遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『愛の神々 小坂泰子写真集』  筑摩書房

2021-05-05 12:41:20 | レビュー
 奥書には標記のタイトルが書名となっている。1985年11月に第一刷が出版された。表紙に副題として「路傍の道祖神」と上部に記されている。道祖神が様々な形でつくられてきた歴史と比較すれば、1985年と現時点の時間の経過など、微々たるものと言えるだろう。そういう視点で古い本ではない。道祖神のある領域に焦点をあて、時空間を飛び越えて集められた石像。それらを身近に感じられるモノクロの写真集である。

 この写真集の末尾に、「感動を伝える力---写真におけるアマチュアリズム」と題して、写真ディレクターの山岸享子さんが一文を寄せている。つまり、本書の著者はプロの写真家ではない。石像に思いが深まり、春夏秋冬にわたり写真を撮り続けた。モノクロ写真で切り出された石像の様々な表情とその姿の集積。選び抜かれたこの「愛の神々」は心に飛び込んで来る。
 本書の出版時点で、著者は日本石仏協会常任理事であり日本民俗学会会員と記されている。

 著者は結婚後、1971年の秋に義姉に誘われて、長野県小県郡青木村の安村神社のある修那羅の頂上近くに登ったという。そこは石仏が800体近くある山。後でネットで調べると、その石仏群で有名な場所だと知った。そこでの石仏との出会いが翌年1月に友人を誘って再びここに登るきっかけになったと著者はいう。頂上で眺めた「姉妹像」の表情は、秋に見た「微笑する」表情から、1月には「強い拒絶の表情」に劇的に変貌している印象を抱いたという。「あの時に受けた、怖さと愛らしさの表裏に潜むものは、何だろうという謎解きが、私を歩かせ、対という『人間の原型』を持つ双体道祖神にこだわって行くきっかけになったのである。」と記す。そして、この写真集に結実するに至った。
 つまり、この「路傍の道祖神」は男女の「双体道祖神」に絞り込んで各地を巡って撮られた写真の集積である。男女一対の双体道祖神、まさに「愛の神々」の写真集だ。

 私は地元関西地域の寺社探訪を趣味の一つにしている。特に京都のお寺の探訪では石仏群をよく見かける。お地蔵さまが集まっている場所として信仰されているのだが、その石仏群をよく見ると、様々な石像が含まれていて、双体像の石仏もよくみかける。この双体像はお地蔵さま?そんな疑問が常にある。石仏像のルーツに一歩踏み込んで行くと、路傍のお地蔵さまが道祖神と繋がって行く側面があるという。また、京都市内の二箇所、一つはお寺、他は神社で、双体道祖神像そのものに出会った。こんな体験から道祖神にも関心を広げることになった。ネット検索で様々な道祖神像を見ていたが、道祖神の写真集として初めて手にしたのがこの『愛の神々』である。奇しくも双体道祖神に焦点を絞り込んでいる写真集だった。
 双体道祖神の造形のスタイルに様々なものがあるというのが大きな学びの一つになった。テーマを絞り込んで集積された写真集なので、対比的に石像をながめることで鮮やかにその多様な造形に気づく。その表現方法の有り様に、人々の思いが投影されているのだろう。
 色彩を取り除いたモノクロ画像。石像に当たる光で生まれる白黒の濃淡だけでここに定着された双体道祖神の表情と姿は、ストレートにこちら側に語りかけてくるようだ。いや、モノクロの双体道祖神を見つめるこちらの心的状態が道祖神の語りかけに見えて反映しているのかもしれない。

 本書は、著者の「道祖神から雛人形への旅」と題する文から始まる。
 その後に、「冬から春へ」「夏」「秋から冬へ」という三部構成で写真が掲載されている。要所要所に道祖神が祀られている場の風景写真が挿入されている。長野県内の双体道祖神を主としながら他県の双体道祖神も織り込まれていく。群馬県、山梨県、新潟県、鳥取県、静岡県、埼玉県、栃木県、岐阜県へと著者の足跡が延びている。
 写真を載せた後に、石像のそれぞれについて簡単な写真解説がまとめられている。

