己の過去を語る。また犯人の逮捕を目指す雄足に宮麻呂が告げたことは一つの衝撃となる。
 この最後の短編で、宮麻呂とは何者かという真楯の疑問が氷解する。
 「鬼哭」とは「死者の魂がなくこと・声」(『日本語大辞典』講談社)を意味するという。この短編のタイトルにふさわしい気がする。この「なく」という言葉にさまざまなスタンスでの意味が重層化されているように感じる。

 
 ご一読ありがとうございます。


本書から関心事項を調べてみました。一覧にしておきます。
華厳宗大本山 東大寺 公式ホームページ
  よくあるご質問 -FQA-
東大寺  :ウィキペディア
東大寺盧舎那仏像  :ウィキペディア
3次元形状計測された世界最大規模の「東大寺盧舎那大仏」 影山幸一氏:「artscape」

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

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徒然に読んできた著者の作品の中で印象記を以下のものについて書いています。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『駆け入りの寺』  文藝春秋
『日輪の賦』  幻冬舎
『月人壮士 つきひとおとこ』  中央公論新社
『秋萩の散る』  徳間書店
『関越えの夜 東海道浮世がたり』  徳間文庫
『師走の扶持 京都鷹ヶ峰御薬園日録』  徳間書店
『ふたり女房 京都鷹ヶ峰御薬園日録』  徳間書店
『夢も定かに』  中公文庫
『能楽ものがたり 稚児桜』  淡交社
『名残の花』  新潮社
『落花』   中央公論新社
『龍華記』  KADOKAWA
『火定』  PHP
『泣くな道真 -太宰府の詩-』  集英社文庫
『腐れ梅』  集英社
『若冲』  文藝春秋
『弧鷹の天』  徳間書店
『満つる月の如し 仏師・定朝』  徳間書店

『警視庁公安部・青山望 最恐組織』  濱 嘉之  文春文庫

2020-07-06 22:07:21 | レビュー
 青山望シリーズの第12弾で、2018年12月に文庫のための書き下ろしとして出版された。そして、これがこのシリーズの最終作となる。なぜなら、ここで取り扱われる事件を最後に、同期4人のカルテットが組めなくなるというエンディングを迎えるに到るからだ。

 最初にこのタイトルに触れておこう。龍が中学、高校の同窓会人脈から、担当案件に関連する背景情報を収集するために関西に一週間の出張をする。そして彼らとの会話の中で龍が語った言葉に出てくる。次の様な会話がかわされる。
 「ゴミは多いで」
 「ようわかっとります。その中でも、いまのうちに摘んでおかねばならないような、根絶ちしておいた方がいいようなゴミを取り払おうと思うてます」
 「それは警察を挙げて・・・・・という意味か?そやないと意味ないで。九州、福岡の暴力団狩りのようにな。徹底的に集中できるかどうかや」
 「今、それを任されてます。刑事警察だけやのうて、公安も一緒ですわ」
 「公安か・・・・恐ろしい組織なんやろな?」
 「まさに最恐組織ですわ。あらゆる手をサラッと使って、敵を根絶やし・・・・という感じですわ」
 ここに龍が警察務めの仕上げにしようと追跡している案件への意気込みが現れている。

 来年、内山警視総監は任期より半年早く辞任し国政を目指し衆院選に出る心づもりである。彼は大和田に参議院選挙に選挙区から出馬してはどうかと声を掛けた。その根回しも既にできているという。内山は国政の場に臨むにあたり、懐刀となる人材を欲し、大和田の力量に目をつけていた。大和田は重大な選択の岐路に立つことになる。
 一方、龍は実家がもと関西財閥の一つであり、現在扱っている案件を解決した後、辞職して実家に戻り実業界に身を転じることを考え、密かに準備をしているという。
 ノンキャリアの4人が、警察組織の中でノンキャリアの最高到達と見做されるポジションに一緒につけないことは明白な事実である。警視庁に入り、50歳を目前にした彼らはそろそろ警察組織内での生き方の選択を迫られていた。今後の生き方をどう選択するかの思いが底流に描きこまれていく。それは警察組織におけるノンキャリアの出世の限界を描き出すことにもなっている。

