遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『平安人の心で「源氏物語」を読む』  山本淳子  朝日選書

2022-10-12 12:24:52 | レビュー
 瀬戸内寂聴訳『源氏物語』を先般通読できたこととその印象・感想を覚書としてまとめて、ご紹介した。『源氏物語』を通読するときに、併読した1冊の印象・感想もまた先般ご紹介した。もう1冊の併読が本書。2014年6月に刊行されている。
 著者は平安文学研究者。源氏物語ミュージアムの連続講座を受講したとき、数回著者が講師を担当された講義を聴講したことがある。わかりやすく話をされる先生だった。
 2007年に『源氏物語の時代』(朝日選書)で第29回サントリー学芸賞を受賞されている。この本はかなり前に読んでいた。こちらの本の副題は「一条天皇と后たちのものがたり」である。

 本書を併読した理由は、「平安人の心で読む」というタイトルのスタンスと本書の構成による。五十四帖の帖ごとに内容が編成されていて併読するのに便利だったから。
 併読書のもう1冊『源氏物語の京都案内』(文春文庫)は、ご紹介したときに、
”「平安時代の人々が読んだ『源氏』と、鎌倉時代の人が想像した『源氏』と、江戸時代の人が想像した『源氏』と、現代人の『源氏』は全く違います。」
 その上で「現代の読者には、現代の楽しみがあるのです」という立場から、「気軽に源氏と京都を楽しめるようなガイド」を目指す”というスタンスの書とご紹介した。
 一方、こちらは著者が「はじめに」にその執筆スタンスを明記されている。
「『源氏物語』をひもといた平安人(へいあんびと)たちは、誰もが平安時代の社会の意識と記憶とでもって、この物語を読んだはずです。千年の時が経った今、平安人ではない現代人の私たちがそれをそのまま彼らと共有することは、残念ながらできません。が、少しでも平安社会の意識と記憶を知り、その空気に身を浸しながら読めば、物語をもっとリアルに感じることができ、物語が示している意味をもっと深く読み取ることもできるのではないでしょうか。本書はその助けとなるために、平安人の世界を様々な角度からとらえ、そこに読者をいざなうことを目指して作りました。」(pⅳ)
 つまり、『源氏物語の京都案内』とは対照的であり、併読するとおもしろいのではないかという期待があった。その期待は満たされた。

 併読を始めた時は意識しなかったが、途中で気がついたことをまずご紹介しよう。本書の内容は帖単位にまとめられているということは既に触れた。だから、最初は単純にそこから出発した。
 ところが、本書の章構成が本書の読み方というか『源氏物語』の全体構成にきっちりと関わっていた。この大枠の区分が著者の捉え方の一つと言えよう。
   第1章 光源氏の前半生  1帖「桐壺」~33帖「藤裏葉」
   第2章 光源氏の晩年   34帖「若菜上」~41帖「幻」
   第3章 光源氏の没後   42帖「匂兵部卿」~47帖「竹河」
   第4章 宇治十帖     45帖「橋姫」~54帖「夢浮橋」
   第5章 番外編 深く味はふ『源氏物語』
 著者は光源氏のもとに女三の宮が降嫁してくる状況を描き始める「若菜上」から光源氏の晩年の始まりとして区切っている。「若菜上」は光源氏の39歳~40歳を描き出す。39歳ではや晩年! 現在の年齢感覚では平安人にはなれない・・・・。人生の基軸をシフトさせるサポートなしには、イメージを働かせるのも難しいといえよう。

 序でに先に触れると、このあとに、「参考文献」、「『源氏物語』主要人物関係図」、「平安の暮らし解説絵図」がまとめてある。
 主要人物関係図は54帖を8グループに区分して、それぞれの期間の関係図としてまとめられている。1帖~8帖、9帖~13帖、14帖~16帖、17帖~21帖、22帖~30帖、31帖~41帖、42帖~44帖、45帖~54帖。『源氏物語』を通読しただけなので、このグルーピングの意味がピンとくるところまでには至っていない。だが、この8グループへのブレークダウン自体も、4章構成の区分とは異なる所があるので、『源氏物語』をとらえる上での一つの読み方として別の観点あるいは意味を含むのだろう。私には今後の課題である。

 併読書として便利という点に移ろう。基本的には1帖が4ページ構成となっている。
 まず最初のページはその帖のあらすじがまとめてある。『源氏物語の京都案内』でも思ったことだが、あらすじをまとめるのが上手だなという感想。それぞれ立場は違うが、さすがプロだな・・・・と。もう一つ、帖単位のあらすじのまとめ方はそれぞれに違いが生まれていて、興味深い。対比的読むと、これまたおもしろさが増す。
 手許に『源氏物語ハンドブック』(鈴木日出男編、三省堂)がある。ハンドブックなので、当然と言えるが最初に「第一部 物語の鑑賞」として54帖のそれぞれのあらすじがまとめられている。これもまた表現が異なる。

 本筋を離れるが、第1帖「桐壺」のあらすじまとめの末尾の文を対比的に列挙してみよう。
本 書
 光る君は12歳で元服し、左大臣の娘を妻とする。しかし彼の心の中には、いつしか義母・藤壺への秘めた恋が宿っていた。 p4
瀬戸内寂聽訳『源氏物語』 著者自身の巻末のあらすじ
 申し分なく美しいけれど自尊心が高く、権高で冷たい花嫁に、少年の夫は、初夜から馴染まない。かえって、結婚の実態を知った源氏は、妻として一緒に暮らすなら藤壺のような人をこそと、ひそかに切なく恋心をつのらせていく。 p337
『源氏物語の京都案内』
 源氏は12歳で元服し、左大臣の娘・葵と結婚するが、年上でとり澄ました妻になじめず、母(桐壺)の実家・二条院で、自分の愛する女性と暮らすことを夢見ていた。 p12
『源氏物語ハンドブック』
 12歳になった源氏は、元服ののち、左大臣家の葵の上と結ばれた。しかし、源氏はこの深窓の麗人には親しめない。彼の心には、いつしか藤壺への切ない思慕の情がうずくようになっていたからである。  p2

 1帖のあらすじをまとめるに当たって、それぞれの著者には全体の構成上での文字数の制約があるだろうから、単純な対比はできない。しかし、同じ原文の文脈からのあらすじでもこれだけ表現のしかたと醸し出すニュアンスに広がりが生まれる点が面白いし、学べるところがある。 ここから類推しても、『源氏物語』の翻訳書はけっこう数があるが、多分その表現にかなりの違いが生まれていることだろう。