 双体道祖神に心を惹かれ。道祖神を考察する著者が冒頭の一文の結論部分に述べた著者自身の考え・思いをご紹介しておこう。(p15)
*雛人形の祖型が形代(かたしろ)である・・・・・私は、双体道祖神が男と女の対であるのはいわゆる人間の雛型-雛を模したからだと考えてみたいと思う。
*戦がなくなり、築城することがままならぬご時世になって、石工自身も旅稼ぎに加えて、多く諸国を歩くことになる。こうした世のうつり変わりの中で、もともと形代から生まれた雛人形を手本にして、道祖神が生まれたのではあるまいか。
*村人たちは表面的にみえる愛らしさの陰に、形代として、モロモロの願いを埋め込んだのではないだろうか。
*人々が「塞ぎ」を意識したときに、塞ぎとめるものとして、自らの人形(ひとがた)を石に彫り、暫時、雛人形を範としたのではないか。

 この写真集で私がなかでも心惹かれる双体道祖神像を挙げておきたい。
 扉に載る鳥取・名和町西坪の合掌像、「冬から春へ」では、長野・大鹿村鹿塩西、穂高町島神田、群馬・中之条町親都、中之条町馬滑、山梨・下部町中河原、長野・松本村。「夏」では、鳥取・大山町末吉、中山町中尾、米子市尾高、岸本町久古、長野・八坂村布川、美麻村新行上村、小谷村南小谷石坂、東部町滋野原、栃木・粟野町上粕尾半縄面井向、鳥取・岸本町上細身。「秋から冬へ」では、群馬・新治村赤谷手道、六合村長平、長野・美麻村左右、福島町栃本、東部町金子。双体道祖神像の写真にはその所在地が付記されている。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して、関心事項を少しネット検索してみた。一覧にしておきたい。
道祖神  :「コトバンク」
道祖神  :ウィキペディア
道祖神  :「Flying Deity Tobifudo」
安曇野といえば 道祖神   :「安曇野の旅」(公式観光サイト)
道祖神めぐり  :「安曇野市」
「水色の時」道祖神  :「ずくラボ!」
信州山形村 道祖神めぐり :「山形村観光協会」
61 芦ノ尻道祖神の風景  :「長野市」
野倉の夫婦道祖神     :「信州上田観光情報」
松川村道祖神  :「GO NAGANO」(長野県公式観光サイト)
沢底の道祖神   :「辰野町観光サイト」
コース14 道祖神のみち  :「群馬県」
道祖神  :「高崎市」
中室田キッス道祖神  :「高崎観光協会」
道祖神  :「湘南二宮町」
「文化混交」小田原の道祖神 :「タウンニューズ」
茅ヶ崎の道祖神って何体あるんだろう?  :「Maruhaku TV」(茅ヶ崎市)
道祖神  :「川島町」(埼玉県比企郡)
中里地域の道祖神  :「新潟県十日町市」
鳥取県の道祖神 :「ふるさとの道祖神巡り」
静岡県の道祖神 :「ふるさとの道祖神巡り」
山梨県の道祖神 :「ふるさとの道祖神巡り」

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『芸術新潮』(2020年11月号) 特集 トキワ荘と日本マンガの夜明け

2021-05-04 11:39:36 | レビュー
 月刊誌『芸術新潮』にトキワ荘についての特集が組まれていることを友人のブログで知った。上掲の表紙の写真が載っていた。2020年11月号である。p14からp83に特集が組まれている。「トキワ荘と日本マンガの夜明け」である。
 東京に出た手塚治虫が「トキワ荘」というアパートの一室を22ヶ月間、活動拠点とした。そのアパートに若手マンガ家たちが集まった時期があったということを何かで知り、「トキワ荘」という言葉が頭の隅に残ったのだが、それ以上のことは知らなかった。そのトキワ荘が「日本マンガの夜明け」を開いていくマンガ家たちを生み出す母胎となった。トキワ荘はそれらマンガ家として独自の作風・世界を築き上げて行く若者たちをどのように受け入れ、そこでどのような人間関係の絆が育まれたのか。トキワ荘のことが世に知られたのは、その拠点からマンガ家たちが順次退居し居なくなり、さらに10年護のことだと言う。
 この特集でトキワ荘とマンガ家たちの全体像が理解でき、興味深くかつ面白く読めた。