 それぞれは直面する事件の捜査を指揮しながら、最後の機会として同期カルテットの強固なチームプレイを発揮していく。その結果、それぞれが担当する事件は背後で巧妙にリンクし接点をもっていた。その壮大な構図が明らかになっていく。政治の世界と金融界との繋がり、そこに反社会的勢力が巧妙に絡んでいるという構図は、フィクションではあるが実にリアル感に溢れている。
 4人が己の生き方をどう選択するのか。それがどのように描き込まれていくかという点は読者にとって気がかりなサブ・テーマとなる。

 プロローグは、東京マラソンの走行ルートで発生する事件の経緯を描く。四井銀行本店の総務部長と副部長が初出場を果たす。ハーフポイントを過ぎた給水所でボランティアから手渡された栄養ドリンクを飲んだ副部長の土山啓介が突然腹部を押さえて蹲る。そのまま死亡。これが事件の発端となる。行政解剖の結果、血液分布異常性ショックによる多臓器不全とされた。だが5日後に検体分析結果が判明し、胃の中から高濃度のメタフェタミンが検出され、急性覚醒剤中毒死とわかる。ボランティアが運営している給水所で多量の覚醒剤を混入したドリンクを飲んだことに起因する。オリンピックを2年後に控えて、東京マラソン中に発生した事件は、都知事ばかりでなく官邸まで揺るがす問題になる懸念を含む。いわば一種のテロ行為の可能性まで想定する必要があるかもしれないと・・・・。
 深川署に特別捜査本部が立ち、捜査第一課が担当する。四井銀行が捜査に非協力的であり、被害者本人が何度もの銀行統合を経て四井銀行での現在の地位に就いていることも影響し、捜査が暗礁に乗り上げる。
 また、5月に行われる浅草三社祭の最中に、警備に就いていた機動隊員が仲見世の裏通りを移動中に、5人のマル暴風の男たちが心肺停止状態になっているのを発見する。福山会系の浅草中村組の連中で、その一人は若頭補佐の古賀俊作と判明した。検体の組織検査結果で、こちらも急性覚醒剤中毒と断定される。浅草署に特別捜査本部が立つが、こちらは組対第四課が担当することになる。組対第四課長はキャリアだが変わり者という。
 このストーリーの始まりでまず面白いのは、警察組織の所管の縦割りと地域割り、そして個別組織ごとの力関係や思惑が、特捜本部の設置自体に絡んでいることの描写にある。

 これら特捜本部が立った時点で、カルテットの面々がどう関わっていくのか。
 大和田は内山総監の特命を受けて、東京マラソン事件に関わっていく。
 青山は、まず大和田から連絡を受け、情報交換をする。また青山は藤中と会う。一方、大和田は龍と合う。
 青山は、独自に調査を始める。大和田との情報交換で、岡広組系二次団体が行ったシャブを飲ませるという公開処刑の例から、急性覚醒剤中毒症状と致死量の関係、2つの事件の関係に注目する。公安総務課長と話し合った青山は、副部長土山の銀行内での勤務経歴情報を課長から入手できた。それを契機に、土山の履歴の詳細追跡を手がけて行く。それが様々な過去の事件との繋がりへと波紋を広げていく。この縺れた糸が解きほぐされていくプロセスが読ませどころとなる。

 土山の銀行勤務履歴は、関西の中規模銀行の兵庫大空銀行から始まっていた。そこで青山は、関西経済の裏側を知る為に、龍に協力を依頼する。彼の実家が元関西財閥だったことによる。その結果、龍が爺と呼ぶ吉澤清造、大菱銀行神戸支店顧問と青山は面談する。それは青山にとり関西経済を動かす人々の存在、経済の裏側での密なる情報交換の実態を知る経験でもあった。土山は将来の銀行統合化を見据え、敢えて地方銀行に入行して頭角を現す戦略をとったことがわかる。土山が裏の世界と繋がりのある側面の業務に積極的に関わっていたことも見えて来る。
 一方で、青山は岡広組総本部若頭補佐の白谷にコンタクトをとる。昔話とともに最近の関西の金融事情を知るためである。裏社会から見た経済の動きを探るというところ。エピソードとして関西空港の埋立造成の話が出てくるが実に興味深い。リアル感が漂ってくる。
 様々な情報収集は、隠退して高野山に棲む清水保との面談に青山を導いていく。