 例えば、本書の1帖「桐壺」には、「後宮における天皇、きさきたちの愛し方」という見出しが付いている。「平安時代の天皇は一夫多妻制である」という一文から始まる。源氏物語の根幹にズバリと切り込んでいる。「平安時代の天皇の結婚は、欲望を満たすのが目的ではない。確実に跡継ぎを残すこと、一夫多妻制はそのための制度だった。」(p5)これは、左大臣家であろうが、光源氏家であろうが、価値観としては同じ基盤の上に立つだろう。現代日本や欧米諸国等の原則、一夫一婦制社会とは価値観が根底から異なる。
 「貴族の中に強力な後見を持つ子ども」「個人的な愛情よりも、きさきの実家の権力を優先させることが、当時の天皇の常識だった」(p5)
 その上で、著者は一条天皇、中宮定子、道長の娘彰子の関係に言及する。さらに「物語を書き始めた時、紫式部はまだ彰子に仕えていない」(p7)その事実にも言及している。
 読者として、『源氏物語』を「平安人の心で読む」ためにはまさに必須の背景情報と再認識した。
 ここから飛躍すると、紫式部が彰子に仕えるようになって以降、紫式部が書き綴った帖は、紫式部のフリーな創作力だけで制約なく物語を紡ぎだせたのか、という点が気になる。多分誰も正解を語れない側面が背後に横たわる。知るのは紫式部本人のみ。勿論これは実在する『源氏物語』を鑑賞するということとは別の次元での話であるが・・・。
 気になる点については、先日ご紹介した夏山かほる著『新・紫式部日記』(日本経済新聞出版社)という例の如く、フィクションの次元にリンクしていくことになる。これはこれで創作に対する切り口としておもしろい。
 
 平安人の心で読むためには、平安時代の社会経済構造や文化的価値観などさまざまな視点での背景情報が不可欠であることが良く分かる。基本3ページで、各帖毎にその諸側面が取り上げられる。その帖の内容とあるフェーズでリンクする観点の内容が解説されて行く。解説するべき観点の故だろうが、34帖「若菜上」、35帖「若菜下」、39帖「夕霧」、47帖「総角」、49帖「宿木」、51帖「浮舟」は前半・後半と2回に分割されている。
 解説の観点がどれほど多様かを、サンプリングして見出しで例示しよう。括弧内の数字は帖番号である。
 秘密が筒抜けの豪邸・・・寝殿造(4)、  そもそも、源氏とは何者か?(5)
 顔を見ない恋(8)、 祖先はセレブだった紫式部(10)、流された人々の憂愁(13)
 平安貴族の遠足スポット、嵯峨野・嵐山(18)、 平安時代は、非学歴社会(21)
 ご落胤、それぞれの行方(26)、 千年前の、自然災害を見る目(28)
 平安の政治と姫君の入内(32)、紫の上は正妻だったのか(34・前半)
 糖尿病だった藤原道長~平安の医者と病(35・後半)、結婚できない内親王(39・後半)
 血と汗と涙の『源氏物語』(45)、乳を奪われた子、乳母子の人生(45)
 平安の不動産、売買と相続(48)、「火のこと制せよ」(49)
 平安式、天下取りの方法(49)、 

 少し列挙しすぎたが、バラエティに富んだ観点から、平安人に目を向けていくアプローチの広がりをイメージしていただければ、関心が湧くのではないか。

 第5章の番外編は5つのテーマが論じられている。どれも興味深い内容である。その中で特に私がおもしろいと思ったのは番外編2「平安貴族の勤怠管理システム」と番外編5「中宮定子をヒロインモデルにした意味」である。

 一つだけ気になる点がある。本書の11帖「花散里」は、「巻名は誰がつけた?」という見出しである。ここで巻名について清水婦久子氏の説を紹介して解説されている。そこには記されていないことで、併読の対比からふと思った素朴な疑問についてだ。
 本書では、42帖の巻名を「匂兵部卿」とされている。瀬戸内寂聴訳では「匂宮」である。兵部卿は匂宮が登場してきた時の官職なので実質は全く同じなのだが、連綿と書写されて継承されてきた現存の帖には、「匂兵部卿」と「匂宮」が帖名として並存するのだろうか。あるいは、書写された帖には、帖の名称は記されていないのだろうか。
 手許に源氏物語関連本がけっこう眠っている。それらをチェックしてみると、2冊だけは「匂兵部卿」を使っている。小学館の日本古典文学全集に収録されている『源氏物語』と『源氏物語必携事典』(秋山・室伏=編、角川書店)である。他は「匂宮」の帖名が使われている。帖の内容の理解と鑑賞には何の影響もないのだが・・・・。この差異が少し気になる。

 本書は、『源氏物語』を一歩踏み込んで鑑賞していくための教養書と言える。
 最後に、本書の「はじめに」に記された末尾の文を引用しご紹介しておこう。
「平安人の目と心を通して、今も昔も同じ、人という存在に思いを致していただきたいと思います。遙かな時空を超えて、光源氏の体温や紫式部の筆の気配を、どうぞすぐそばに感じてください。」(pⅷ)

 手許にあって、手軽に立ち戻って行ける参照本の一冊として役立つと思う。
 
 ご一読ありがとうございます。

[源氏物語ワールドへの誘い] 
こちらもお読みいただけるとうれしいです。関連書を種々読み継ごうと思っています。
『源氏物語』全十巻   瀬戸内寂聴訳  講談社文庫

= ビギナーの友に =
『源氏物語の京都案内』  文藝春秋編   文春文庫
『源氏物語解剖図鑑』 文 佐藤晃子 イラスト 伊藤ハムスター X-Knowledge
『初めての源氏物語  宇治へようこそ』  家塚智子  宇治市文化財愛護協会

= 小説・エッセイなど =
『源氏五十五帖』  夏山かおる  日本経済新聞出版
『新・紫式部日記』  夏山かほる  日本経済新聞出版社

『世界で一番素敵な浮世絵の教室』 監修 岡部昌幸  三才ブックス

2022-10-10 15:10:17 | レビュー
 江戸時代、浮世絵版画は普及品ならかけそば一杯の値段で買える位で庶民の間にまで広がった。開国間近の頃には、輸出品の包装紙、緩衝材代わりに浮世絵が無雑作に利用された。ヨーロッパに渡り、当時の印象派を生み出していった画家たちにその浮世絵が驚きの眼で見られ、受け入れられ、ジャポニズムと呼ばれる流行の火付けになったという。その揺り戻しで、浮世絵が日本で改めて絵画芸術として見直されることになる。
 浮世絵のことを意識せずとも、葛飾北斎、歌川広重、喜多川歌麿、東洲斎写楽という名前を知り、『東海道五拾三次』や『冨嶽三十六景』シリーズの絵、大首絵で描かれた役者絵、美人画などのいくつかをきっと眼にしているはずだ。『東海道五拾三次』の絵は、某社のふりかけパックの付録絵に使われてきてさえいる。「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」という名称の絵、遠くに富士山が見え、手前にはダイナミックな巨大波が立ち上り、船が翻弄されている北斎ブルーの絵を眼にしていることだろう。

 何気なく見慣れているわりには、浮世絵全般についての基礎的なことは知られていないと思う。私自身、今までに幾つもの回顧的な浮世絵の特別展を鑑賞して来ているが、浮世絵全般のことには疎いところがあった。

 たまたま本書表紙の装画と「浮世絵の教室」というタイトルに眼が止まり、入門編のようで面白そうなので、読んでみた。「世界でいちばん素敵な」を冠したシリーズの一冊として、2020年8月に刊行されている。

 本書はQ&Aの形式でまとめられている。そして数ページ以外の全ページに浮世絵の画像が大小取り混ぜて掲載されている。浮世絵自体がほぼページ全体の地になっている箇所も結構ある。ペラペラと掲載された浮世絵を眺めていくだけでも、浮世絵全般のイメージをいだくことができるると思う。