 トキワ荘は西武池袋線「椎名町」が最寄り駅で、椎名町五丁目2253番地にあった。2階建ての木造アパート、ひと部屋は4畳半、1階と2階にそれぞれ10部屋ずつあるという建物だった。建物だったというのは既に取り壊されて、その跡地は今はある出版社のビルになっているからだ。今、建物の傍に「トキワ荘跡地モニュメント」が設置されている。

 そのトキワ荘が、「豊島区立トキワ荘マンガミュージアム」として、2020年7月7日にオープンした。かつてのトキワ荘の建物がリアルな再現で甦ったのだ!
 その所在地は、豊島区南長崎3-9-22。元のトキワ荘からすれば、南長崎通りを挟んで、少し西方向にある「南長崎花咲公園」の南端に再現された。インターネットで現在のマピオンの地図を確認すると、「南長崎通り、南長崎花咲公園」の名称で記されている。本書ではp40の地図が掲載されているが、「トキワ荘通り、トキワ荘公園(南長崎花咲公園)」と記されている。通称の方が普通に使われていくのではないだろうか。最寄り駅は都営大江戸線「落合南長崎駅」になった。

 記事によると、このトキワ荘マンガミュージアムは、鉄骨造り、コンクリートの建物なのだが、二重構造になっていて当時の木造建物のように見えるように再現され、2階に上がる階段のギシギシ音も超リアルに再現されているという。p30~p36には、2階の廊下、当時居住していたマンガ家たちの部屋の状況が忠実に再現された写真が載っている。2階の窓を開けて当時見えた景色が絵で再現されている。私を含めて、そう簡単にこのミュージアムまで出かけて見ることができない人にとっては、トキワ荘のイメージが湧きやすくて便利だ。

 この特集、以下の構成になっている。簡単な読後印象を織り込んでご紹介しよう。
◎見開きで「トキワ荘ジオラマ」(ジオラマ作家・山本高樹さん製作)の写真
 2階の各部屋の全体風景がわかって楽しい。

◎「トキワ荘」とは?
 2階のどの部屋に誰が住んでいたか、手塚治虫を筆頭に、居住者たちの顔マンガ付きでトキワ荘がらみのプロフィール紹介が行われている。棒グラフ形式で、「トキワ荘居住期間年表」が載っている。これを見ると、手塚治虫が昭和28(1953)年1月に入居し、29年10月にトキワ荘を出るまでの期間には、昭和28年12月に入居した寺田ヒロオが重なるだけだ。手塚治虫が退居した後に、マンガ家たちが順次入退居していく。寺田ヒロオが当初は、彼等のまとめ役だったという。

◎絵物語「トキワ荘の青春」 絵:吉本浩二 文:編集部
 手塚治虫の「ジャングル大帝」最終回の原稿描きの折り、手塚に声を掛けられて藤子不二雄?がアシストしたエピソードから始まり、トキワ荘でのマンガ家たちの青春の一コマをエピソードでつないで行く。最後のエピソード11は「さようならトキワ荘」。手塚の入居で始まるトキワ荘は、昭和37(1962)年3月に山内ジョージが退居したことで、「トキワ荘に、マンガ家とそのアシスタントはひとりもいなくなった。」(p29)約10年間、マンガ家たちが住んでいた。
 「トキワ荘とは?」に記されているが、「トキワ荘」のことが世に知られるようになったのは、『トキワ荘物語』の出版、藤子不二雄Aの作品「まんが道」とそのドラマ化などによるそうだ。

◎グラフ ようこそ!トキワ荘マンガミュージアムへ
 ここは上記で触れている。

◎ミュージアム建設の関係者へのインタビュー記事
 地域住民の夢実現の経緯を豊島区長・高野之夫氏が語る。そして、超リアルな建物再現の道のりを丹青社のクリエイティブディレクターの加藤剛氏が語る。それぞれ、興味深い裏話である。

◎「トキワ荘周辺ガイド」と「トキワ荘こぼれ話」
 こぼれ話は、その後にも各所に載っている。こぼれ話がなかなかおもしろい!