 龍は岡広組総本部のマネーロンダリングを追跡していた。代々木教をはじめとした宗教団体の財務や政治家が多く連なっている状況が明らかになってきたと龍は青山に語る。情報収集で関西に出張した龍は、同窓会仲間から神戸の造船所の軍艦造船技術がチャイニーズマフィア関係に狙われているという噂を聞くことになる。

 大和田は独自に、新宿歌舞伎町で福山会系一次団体の組長・根岸徹と会い、裏社会の動向について情報収集を試みる。そこには幾つもの問題兆候が含まれていた。

 藤中は所轄警察署長を経験した後、再び警察庁長官官房分析官に戻っていた。そして、チャイニーズ・マフィアとコリアン・マフィアの連中による不法行為に関して福岡を拠点にして追っていた。清水保は藪中にとってやはり貴重な情報源だった。福岡県警の捜査第二課長、キャリア警視の里見幸次とも懇意な間柄になっている。

 そして、カルテットが福岡に集合する。なぜ、福岡なのか?
 青山は、土山の入行した兵庫大空銀行を調べ始めた時点からの経緯を順を追い説明していく。ある鉄鋼大手企業の合併問題という過去の事件から始まり現下の事件・案件が繋がって行くことになる。さらに、それはロシアンマフィアに繋がる。福岡に日本で活動する拠点を創ろうとしているという。つまり、福岡に繋がって行くことになる。
 ロシアンマフィアの登場はチャイニーズマフィア、コリアンマフィアにつながり、日本の反社会的勢力との繋がりとなっている。ロシア・中国・北朝鮮がリンクしていることにもなる。そこまでの広がりと闇を繋ぐ事件が起こっていた。
 
 博多にロシアンマフィアの極東地域首領のセルゲイ・ノブリョフが訪れてくるという。もとGRUに所属した大佐級の諜報機関員でもあった。如何にこの人物を阻止できるか。 そして、カルテットが結集して挑む最終決戦へと進展していく。
 そのターゲットはいくつかある。岡広組総本部が博多湾内にある埋立地に建設した大型冷凍庫、急性覚醒剤中毒という手段を使った殺人犯、そして極東ホールディングスである。
 このストーリーのおもしろいところは、急性覚醒剤中毒による殺人事件の特捜本部の捜査は暗礁に乗り上げ、被害者の一人土山の銀行履歴を青山が調べ始めて、それがトリガーとなるところにある。過去及び現在進行形の様々な事件が相互にリンクしていく。その繋がりが明らかになる中で、殺人事件の実行犯もまた判明していく。廻り廻って事件が解明されるという構成展開にある。
 2つの特捜本部の捜査が暗礁に乗り上げている状態に対して、藤中が合同捜査を提案する。捜査一課長は了解する。組対第四課長に藪中は面会を申し込む。このキャリアの組対第四課長に対する藪中の対応のしかたが実に痛快である。
 その上で、さらに興味深いのは清水保の存在かもしれない。

 本書のエピローグにカルテットの人生選択の結論が出ている。大和田は政界をめざす。龍は実家に戻り、起業を志す。藤中と青山は警察に留まる。
 青山は妻の文子の質問に答える。「藤中とライバル? 考えたこともないな」「藤中と競争する点がないからな。仕事以外でも、競うものがないよ」と。
 その続きの二人の会話部分もおもしろい。

 一筋縄では行かないストーリー展開を大いに楽しんでいただきたい。

 ご一読ありがとうございます。

こちらの本も読後印象を書いています。お読みいただけるとうれしいです。
『警視庁公安部・青山望 爆裂通貨』 文春文庫
『一網打尽 警視庁公安部・青山望』 文春文庫
『警視庁公安部・青山望 国家簒奪』 文春文庫
『警視庁公安部・青山望 聖域侵犯』 文春文庫
『警視庁公安部・青山望 頂上決戦』 文春文庫
『警視庁公安部・青山望 巨悪利権』 文春文庫
『警視庁公安部・青山望 濁流資金』 文春文庫
『警視庁公安部・青山望 機密漏洩』 文春文庫
『警視庁公安部・青山望 報復連鎖』 文春文庫
『政界汚染 警視庁公安部・青山望』 文春文庫
『完全黙秘 警視庁公安部・青山望』 文春文庫