 Q&Aのスタイルは非常に分かりやすい。大きな文字で疑問の問いかけがあり、それに明快な回答が記されている。その上で、具体的説明が簡潔に加えられる。その例示となる浮世絵をそのページで紹介していく。そんなスタイルである。堅苦しさはない。
 論より証拠。一番最初のQ&Aを例示しよう。
見開きの左ページ  Q そもそも浮世絵ってどんな意味? 
    右ページ  A 語源は「浮生」、「憂世」、「浮世」といわれます。
この見開きを使って、葛飾北斎筆「冨嶽三十六景 凱風快晴」の版画絵が地として載る。
回答についての具体的補足として、”「浮生」は自然を受け入れる人生観、「憂世」は末法思想、「浮世」は風俗的題材のことです。”と一行の説明が補足されている。
実に簡潔、ストレートである。
 こんな形で浮世絵について知る手始めとして最小限の基本的な知識が提示されていく。

 これに続くQを5つ、列挙してみよう。
Q 浮世絵って誰が考えたの?
Q 浮世絵で描かれたのは、どんな主題?
Q 浮世絵には、どんな版型があるの?
Q 浮世絵はどうやって色をつけているの? ここから関連質問3つが展開される。
Q 当時の人は、浮世絵をどんな風に楽しんでいたの? 同様に関連質問3つがつづく。
・・・・こんな調子で進展していく。

 Q&Aのその後から、いくつか質問をサンプリングしてみる。
Q 錦絵は、浮世絵と違うの?
Q 役者さんって、浮世絵のような顔をしていたの?
Q 日本の古典を題材にすることはあったの?
Q 風景画の絵師たちは、実際にその場で写生したの?
Q 浮世絵にも、遠近法は使われているの?
Q 浮世絵が西洋絵画によく描かれているのはなぜ?
Q 江戸時代、肉筆画は廃れていたの?
Q 絶対に覚えておくべき浮世絵師を教えて!
Q 草創期の美人画の特徴を教えて!
Q 幕末を代表する絵師を教えて!

 あなたがこれらのQに即座に解答できるなら、多分この教室はつまらないかも・・・。
 あなたが解答にとまどうなら、この教室を覗いて見るのが、浮世絵について基礎的なことを知るのに役立つはずだ。
 私は通読して、知識がぼんやりとしていた点を押さえ直すことができたし、全く意識していなかった側面にも気づく機会になった。たとえば、彫師では江川留吉と小泉巳之吉
が有名であり、葛飾北斎は江川留吉を彫師に指名したことなど、本書で知った。浮世絵の流派としては、鳥居派が存続し井関せつ子氏が9代目を1982年に襲名されたということがその一例である。尚、調べていて、井関せつ子氏は2021年5月逝去された。享年83歳。鳥居派も絶えたのか・・・・この点は不詳。他にもいろいろ学ぶことがあった。全般的な基礎知識の整理に役だったと言える。

 本書は35のQ&Aで構成され、4つのコラム--「江戸の美女たち」、「浮世絵に描かれた動物たち」、「浮世絵に描かれた江戸の1日」、「浮世絵に描かれた江戸の観光名所」--が載っている。末尾に「主要浮世絵師系譜」がまとめてある。

 冒頭の表紙に使われているのは戯画を得意とした浮世絵師・歌川国芳の『金魚づくし 百物語』である。

 浮世絵の世界への入門書としては、文による解説を絞り込み、ビジュアルに浮世絵自身に語らせるというやり方が手軽に読み、基礎的知識を学べる梃子になっていると思う。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して、ネット検索で得られる情報を少しチェックしてみた。一覧にしておきたい。
浮世絵  :「コトバンク」
浮世絵  :「Kids Web Japan」(Web Japan)
浮世絵とは?代表作品と絵師たちをまとめて解説!基本や歴史が全部わかる:「warakuweb」
東海道五十三次(浮世絵) :ウィキペディア
富嶽三十六景       :ウィキペディア
鈴木春信    :ウィキペディア
鈴木春信    :「コトバンク」
鳥居清長    :ウィキペディア
鳥居清長    :「コトバンク」
葛飾北斎    :ウィキペディア
葛飾北斎    :「コトバンク」
歌川広重    :ウィキペディア
歌川広重    :「コトバンク」
喜多川歌麿   :ウィキペディア
喜多川歌麿   :「コトバンク」
東洲斎写楽   :ウィキペディア
歌川国芳    :ウィキペディア
金魚づくし・百ものがたり  :「文化遺産オンライン」
歌川国芳 金魚づくし 酒のざしき :「アダチ版画」
河鍋暁斎    :ウィキペディア
月岡芳年    :ウィキペディア
鳥居清光(井関せつ子) :「Webcat Plus」
鳥居清光    :ウィキペディア
太田記念美術館 ホームページ
すみだ北斎美術館  ホームページ
信州小布施 北斎舘 ホームページ
上方浮世絵舘 ホームページ
河鍋暁斎記念美術館 ホームページ
大阪浮世絵美術館  ホームページ
浮世絵のアダチ版画 オンラインストア ホームページ

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『Curious George Color Fun』 Houghton Mifflin Harcourt

2022-10-09 12:29:43 | レビュー
 この英語絵本の電子書籍版を読んだ。読んだというのはちょっとおこがましい気がする。
 内表紙には、出版社と2012という年号が記されている。2012年に出版された絵本だが、著者名もイラスト作者名も直接記載していない。少し変則的な出版方式かと思う。
 それは「おこがましい気がする」と書いた点と絡むのかもしれない。

 おこがましい気がするというのは、絵本を開けると、見開きページの左に1つの単語、右のページにはその単語にリンクする色を使った様々なイラストが描かれている。それだけ。
 ただし、最初のページの冒頭には、George is curious about colors ・・・・・ という書き出し文が記されている。そして、単語は1つだけ。ページをめくると、次は単語が1つだけとイラスト。以下同じ。その単語は、
  Red, Orange, Yellow, Green, Blue, Indigo, Purple と7語だけ。
そして、最後の Purple の見開き右ページの右下には、
  And here's a rainbow for とここまで記されている。
このPurple の見開きページは、それまでのページとは異なり、雲に架かる虹のイラストが紫地に描かれている。勿論、ナレーションはちゃんと付いている絵本である。
 ナレーションでは、最後の一文の末尾は、ちゃんと for you. と完結する。

 大人の私の英語リハビリにおいても、この絵本は読んだというにはちょっとおこがましいと気が引ける。私にはリハビリ学習以前の段階の絵本だから。
 発想レベルで企画できる本だから、著者名等がないのだろうか。イラスト画家はいると思うのだけれど・・・・。常にあるコピーライトの記載が常の箇所としてない。

 しかし、読んで(?)みて、はたと思った。これは基礎的な絵本である。
 作者はMARGRET & H.A.REY'S を冠していないので、原作者たちの作った絵本ではない。だけど、 Curious George の絵本を系統的なシリーズものとして続けて行く上では重要なステップの絵本と位置づけられると思う。

 なぜなら、色の認識と色を識別できたとしても、そこには色名というコトバでとらえるまでには至っていないはず。人とのコミュニケーションで色を伝達するためには言語と結びつける段階が不可欠。そのためにはどこかのプロセスで繰り返し色名という概念を単語という形で教えられ、その関連を自覚し、脳に定着させるプロセスがあるはずだ。親子、友達、周囲の人々との関わりのなかで、色の認識とコトバが自然とリンクさせていけるのだあろう。認識した色をコトバに置き換えて、発語し、相手に伝えるという一番基本的な頭の働きがそこにある。色とコトバの関係を自然に身につけさせる手段の一つが絵本ということになる。物質の世界とコトバの世界を最初にリンクさせるところに絵本の役割が最初に登場する。この絵本、その段階を具体化した一つのアプローチなんだと気づいた。