◎かつてのトキワ荘住人の思い出話
 鈴木伸一、水野英子、よこたとくお、山内ジョージ各氏がインタビューに答えて語った話がまとめられている。当時の様子がわかっておもしろい。特に印象深い箇所を引用してみよう。
*手塚先生が雑誌でどんどん描くようになって、マンガの世界をひっくり返しちゃったんですよ。手塚以前、手塚以降で、変わってしまった。(鈴木伸一 p43
*その大胆なコマ割りには驚きました。見開き、縦長、斜め取りなどのコマ割りの斬新な表現は、みな石森さんが始めたものです。(水野英子 p44
*手塚イズムを胸に 何があっても手を抜かないこと、誰も描いていないものに挑戦すること、自分が本当に描きたいものを描くことを理想とし、みなさんと机を並べてマンガを描けたことは素晴らしい経験でした。 (水野英子 p45
*マンガというのは、何を描いたって構わないんです。・・・やはり漫画家自身が本当に好きなものを描いてこそ、その情熱が読者に伝わる。(水野英子 p45
*でもいちばん楽しかったのは、小松川の赤塚氏のうちに泊まりに行っていた頃ですね。夢があってね。お互いにマンガ家になろうと、夢がいっぱいだったから、楽しかったなあ。(よこたとくお p47
*あの頃は、大人のンガを描いている人はマンガ家として認知されていたけれど、児童マンガはそれよりずっと下の存在でした。新聞に描いている近藤日出造とか横山隆一とか長谷川町子はマンガ家として見られていたけど、手塚先生も、デッサン力がないとか、よく悪口を言われていました。 (山内ジョージ p48

◎黎明期のマンガ進化論 文 中条昌平 学習院大学教授、手塚治虫文化賞選好委員
 タイトルの下に記されたキャプションを紹介する。「少年たちは、手塚治虫作品のどこに衝撃を受けたのか? そして、トキワ荘のマンガ家たち自身の表現上の挑戦とはー-。」
 手塚治虫のマンガ作品のコマを筆頭に、トキワ荘のマンガ家たちの作品から、マンガのコマを引用しながら論じていて、興味深い。日本のマンガが大きく広がりうねりだす状況がイメージしやすくなる。

◎水野英子と「少女マンガ」誕生
 少女マンガには縁がなかったので、私はこの特集記事で初めて知ったマンガ家だ。
 「水野英子は少女マンガを描いたのではない、水野英子の描くものがすなわち少女マンガになったのである」(p58)そうだ。いわば、パイオニアなんだ!

◎厳選!トキワ荘時代の貴重マンガ再録
 「漫画少年」「漫画王」の掲載された作品と「墨汁一滴」(東日本漫画研究会誌)の一部ページ。まさに保存版と言えるマンガが収録されている。
 現在の高齢者にとっては、なつかしく思う人々が多いのではなかろうか。

◎秘蔵グラフ 手塚九州逃避行写真とトキワ荘からの年賀状
 上掲の各所での記述に関連する写真が一葉載っている。「ぼくのそんごくう」代筆事件に絡む写真だという。マンガ家の個性豊かな年賀状が4例紹介されている。

◎エピローグ マンガ家たちのそれから
 トキワ荘を退居した後のマンガ家たちのマンガ人生を簡潔にまとめている。
 「早すぎた死」の節で、手塚治虫(1989年、60)、藤子・F・不二雄(1996年、62)、石ノ森章太郎(1998年、60)、赤塚不二夫(208年、72)、森安なおや(1999年、64)の死に触れている。最後の節で寺田ヒロオ(1992年、61)の死にも触れられている。括弧内の西暦年は逝去年、数字は享年を示す。

 特集としてはこれで終わりだが、その続きに「トキワ荘ワールドをもっと楽しむための展覧会&施設案内」が見開き2ページで紹介されている。手塚治虫の記念館は知っていたのだが、他のマンガ家の関係する記念的施設がいくつかあることをここで知った。

 この11月号について、一点だけふれておきたい。
 第2特集として「浸る、愛でる、アイヌの世界」が掲載されている。11ページの特集。
 北海道・白老町に「ウポポイ」が誕生したという。「国立民族共生公園」である。園内は、「民族共生象徴空間(ウポポイ)」であり、いざないの回廊、体験交流ホール、体験学習館、伝統的コタンなど様々な施設で構成されているそうだ。また、園内には「国立アイヌ民族博物館」が設けられている。大きな舟のような外観の写真が載っている。

 マンガの聖地「トキワ荘」、ウポポイ、いずれもいつか訪れてみたい!!