 この本を開いてみて、英語リハビリ学習ではなく、言語を修得し始める出発点ということを、改めて考えてみるきっかけになった。
 この絵本が、違った次元・領域に関わる学び、再認識のきっかけを与えてくれたことになる。その点で、おもしろかった。

 序でに、ちょっとネット検索で調べて知ったこと、学んだことを引用しご紹介しておきたい。
*「色盲などの視覚機能の障害がない場合、一般に生後4カ月頃には大人と同じ色彩感覚が身につくと言われています。
 そして認知機能が発達していくに従い、およそ2歳頃には同じ色を組み合わせることができています。」(資料1)
*色の名前の理解には、色覚だけでなく言語能力が必要ですが、これについては:
 「園城式乳幼児分析的発達検査」によれば、「赤・青・黄といった基本の色名がわかるのは2歳9カ月から3歳0カ月相当の発達であること」がわかっているそうです。つまり、基本の色がわかるのは3歳頃。
 「認知・言語促進プログラム(NCプログラム)を参考にすると、「4歳頃には10色程度の色の名前を言えるようになってくる」そうです。  (資料1)
*色彩感覚について、ダニフ・マイラ氏の調査結果を紹介する記事がある。
 その要点は:
 赤ちゃんの色彩感覚は、生誕後数週間で、赤、黄、オレンジ、緑を認識
 1カ月後に黄色と緑を識別
 4カ月後に大人と同じ色彩感覚を得られる   (資料2)
*「『形』や『色』の感覚を身につけるということは、さまざまな『形』や『色』の違いに気づくようになるということ。子どもに形や色を教えるとき、ただ机に向かってプリントを見ながら『これは四角』『これは黄色』と教えていくのではなく、日常生活の中で形や色を身近に感じられるように取り組むのがおすすめです。」(資料3)
 つまり、この絵本も幼児と一緒に楽しみながら読み聞かせるのに役立つのでしょうね。*小学1年生までは基本色名10種程度を知ればよいとされている。 (資料4)
 昭和55年3月発行のある教科書1年生用のあげている色
   黒、白、灰色、赤、橙、茶色、黄色、黄緑、緑、青、空色、紫  12色
*「B.Berlin & P.Kay の色彩用語の全人類の言語的普遍性によると色彩用語は、
White, Black(資料4)

 もう一つ、虹の色について、虹の色の種類の捉え方に文化差があることを知った。この点もおもしろい。この絵本を使えば、私たち日本人が捕らえるように、虹は7色であるという概念を学ぶことでもある。
 ご関心があれば下記のネット情報をご覧いただくよい。

 英語リハビリ学習と敢えて関連づけるなら、藍色が indigo という単語と再認識。ネットの和英辞典を引くと、indigo blue と表現をしていた。

 英語絵本が思わぬ異領域の再学習のきっかけになった。これも英語リハビリ学習の副産物として、おもしろい。

 お読みいただきありがとうございます。

参照資料
1) 色の名前がわかるのは何歳から?~子供の言語発達~
                  :「Senwisdoms 医療と育児と心理学」
2) 知ってる?色覚も視野も大人と全く違う!子どもの世界の見え方とは
                  :「保育のお仕事レポート」
3) 就学前の子どもに「形」「色」「数」の感覚を身につけさせるには? :「たまひよ」
4) 「幼児の色の認識について」松村佳子:中田真代 共著 
         奈良教育大学教育工学センター研究報告 1991-03-15

ほかにもネット検索で得た参考情報を一覧にしておきたい。
赤ちゃんが色を理解して言えるようになるのは何歳から?  :「まひまり」
色色雑学  :「KONIKA MINOLTA」
   :ウィキペディア
「虹の色は7色」が世界で非常識な理由・虹の色の順番や覚え方:「All About 暮らし」
【心理学科コラム】虹の色は7色?  :「人間環境大学」
世界各国の虹の色の数-虹ができる仕組み⑦  :「光と色と THE NEXT」

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 こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『MARGRET & H.A.REY'S Curious George and the Pizza Party』
          Houghton Mifflin Harcourt
『MARGRET & H.A.REY'S Curious George Goes to the Beach』
          Houghton Mifflin Company
『MARGRET & H.A.REY'S Curious George Makes Pancakes』
          Houghton Mifflin Company
『MARGRET & H.A.REY'S Curious George Goes to the Zoo』
          HOUGHTON MIFFLIN HARCOURT
『Curious George's First Day of School』
           Houghton Mifflin Harcourt
『Curious George Goes to the Hospital 』 MARGRET & H.A.REY
          Houghton mifflin Harcourt
『Curious George Learns the Alphabet』 H.A.REY
          Houghton Mifflin Harcourt
『Curious George and the Birthday Surprise』 MARGRET & H.A.REY
           Houghton Mifflin Company
『Curious George Goes to a Movie』 MARGRET & H.A.REY
          Houghton Mifflin Company

『新・紫式部日記』  夏山かほる  日本経済新聞出版社

2022-10-08 11:26:29 | レビュー
 先日ご紹介した『源氏五十五帖』を読んだとき、著者プロフィールから本書を知った。2019年に第11回日経小説大賞を受賞した作品で、著者の作家デビュー作という。2020年2月に単行本が刊行された。
 紫式部は『紫式部日記』を書いている。1010年頃に成立したと推定されるこの日記は、一条天皇の中宮彰子が皇子・敦成親王を出産する当時の状況と宮廷生活を記録し、併せて消息文という形で人物批評を記した書である。
 本書のタイトルに「紫式部日記」を使っているが、この作品は『紫式部日記』の記録内容の時期をストーリーの一つの山場にするところから関連づけられたネーミングにすぎない。本書は16歳の小姫と称された時点から始まり、1027(万寿4)年12月に道長が薨去し、更に帝位が敦成親王(後一条帝)から三の宮敦良親王(後朱雀帝)に継がれたころまでを扱っている。藤式部(紫式部)が五十半ばをかなり過ぎた時までを描いている。つまり藤式部(紫式部)の生涯を描いた作品である。
 そこには大胆な仮説が組み込まれ、フィクションという形で、藤式部の姿が描き出される。フィクションだからこそ、語り得ること、想像の翼を羽ばたかせることができる、そんな面白味が要所要所に見られる。そこに、研究者の学術論文としては語ることができない歴史の空隙を想像し、具象化する醍醐味が生まれるのだろう。
 読者は興味津々となり、ストーリーに引きこまれて行く。一気に読んでしまった。
 勿論史実を踏まえていてもフィクションなので、「新」という語が意図的に冠されたのだと思った。

 この作品にはいくつものテーマが織り込まれている。少なくとも私が受け止めたテーマと思うものを列挙してみる。
1.勢力関係の変遷とそれが及ぼす結果というテーマがストーリーの根底に流れている。
 藤式部の家系は、宮廷政治の文脈で捉えると、式部の時代には藤原一族の中で敗者の家系になる。二代前の堤中納言と称された祖父兼輔の時代と比較すれば、零落の一途という悲哀を式部は心中に抱く立場にいる。
 986(寬和2)年の花山帝の突然の出家事件。それが父・藤原為時と藤式部に影響を与えていたという側面など、この小説を読むまで考えてもいなかった。
 宮中勢力図をきっちりと押さえておくことが重要だと感じた事例になった。