 ご一読ありがとうございます。

特集に関連して、関心事項をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
豊島区トキワ荘マンガミュージアム ホームページ
トキワ荘マンガミュージアム紹介VTR  YouTube
トキワ荘マンガミュージアム7月オープン! YouTube
手塚治虫 手塚治虫記念館  公式ウエブサイト
手塚治虫記念館 :「宝塚市」
手塚治虫  :ウィキペディア
寺田ヒロオ :ウィキペディア
藤子不二雄 :ウィキペディア
川崎市藤子・F・不二雄ミュージアム  ホームページ
髙岡市藤子・F・不二雄ふるさとギャラリー ホームページ
氷見市藤子不二雄まんがワールド  ホームページ 
  氷見市潮風ギャラリー 藤子不二雄A アートコレクション
藤子不二雄Aさん、手塚治虫さんとの“秘話”を紹介(2021年4月6日)    YouTube
トキワ荘ミュージアムに藤子不二雄Aさん初訪問「20歳のころが蘇った」  YouTube
藤子不二雄(A)が語る『漫画の青春と宝焼酎』   YouTube
鈴木伸一   :ウィキペディア
東京工芸大学 杉並アニメーションミュージアム  ホームページ
森安なおや  :ウィキペディア
石ノ森章太郎 :ウィキペディア
石ノ森萬画館  ホームページ
石ノ森章太郎ふるさと記念館 ホームページ
赤塚不二夫  :ウィキペディア
赤塚不二夫 NHKアーカイブズ   NHK人×物×録
水野英子   :ウィキペディア
水野英子(漫画家)――クローズアップ  :「文春オンライン」
 「夜くらいは鍵を掛けて寝なさいね」と言われ……
 「トキワ荘」ただ一人の女性が振り返るあの頃
水野英子 ツイッター
よこたとくお  :ウィキペディア
「マーガレットちゃん」モニュメント登場 元トキワ荘住人の作品 2020.3.1 :「産経新聞」
山内ジョージ  :ウィキペディア
トキワ荘・元住人の山内ジョージさん、動物文字絵で「あいうえお」 2021.3.19 :「産経新聞」
山内ジョージさんモニュメント除幕式  YouTube
「トキワ荘の青春 デジタルリマスター版」予告編 YouTube
テラさんの激励 YouTube
まんが道/にっぽんマンガ遺産第1位! YouTube
手塚先生のサプライズ登場に恐縮する藤子不二雄の2人 YouTube

ウポポイ  ホームページ
  アイヌ文化について  
国立アイヌ民族博物館   ホームページ

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『ブラタモリ 8 横浜 横須賀 会津 会津磐梯山 高尾山』 角川書店

2021-05-03 11:57:04 | レビュー
 藤沢市に短期間住んでいた時に横浜には数度でかけた程度。会津磐梯山は一度観光で五色沼に行ったことがあり、その沼の色が印象深かった。それくらいの接点だけだが、やはり訪れたことがある場所が出てくるのでこのブラタモリシリーズの第8弾を続きに読んでみた。NHK「ブラタモリ」制作班の監修による出版(2017年6月)である。
 本書には「横浜」(2016年5月14日放送)、「横須賀」(2016年6月18日放送)、「会津」(2016年7月2日)、「会津磐梯山」(2016年7月16日)、「高尾山」(2016年9月17日放送)の5回分が収録されている。
 それぞれ単発の放送であり、その地形・地質をまずベースにしながらタモリさんがブラリと歩く探訪からテーマの意図を解き明かしていく。読後印象として、今回はそれぞれのテーマがかなり絞り込まれた内容になっている印象をもった。

 本書の基本構成コンセプトは繰り返しになるがまずご紹介しておこう。
  *ブラタモリの番組放映のテーマについて、番組の流れに沿って論点を説明。
  *番組では語り尽くせなかった部分の補足説明(番組出演した研究者等のVOICE)
  *番組で採り上げた地域の観光スポットのガイド
  *同行アナウンサーの番組裏話 本書は近江友里恵さんのトーク
である。
 第6弾の「熊本」で桑子真帆さんが最後のブラタモリと記されていた。本書掲載の「横浜」の放送日時から考えると、近江友理恵さんが二代目同行アナウンサーとなるようだ。 
 例によって、本書から私が学んだ要点を覚書としてまとめてみたい。それが本書を開いてみようという誘いになれば幸いである。