2.物語作者として、なぜ書くのかという思い。『源氏物語』を創作し続ける思いに光を当てる。
 文脈から抽出してみよう。次の思いが表白される。その思いが湧く文脈・背景を読んでほしい。
「私は自分の物語が書けて、それが家の役に立つのです。私にとってこんなに嬉しいことはありませぬ」 p32
「書き手は高貴な方の支えなくして創作に集中できぬからな。よき読み手あっての良き書き手というわけか」(父・為時の言として) p33  
「藤式部は、自分が意識した設定が生きていて気持ちが弾んだ。」  p60
「時代が変わるように物語も変わる。しかし、時代が続くように、物語も続くのだ」p116「源氏の物語の人々は、それぞれ過酷な運命を生きている。そういう人生を定めたのはじぶんだけれど、読者と同じように、その中で幸をつかんでほしいと思いながら書いている。」 p145
「自分が物語を書いたのは、読者を喜ばせ才ある者として認められたかったからであり、描きたかったのは、止むにやまれぬ気持ちに翻弄されながらも懸命に生きようとする人たちの運命だった。」 p179

3.藤式部は藤原倫子に仕える立場から、一条天皇の中宮彰子に仕える立場に替えさせられる。藤式部の「女房(女官)」としての思いの変化をとらえていく。
 文脈から抽出してみよう。
「藤式部の後宮での役割は、物語を創作うることはむろんのこと、彰子の教養を高めるための指南役でもあった。」 p75
「彰子の天性の素質を大事に伸ばすべきだと感じとった。」  p78
「理想の帝の像を彰子に伝えたいと思った。いつか彰子が育てる帝が比類ない御代を築くための一助となりたかった。」  p79

4.物語が宮廷政治の中でどのような役割を担い、利用されていくか。
 娯楽、文化的享受、教養という側面にとどまらない実態が掘り下げられていく。
 「油断してはいけません。道長公は老獪な方です。高価な料紙を長年にわたって大量に融通して下さるのが、ただの好意からとお考えなら、甘うございますよ。」(清少納言が藤式部に語ることばとして) p158-159

 この小説で興味を惹かれる側面がいくつもある。列挙してみると、
1.藤原道長の『源氏物語』の読み込み方が藤式部との会話の形で書き込まれる。道長の視点と彼の心の動きが描かれる点。第一に宮廷政治家としての考えが厳然とある。
 「そなたの物語には宮中での役目がある。それを忘れてはいまいな」(p73)と道長に言わせている。今上の目を彰子に向けさせるための小道具。

2.藤式部と清少納言がストーリーの節目で対面して語り合う場面が出てくる。その会話が重みのある内容となっている点。
 『紫式部日記』の後半に「消息体」の文が含まれ、「三才女批判」が記されている。紫式部はその一人に清少納言を取り上げ槍玉にあげている。両人の直接的な接触は不詳。
 この小説ではその清少納言と藤式部を身近な間柄のように登場させているところが、おもしろい。

3.原文で「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふ」と藤原公任が藤式部に問いかける場面が、『紫式部日記』に記されている。『源氏物語』の成立年代を判断する上でも有名な一文として知られている。
 『紫式部日記』では、親王誕生五十日の祝いを11月1日に行なった宴の場面の中で問われたこととして記されている。
 この小説では、藤式部が彰子に仕える女官に役割を変えさせられて1年近くたった後の11月半ばに、道長が宇治川のほとりの別業で恒例の遊覧の宴を催す。藤式部も倫子に頼まれて特別に手伝いとして参加する。その時に、酔眼を隠しもしない大納言藤原公任に「やや、この辺りに若紫や侍ろう」(p85)と声を張り上げられたというエピソードとして描き込まれている。

 本書のテーマと興味を惹かれる側面で上記の諸点に触れているが、あらためてストーリーの大筋を小項目列挙の形で押さえておこう。
<序>
 藤式部の祖父、堤大納言藤原兼輔、清原深養父、紀貫之の夏の夜の宴場面。

<第一章>
 16歳の小姫(=後の藤式部)ははや物語を執筆。石山寺への7日の参籠と帰路のエピソード。

<第二章>
 花山帝の突然の出家事件。それから15年後の小姫の状況描写(10年後に父為時の国守任官に同行して越前へ。帰京し結婚、妊娠、夫との死別という人生体験で3年が経過)。
 寡婦の小姫に土御門第の倫子から物語の女房としての務めの誘い。藤式部と称し出仕
 『源氏物語』既刊の帖が話材に。道長と藤式部の面談場面。
 中宮彰子に仕える女房として後宮に入ることへの要請。

<第三章>
 中宮彰子との面談。藤式部の役割自覚と思い。宇治の別業での恒例の遊覧・宴。藤式部の身に起こる一大事。彰子入内10年目の懐妊と出産。
 このストーリーでの一つの山場となっていく。著者の仮説とフィクションのおもしろさが発揮されていく。

<第四章>
 藤原道長と藤原伊周との確執。道長による藤式部の物語草稿持ち出し事件。藤式部が石山寺の坊に逗留して創作。石山寺逗留時に清少納言が登場(二人の語らい。これが興味深い。)、石山寺の僧明信の思い出した事(藤式部にとっての運命の縁?!)、藤式部と道長との核心に迫る対話。
 政治と物語論がもう一つの山場となっていく。

<第五章>
 源氏物語創作の断筆を考える藤式部。成長した彰子の姿(左大臣道長との対立さえ考える彰子)。春宮擁立についての道長の画策。藤式部が創作目的で石山寺に逗留。藤原行成が石山寺に来訪。源氏物語の新たな帖の誕生(女三の宮を正妻に、光源氏の死去、異なる源氏の世界へ)、行成が一の宮立坊の難点を提起
 道長の思惑に屈せず、創作を展開する藤式部の姿が興味深い。物語は独自の展開へ。

<第六章>
 今上崩御後の皇位の行方。彰子の皇大后冊立。藤式部は女房勤めを引き、宇治十帖創作へ。道長への最後の対面。道長の晩年。
 「権勢と裏腹に、道長は孤独な老いた男性となっていた」(p220)対面での会話に続くこの一文が生きている。

<終章>
 藤式部と清少納言の語らい。

 最後に、印象深い箇所をいくつかご紹介しよう。
*漢籍も仮名も文の学、文の芸だ。・・・・ことにそなたの書くような物語は、男だから優れている、女だから劣っているとふるいになどかけられまい。男より優れた女の歌詠みはいくらでもいる。物語の書き手も同様であろう。(為時に語らせた言葉) p67
*漢籍に限らず、古くから長く伝えられてきた物語には、時代や国は違っても、人の心を捕らえて離さない何かがあるのだよ。人の心の何かがな。(為時に語らせた言葉) p68
*政治というのは、私たちが考えるよりもっと色々なものを利用するのです。p159.p172
*ひとり高明親王のみならず、失脚したり悪評が伝わる帝や皇子は、本当は優れた人たちだったのではないか。物狂いとして誹られる冷泉帝の真の姿をどれだけの人が知っているだろう。  p173
*親が子を思うように、いやそれ以上に、子の親への思いがまさることもある。 p187
*人というのは、惑うものなのです。
 だからこそ、物語に心うごかされるのかもしれません。和歌も詩もきっとそのためにあるのでしょう。  p224