<横浜> テーマ 横浜の秘密は”ハマ”にあり!?
 横浜に開港場が置かれた時、横浜村は小さな村だったことは歴史で学び知ってはいたが、地形がどうだったかの意識はなかった。この番組内容を読んでナルホドと思った次第。
*現在の横浜中華街、横浜スタジアムあたり一帯、江戸時代には静かな内海であり、県庁のあたりは横に長い砂州が広がっていたという。その砂州こそが”ハマ"だった。
*横浜村の住民を現在の元町に移住させ、内海を埋め立てて”ハマ”を「開港場」として整備した。
 ⇒派大岡川(運河)、堀割を設け開港場を分断。現吉田橋のところに関門を設置。
  吉田橋:安政6(1859)年に仮橋架橋。文久2(1862)年に木造橋完成。
*JR関内駅は、この関門に由来する。つまり関門の「内」。開港場は関外。
*派大岡川の河床を利用して首都高速横羽線が走る。
 開港場当時の川幅は現在の根岸線の線路まで含まれる広さ。関内駅下に護岸の痕跡あり
*旧東海道に面した大綱金比羅神社の先にある「台の坂」あたりは、台町と名付けられ、、このあたりが「神奈川宿」だった。江戸時代の横浜の中心地。
 歌川広重の「東海道五十三次之内 神奈川 台之景」が描くごとく台の坂は海に隣接
 神奈川宿は宿場町かつ重要な港町(海上交通の拠点)。また眺望で知られる観光地。
 江戸前の魚が揚がる漁港で、御菜八ヶ浦の一つ(海産物上納/漁業権の保障)。
  ⇒”ハマ”は神奈川宿を開港地にしないための幕府の政略。ハマを神奈川湊と主張。
   当時は大型船は沖合に停泊し、はしけ船で神奈川湊に積荷を揚げ降ろししていた。
*”ハマ”の交通の不便さを、明治5(1872)年新橋・横浜間の日本初の鉄道開通で解消
 ⇒蒸気機関車に必要な真水は、掃部山公園の下に横井戸を掘り取水施設を設けた。
*相模川(取水口)から逆サイフォンの原理で日本初の近代水道を敷設 ⇒発展の一因に
<横須賀> テーマ なぜ横須賀は要港っスか?
*横須賀には米海軍横須賀基地と海上自衛隊の基地が並ぶ。
*横須賀にはもう一つの要港・浦賀港がある。ペリーが浦賀に来た。
 ⇒東京湾の浦賀水道は、浦賀側の水深が深く、千葉県側に浅瀬が広がる地形
  2万年前に陸地だった頃川が流れていた。それが海底の谷として残っているため
  浦賀港の入口にある燈明崎は夜間航行用に燈明堂が置かれたことにちなむ名称。
*浦賀の元廻船問屋の宮井家にペリーの鉄鍋と孫・ロジャスが贈った水牛の角が残る
*横須賀の起点は150年以上前にここにドライドックの近代的造船所が作られたこと。
 ⇒横須賀製鉄所(ドック建設)は幕末の幕臣、小栗上野介の構想から始まる。
 ⇒フランス人技術者レオンス・ヴェルニーが指導。ヴェルニー公園の名の由来になる
 ⇒浦賀港は用地確保が困難なため横須賀となる。横須賀の地形はトゥーロン港と近似
  ヴェルニーは「白仙山」(小丘)を切り崩し、伊豆石(安山岩)を使いドック建設
  3つのドライドックは現在も現役で稼働。
*白仙山を掘り下げて第1号ドックの建設工事中にナウマンゾウの化石が発見された。
*旧日本海軍の拠点が置かれ、軍港になるのに伴い第6号ドック(昭和15年)まで建設

<会津> テーマ 会津人はアイデアマン!?
 白虎隊の「ならぬことはならむものです」という唱和が、頑固で真面目な会津人のイメージを形成するが、会津の地形は会津人がアイデアマンであることを示すという。それを探すブラリ探訪となっていて、おもしろい。
*会津盆地は2本の断層に挟まれた構造盆地(地殻変動により形成された盆地)
 ⇒やませに悩まされない肥沃な土地に。東西13km、南北34km。南東が高く北西が低い
 ⇒湯川の作った南東部の扇状地はひときわ高い場所に広く安定した地盤を形成した
 ⇒盆地南東に蒲生氏郷が若松城を築城。総構。外堀約6km。深い掘と土塁。16の郭門。
*湯川の上流から引いた水路は城下町の道路の真ん中を通り、クランクさせていた。
 ⇒水を町中に行きわたらせるためのクランクではという仮説。水の分散と防災策。
*猪苗代湖を水源とする戸ノ口用水が開削された ⇒水不足解消の切り札
 ⇒ある区間は山を切通して用水を作った。理由は地質が火砕流の堆積物だったため。
 ⇒用水の水量は年間4500t、3万石分の水田を潤した。
 ⇒天保6(1835)年、大規模な改修により、飯盛山に「戸ノ口堰洞穴」を掘削
*江戸時代中期に佐藤与次郎右衛門が、会津の土壌に合わせた農業技術を体系化し「会津農書」執筆。農業に必要な技術を歌で覚える「会津歌農書」を考案した。約1700首。
*飯盛山にたつ「さざえ堂」。六角三層の木造の建物。堂内の通路は二重らせん構造。
 西国三十三観音巡りができたお堂で、かつてはスロープに添い33の観音像を安置。
 各観音像前の賽銭箱のお賽銭は樋を伝い一箇所に集積される工夫が施されていた。

<会津磐梯山> テーマ 会津磐梯山は”宝の山”?
 表磐梯、裏磐梯それぞれに、宝の山と唄われる理由が存在した。おもしろい。
*表磐梯:猪苗代湖畔の高台に立つ「天鏡閣」 塔屋からの猪苗代湖と磐梯山の絶景
 ⇒明治41(1908)年、有栖川宮威仁親王の別邸として竣工。ルネサンス様式の建物。
  3階に設置された「塔屋」は展望室。景色を楽しむためだけに造られた部屋。
*裏磐梯:明治21(1888)年に磐梯山が水蒸気噴火し小磐梯が山体崩壊。「岩なだれ」
 破壊された岩石や土砂が流れて堆積し、多数の「流れ山」(小丘)を造った。
 これが裏磐梯の湖沼群。そこから「五色沼」と称される状態が生まれた。
 ⇒岩なだれにより川が埋まり地下水脈化。地質の酸性度の違いが地中を通る水に影響
  酸性度の違いが水質を変化させ、湖沼に溜まった水の色として影響している。
 ⇒日本における近代的な火山研究のスタートに。帝国大学関谷清景教授らが調査研究
*山体崩壊で滑るのに恰好の斜度ができ、天然の裏磐梯スキー場を生み出した。
*磐梯山の北西、会津米沢街道沿い、大塩裏磐梯温泉。名産品の「山塩」
 ⇒磐梯山周辺は大昔は海の底。海底火山活動で火山灰が噴出・変質し緑色凝灰岩に。
  海水の成分が緑色凝灰岩の中に閉じ込められた。その岩盤を通る地下水が温泉に。
 ⇒「新編会津風土記」江戸時代の絵図に、「塩井」と付記して描かれている。
*山体崩壊後の荒れ野原に、会津若松の実業家、遠藤現夢が私財をなげうち植林。
 明治43(1910)年から2年かけ、アカマツなどを中心に約10万本、規模700ha。
 現在の裏磐梯の森再生のさきがけとなる。
 ⇒日本初の林学博士中村弥六が遠藤現夢に助言。五色沼の最西端、弥六沼の名の由来。*約5万年前、表磐梯側で最初の山体崩壊が発生しそのとき猪苗代湖が誕生した。
 翁島は5万年前の噴火でできた流れ山のひとつと考えられる。