 藤原倫子と中宮彰子に仕えた藤式部。宮廷政治家道長は『源氏物語』と藤式部を利用した。藤式部と道長の縁は、式部が16歳の小姫の時点から始まっていた・・・・という構想が実におもしろい。最後は歴史書が記録する皇位継承の外形的史実に巧みに帰着する。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して、登場する人物で歴史に現れる人々をネット検索してみた。一覧にしておきたい。
藤原兼輔  :ウィキペディア
藤原兼輔  :「千人万首」
藤原兼輔  :「コトバンク」
清原深養父 :ウィキペディア
清原深養父 :「コトバンク」
一条天皇  :ウィキペディア
後一条天皇 :ウィキペディア
敦康親王  :ウィキペディア
藤原彰子  :「コトバンク」
藤原道長  :ウィキペディア
国宝 紫式部日記絵巻  :「五島美術館」
藤田美術館 名品物語 紫式部日記絵詞  YouTube

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こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『源氏五十五帖』  夏山かおる  日本経済新聞出版

『MARGRET & H.A.REY'S Curious George and the Pizza Party』 Houghton Mifflin Harcourt

2022-10-07 10:23:22 | レビュー
 標題が長くなるので略した箇所を最初に記す。
 Written by Cynthia Platt Illustrated in the style of H.A.Rey by Marry O'Keefe Young と内表紙に明記されている。作者名が明記されているので、"New Adventures" のシリーズとして刊行されたようだ。英語絵本電子書籍版で読んだ。2010年のコピーライトと明記されている。

 ジョージが住む共同住宅と同じ建物内にある小さな女の子の家で行われる「ピザ・パーティ」にジョージは招待される。ジョージが土曜日午後4時にパーティに出席するというお話。例によって好奇心旺盛なジョージは、ピザ生地に独自の発想で取り組んで、部屋中を散らかしてしまう。その失敗で、パーティから退去させられそうになるのだが、パーティに出席していた子供たちが、おもしろがり、その騒動を福に転じる協力をする。お陰でジョージはパーティに参加し続けることができ、みんながジョージのアイデアを面白がり、ハッピーエンドの楽しい話となる。

 このシリーズ、子供向けに平易な英文で記されているので、読みやすい。
 とは言いながら、初めて目にする語句や、日常生活でよく使われそうな慣用的なフレースなどを散見し、英語リハビリとしては役にたつ絵本だ。非英語圏の英語学習者としては、日常で出会う事のない場面の英語表現であり、日常の当たり前の多分常識語を当方が知らないだけということなのだろう。日常英語と学習英語のギャップを埋める一助になってくれる。そのギャップ箇所をご紹介しよう。私の拙い英語力レベルでの抽出なので、その点を踏まえてお読み頂ければと思う。
 
 絵本なので、絵と文を対比すれば、意味は推測できるのが大半なのだが、私にとり初見と思える単語、語句は辞書を引いて見た。
 最初の絵は、友達の黄色帽子の男の傍の椅子の上でジョージが逆立ちしている。そこの文には、turn flips という語句が出てくる。flip に「とんぼ返り、宙返り」という意味があることをまず知った。
 黄色帽子の男が、ジョージをパーティに送り出す時に、こんな言葉を投げかける。"Have fun -- and remember to be on your best behavior." と。「楽しんでおいで。お行儀良くするんだよ」そんな意味なのだろう。辞書には be on one's best behavior という表現が載っている。「気をつけて[できるだけ]行儀よくする」と説明されている。
 小さな女のこの家では、招待された子供達が皆、ホテルのシェフが被るような白い帽子(white chef's hat) を被っている。この帽子を puffy という後で形容している。辞書を引くと「ふくれた」という意味。
 ピザ・パーティは子供達が自分たちでピザを作って食べるという催し。小さな女の子のお母さんはその材料を準備していた。材料の一つが、小分けされた pizza dough 。絵には大きな餅のような塊を鉢をお母さんが持っている。dough (パン生地、こね粉)なんて単語、初見だった。lump(かたまり)という語は知っていた。There are many little lump of dough. という一文も出てくる。
 子供たちがお母さんと一緒に隣の部屋でしばらくゲーム遊びをしようと移動した間に、ジョージは、思いついたとんでもない作業をやり始める。小分けした pizza dough を一つにまとめ出すのだ。その作業で squish and squash という類似の動詞が使われている。擬音的表現のように思える。辞書を引くと、どちらも「~を押しつぶす、ペチャンコにする」という意味である。こんな動詞も初見。ピザ生地を引き延ばすのに筒状の棒が利用される。勿論、ジョージもそれを利用する。この棒、rolling pin の語が使われている。辞書を引くと「めん棒、のし棒」と出ている。料理用英語などに縁の薄い私にはこれも初見。
 全部まとめたピザ生地をドンドン引き延ばす作業を続けて行き大きくなりすぎていくプロセスの描写に、It was messy work! という文が出てくる。こんなところで messy という表現が使われるんだ。あらためて messy を引くと「<仕事など>やっかいな、面倒な」という語意が載っていた。私はこの語から、「1.取り散らかした、乱雑な 2.きたない、よごれた」(『新英和中辞典』研究社)の意味をまず想起したので、辞書を引いてみた次第。
引き延ばし作業の途中で、ジョージは椅子に触れてひっくり返したり、テーブル上の口を開けてあった小麦粉の袋にふれて、下に落としたりなどをやらかす。この場面で、Thump! という語が斜体字で大きめに記されている。絵からイメージはすぐ湧く。一応、辞書を引くと、thump には「<ものが><・・・・に>ゴツン[ドシン]とぶつかる」意味とある。こんな単語、知る機会もなかった。子供の頃に、日常語として自然に学ぶことばなんだ・・・・。
 子供たちはゲームを終えてわっと台所の方に飛び込んでくる。burst into the kitchen.という表現が使われている。burst は「爆発する、破裂する」という第一義で覚えていたが、burst into というイディオム的な使い方で「[・・・・・に]急に入り込む」という使い方をするんだ・・・・というのも、ここで学ぶことに。
 子供たちがそれぞれ自分のピザを作り始める。その場面にこんな表現がある。
They spooned on tomato sauce and sprinkled on cheese.
スプーンもスプリンクラーも日常語として使っているけれど、spoon (スプーンですくい上げる)、sprinkle (振りかける)を動詞で使う機会が私には無かったことに、この絵本で気づいた。

 子供たちが、ジョージのいたずら(?)作業から、ピザ手作りで何を知ったか/学んだかは、この絵本を開いてのお楽しみ!