<高尾山> テーマ 高尾山はナンバーワンの山?
 都心からわずか1時間で行けるとか。年間300万人もの登山客が訪れるとはスゴイ!
*昭和2(1927)年に開業した山岳ケーブルカー、高尾登山電鉄は、ケーブルカーの斜度が31度18分という急勾配。ケーブルカーの傾斜として日本一。距離約1km、高低差約270m
*高尾山は自然林。登山道1号路は山の尾根筋で、北斜面と南斜面では植生が異なる。
 南斜面は暖かい気候を好む常緑広葉樹。北斜面は冷たい北風が吹き、落葉広葉樹が生育
 植生の異なる木が同じ標高で生育。広葉樹の分布は、年平均気温約13度を境に分かれるのだが、高尾山はちょうどその境目近くの特殊な生育条件を生み出していると言う
*高尾山は標高599m、面積は2600ha。そこに生育している植物は1598種という。
 ⇒面積、標高をふまえて植物数を比べると世界でナンバーワンと言えるそうである。
  比較事例として、屋久島とイギリスを例示。
*高尾山の地質は砂岩と泥岩が交互に重なる「互層」。「小仏層群」と称される。
 その地層が押し上げられ、ほとんど垂直に地層が縦になっている。その地層の縦の割れ目や細かいヒビという無数の隙間に豊かな植物が育つことになった。植物にとって楽園。*高尾山には奈良時代に行基が開いたとされる高尾山薬王院がある。
 戦国時代、八王子城の城主、北条氏照が八王子周辺の土地を薬王院に寄進した。そして、「制札」を定めた。高尾山の竹や木、草でさえも、伐採した者は斬首に処すと。江戸時代、高尾山は幕府直轄領「天領」として保護された。明治以降は、皇室の土地、戦後は国定公園となった。つまり、自然林が守られてきた。
*薬王院内には、天文年間(1532~4555)に富士浅間神社が建立された。北条氏と甲斐の武田氏の争いにより、甲斐を通っての富士山参拝ができなくなった。民衆の心を鎮めるためという。江戸時代は、江戸から近いこと、女人禁制の富士山と違い、女性でも参拝できたことが人気の要因の一つに。高尾山は信仰の対象として多くの人々が訪れる。
*天気がよければ、大見晴台は富士山を眺める絶景スポット。
*戦前は京王御陵線が大正天皇陵まで開通していた。高尾山にほど近く登山者も急増した
*御陵線は昭和20年に運転休止。御陵線の敷地の一部を利用し、昭和42年に京王高尾線が開通した。都心から高尾山ふもとぎりぎりまで鉄道で行けるアクセスの良さが魅力を与える。

 私が今回学んだのはこんなところ。この知識がどのようにわかりやすくビジュアルに説明されていくか、そのアプローチのしかたとプロセスが読ませどころである。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して、関心事項をネット検索した。一覧にしておきたい。
横浜開港資料館  ホームページ
  横浜波止場ヨリ海岸通異人館之真図 三代広重画 明治初期
  横浜各国商館真図 三代広重画 明治5年(1872)
作者:歌川広重(三代) :「GAS MUSEUM」
東海道五拾三次之内 神奈川 台之景  :「東京富士美術館」
田中家 歴史 :「田中家」
横浜の金比羅神社  ホームページ
横浜水道のあゆみ  :「横浜市」
燈明堂  :ウィキペディア
レオンス・ヴェルニー  :ウィキペディア
国指定重要文化財 旧横浜船渠株式会社第一号船渠(ドック):「帆船日本丸」
旧横浜船渠株式会社第二号船渠(ドック)  :「文化遺産オンライン」
旧横浜船渠第一号ドック(帆船日本丸係留ドック) :「まちへ、森へ。」
小栗忠順  :ウィキペディア
鶴ケ城を見る  :「会津若松観光ナビ」
什の掟  :「會津藩 日新館」
講演録:戸ノ口堰用水の歴史と現状:「會津のあががわ」(国土交通省阿賀川河川事務所)
会津さざえ堂 オフィシャルサイト
国指定重要文化財 天鏡閣 公式ホームページ
二度の山体崩壊をおこした火山 :「磐梯山ジオパーク」
遠藤現夢  :ウィキペディア
20201125裏磐梯緑化の父 遠藤現夢墓  動画
中村弥六  :ウィキペディア
裏磐梯の五色沼湖沼群 :「ふくしまの旅」
神秘の五色沼ガイドウォーク :「裏磐梯レイクリゾート」
高尾山  :「GO TOKYO」(東京の公式観光サイト)
高尾山薬王院  公式ホームページ
京王御陵線   :ウィキペディア
京王高尾線   :ウィキペディア

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こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『ブラタモリ 1 長崎 金沢 鎌倉』 角川書店
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『ブラタモリ 6 松山・道後温泉 沖縄 熊本』 角川書店
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