 英語絵本、けっこうためになる。英語リハビリに丁度よい。

 ご一読ありがとうございます。

 こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『MARGRET & H.A.REY'S Curious George Goes to the Beach』
                  Houghton Mifflin Company
『MARGRET & H.A.REY'S Curious George Makes Pancakes』
                  Houghton Mifflin Company
『MARGRET & H.A.REY'S Curious George Goes to the Zoo』
                  HOUGHTON MIFFLIN HARCOURT
『Curious George's First Day of School』
                  Houghton Mifflin Harcourt
『Curious George Goes to the Hospital 』 MARGRET & H.A.REY
                  Houghton mifflin Harcourt
『Curious George Learns the Alphabet』 H.A.REY
                  Houghton Mifflin Harcourt
『Curious George and the Birthday Surprise』 MARGRET & H.A.REY
                  Houghton Mifflin Company
『Curious George Goes to a Movie』 MARGRET & H.A.REY
                  Houghton Mifflin Company


『源氏五十五帖』  夏山かおる  日本経済新聞出版社

2022-10-06 10:02:57 | レビュー
 『源氏物語』は五十四帖からなる物語のはず。このタイトルは何?
 これは、第五十五帖を探し求めて旅立たざる得なくなる更科と賢子を描くというフィクションである。一種のミステリー小説仕立ての作品。2021年2月に書き下ろしとして単行本が刊行された。源氏物語愛読者には楽しめると思う。瀬戸内寂聴訳『源氏物語』のご紹介の際に触れたuさんのブログ記事で本書を知り、興味を抱いて早速読んだ。

 主人公となる更科とは菅原孝標の娘、賢子とは藤式部(紫式部)の娘をさす。最初に主な登場人物とその人物の生年・没年を列記してみる。インターネット情報他で確認した。ここにこの小説が構想された源があると私は思う。そこに時代設定の巧みさとその妙味が潜んでいる。
 更科(菅原孝標女)は1008年~1060年頃(一説に1059年)。藤原賢子は999年もしくは1000年~1082年。藤原道長は966年~1027年。藤原彰子は988年~1074年。藤原行成は972年~1028年。藤原能信は995年~1065年。清少納言は966年~1026年頃。一条天皇の妻の一人・中宮定子の娘・一品宮(修子内親王)は997年~1049年。菅原孝標は972年~没年不詳。
 紫式部は謎多き人だが、源氏物語千年紀記念に刊行された角田文衛著『紫式部伝 その生涯と『源氏物語』』(法蔵館)によれば、973年(この年、誕生か)~1031年(正月中旬、卒去か)と末尾の「紫式部略年譜」に記されている。

 「序」は菅原孝標が従者とともに石山寺の僧都を訪ねて行く。だが、石山寺に間近い瀬田の唐橋近くで岸辺に打ち上がる物を見つけた。近づくとそれは訪ねていく僧都で撲殺されて浮かんでいたのだ。検非違使の少尉に殺害の嫌疑をかけられその場で捕縛される憂き目にあう。その僧都は、紫式部が源氏物語を石山寺で執筆したのを間近で見た、ただ一人の人であり、孝標はその僧都に話を聞きに訪れようとしていたのだ。
 孝標の娘・更科は、大胆にも入道摂政(道長)の土御門第に出向き、直訴を試みる。たまたま門前で出くわした藤原能信が仲介し、更科は道長に面談が叶う。更科は父の無実を訴え、その解放を嘆願する。
 道長が孝標に源氏物語を探すように命じていたのだ。更科は道長から、「源氏の物語、第五十五帖を探して参れ」と命じていたと聞く。更科は源氏物語の愛読者であり、全部で五十四帖ということは熟知していた。
 道長は言う。「紫式部は、第五十五の巻を書き残したらしいのだ。これは、紫式部が仕えた我が家だからこそ伝わる話だ」(p22)
 道長は、太皇大后の宮(彰子)がこのたび帝から女院号の宣下を受けることになるという。その賀の行事の一に、物語合わせを帝が所望されているので、その場に第五十五帖を出し、物語合わせの勝負に勝ちたいということなのだ。

 調べてみると、藤原彰子が女院号を宣下されたのは1026年である。つまり、その直前に時代設定されたストーリーが動き出す。
 道真は、孝標を救いたければ、更科自身が第五十五帖の所在を突き止め、道長の面前に持ち来たれという課題を提起した。
 道長は告げる。「物語合わせは一月後、年明け睦月半ばの酉の日だ。その日までに持って参れ。不服とあらば、此方はそなたの父の処遇などしらぬ」(p24)と。
 このストーリー、実に巧妙なタイミングが設定されていることになる。

 更科が道長に直訴できた場には、女房の一人として紫式部の娘賢子が仕えていた。紆余曲折を経た結果、更科が第五十五帖を探すのに、賢子が協力して同行しなければならなくなる。更科は父を救いたいが為に、賢子は母の紫式部のことを回顧しつつも、やはり母の書き残した帖が実在するならばその内容を知りたいが為に。
 第五十五帖が存在するならそれはどこに? 第五十五帖探索のミステリーが始まる。

 更科が道長に直訴できたのは、能信が介在したからである。更科はこの能信が誰かは全く知らなかった。
 能信は道長と明子の間に生まれた子であり、庶子という位置づけになる。その能信は、嫡男を重視し、庶子の能信を疎んじる父道長に反撥していた。彼は父の後に己が政権を執ることを夢見ていた。そして、亡き中宮定子の娘である一品宮に近づくことで己の生き方を模索している時期だった。一品宮は皇位継承は己の側にあるべきという執念を抱いていた。こんな経緯から、能信は第五十五帖探しに、独自の行動を採り始める。

勿論、皇位を巡り、道長と一品宮の間では、確執が続いていた。

 更科と賢子は、紫式部が日記に記した古くからの友人、松浦の方を手がかりに探索を始める。松浦の方は既に亡くなっていた。父孝標の書棚にある蔵書としては不似合いな和漢朗詠集の豪華本が次の手がかりとなり、権大納言藤原行成から松浦の方の息子が信濃国の国司として下向していると聞く。
 更科と賢子は、信濃国へと第五十五帖を求めて、難路と言われる東山道を辿る探索の旅に出る。
 一方、一品宮に通じている能信もまた、独自に己の思惑で更科と賢子の後を追う。

 ここからの読ませどころを列挙しておこう。
*東山道で起こる艱難のプロセス。更科と賢子に、能信は合流することに・・・。
*更科と賢子は信濃国の国司に会うことができるが、そこで悲劇が起こる。
 国司は、更科にメッセージを伝えていた。
*メッセージの解読が全てのキーとなっていく。この解読作業が最初の山場になる。
*探索ミステリーは、どういう縁か、清少納言への導いていく。

 第五十五帖は存在した。だが、そこから別の問題事象が発生する。その克服のプロセス。それがもう一つのストーリーの山場へと連なっていく。
 その結果が第四章となる。第五十五帖は更科の手によって、入道摂政(道長)に届けられる。道長はその真贋をその場で吟味する。その場に臨む主だった人々は、それぞれの存念に従って丁重に振る舞い己の役目を果たす。壮大な茶番劇が茶眼劇と気づかれることなく厳粛に進行するのだから、読者にとっては実におもしろい。

 結果的に第五十五帖はなかったものと同様の運命となる。つまり、世に現れることはない。なぜか? 第五章をお読みいただきたい。
 『源氏物語』は五十四帖という史実に収まる。この構成の巧みさ。この落とし所が実にいい!
 これから先は、本書を紐解いて、その謎解きと艱難辛苦譚、並びにオチを楽しんでいただきたい。
 
 このストーリー、賢子が母・式部との関わりを語る回顧談という側面も併せ持っている。賢子が母を改めて捕らえ直すという心の変化が描き込まれている。

 「終章」は、更科が父孝標に同行し、淡海の湖(琵琶湖)の打出浜から任国に旅立つ場面で終わる。賢子がそれを見送り、更科が新しい物語りを書いた折には、厳しい読み手となることを約束する。この別れの場面は、二人の友情の相互認知で終わる。この余韻が心地よい。

 最後に、本書の記述として興味深い箇所を引用しご紹介しよう。
*入道摂政と紫式部は二代も遡れば同族として対等な立場だった。それがいつの間にか主従の関係へと変わってしまった。
 彼我の差は何だったのか。どこで間違えたのか。何ゆえ今ここで膝を屈せねばならないのか。聡明な人間であればあるほど苦しんだのは想像がついた。
 紫式部によって密かに書かれた五十五帖は、誰もが知らぬ間に心許せる親友に託された。  p170
*五十五帖は、光源氏の後悔に満ちていた。 p174
*紫式部が遺した五十五帖は、雅を越えて用意された真の結末だった。そこには、優美さはなかったかもしれないが、人間の心の確かな手触りがあった。  p185
*入道摂政は、二の宮の立坊を強行した。それゆえ二の宮が即位した今の御代において、批判に神経を尖らせた。先例主義の平安朝では、表面上は問題がない風にしておきたかった。  p193
*母がここにいたら、清少納言さまと同じことを言うと思います。物語は、紙に書いて初めて命がふきこまれると、よく申しておりましたゆえ。  p198
*秘密というのは諸刃の剣だ。何かあったときの切り札にしようと思うておったのかもしれぬ。  p246

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して、ネット検索した事項を一覧にまとめておきたい。
菅原孝標女  :ウィキペディア
菅原孝標   :ウィキペディア
大弐三位藤原賢子(だいにのさんみ/ふじわらのかたこ・かたいこ・けんし)
:「花橘亭~源氏物語を楽しむ~」
藤原能信  :ウィキペディア
藤原能信  :「コトバンク」
藤原能信 摂関政治から院政への橋渡し役を演じた陰の実力者  :「歴史クラブ」
藤原彰子  :ウィキペディア
脩子内親王 :ウィキペディア
清少納言  :ウィキペディア
延喜式内名神大社 生島足島神社 ホームページ
信濃国分寺 :「信州上田観光情報」
信濃国分寺 :ウィキペディア
善光寺  ホームページ
天台宗別格本山 北向観音・常楽寺  ホームページ
盤渉調  能楽用語辞典 :「the 能.com」
盤渉調 越殿楽  YouTube
雅楽「盤渉調調子(ばんしきちょうのちょうし)」 笙奏者 伊藤えり(3/3)【HD】 YouTube 

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[源氏物語ワールドへの誘い] 
こちらもお読みいただけるとうれしいです。
これからも源氏物語とその関連書を種々読み継ごうと思っています。

『源氏物語』全十巻   瀬戸内寂聴訳  講談社文庫

『源氏物語の京都案内』  文藝春秋編   文春文庫
『源氏物語解剖図鑑』 文 佐藤晃子 イラスト 伊藤ハムスター X-Knowledge
『初めての源氏物語  宇治へようこそ』  家塚智子  宇治市文化財愛護協会

『源氏物語の京都案内』  文藝春秋編   文春文庫

2022-10-05 16:17:15 | レビュー
 瀬戸内寂聴訳『源氏物語』全十巻(講談社文庫)を読み通すときに、併行して読んだ本が2冊ある。その内の一書がこの文庫本。2008年3月に刊行されている。『源氏物語』が書かれて1000年経て、源氏ブームが熱くなっている時に、編集出版された本だ。

 なぜ、この本を併読したのか。本書の編集が、源氏五十四帖の帖単位で行われていて、タイトルにあるとおり、物語と京都案内を結びつけているという点にあった。もとは京都市内、現在は宇治市に在住し、京都は日頃の行動範囲である。しかし、『源氏物語』とリンクさせて京都を見れば、また違った京都が見えるきっかけになるかもしれない。また、この本もしばらく書架に眠っていたから、この際読み通そうか・・・・という次第だった。

 「はじめに」に本書の編者が次のことを述べている。(p7-10)
「およそ一千年前に、光君や紫上が登場する長編が、藤原道長という最高権力者の庇護のもと、紫式部と呼ばれた才女を中心として生まれ、それは時代を超えて、愛され、読まれ続けてきたこと、これは本当です」
「平安時代の人々が読んだ『源氏』と、鎌倉時代の人が想像した『源氏』と、江戸時代の人が想像した『源氏』と、現代人の『源氏』は全く違います。」
その上で「現代の読者には、現代の楽しみがあるのです」という立場から、「気軽に源氏と京都を楽しめるようなガイド」を目指すので楽しんでくださいという訳だ。

 「はじめに」の末尾に、本書の構成を読者のためにきっちり説明している。それを簡略に要約すれば、本書のイメージづくりをしていただけるだろう。
 五十四帖は全て4ページでまとめてある。写真はすべてカラー写真。
  第1ページ 簡略にその帖のあらすじを解説
  第2ページ 上半分に関連系図や人間関係図。下半分に<ちょっと読みどころ>
  第3ページ 上部に茶碗の写真、その帖に関連する観光スポットと京菓子を紹介
  第4ページ 第1~3ページにリンクする様々な写真(風景、美術工芸品、寺社等)
「厳密に平安時代の遺跡を追うのではなく、現代の私たちが『源氏』のイメージを膨らませることができる、そのような所を選びました」という方針での選択。つまり、読者が気軽に楽しめるという点に主眼が置かれている。そのリンクは比較的ゆるいものもある。逆に、そういう繋がりを連想できるか・・・という見方もできておもしろい。
 
 瀬戸内訳源氏の一帖を読み終えてから、本書の「簡略なあらすじ」「ちょっと読みどころ」を読むというパターンを繰り返した。訳の全文を読んでから読むと、その要点をうまくとらえてあることにうなずき、かつ復習にもなった。相乗効果があったように思う。
 逆に、源氏を現代語訳であっても全文を読まずに、この本だけを通読すると、『源氏物語』五十四帖のごく簡略なあらすじ、ストーリーの流れ自体を理解できることになる。入門編としての手軽さは十分カバーされている。

 本書を読んでみて、改めて気づいたことが2つある。一つは、観光スポットとして本書に取り上げられている場所で、未訪のところがまだあったこと。大半は訪れているのだが・・・・。落ち穂拾い的に未訪先の探訪をこれからやってみようと思う。
 二つ目は、京菓子の菓子鋪がこんなにあるのかということ。デパ地下に出店する京菓子の老舗として見知っている店は勿論ここに入っている。初めて名を知る菓子舗が各所に数多くあることを知り、今後の市内探訪の楽しみができた。菓子鋪の佇まいがどのような状況かということ。本書に掲載の菓子が現在も商品として並んでいるかということなど。今後の探訪に、源氏に絡めた菓子鋪・京菓子探訪を副次的に加えることができそうである。

 第3ページの上部右に、毎回その帖にリンクする図柄の茶道で使う茶碗がカラー写真で掲載されている。写真が小さいのが難点なのだが、源氏の各帖にリンクする茶碗があるというのは、おもしろい試みだ。末尾に「五十四帖茶碗 個人蔵」と一行記されているに留まる。詳細が不詳なのが残念。

 第4ページの写真の取り合わせが結構楽しめる。

 本書の興味深いところは、五十四帖の4ページ構成にとどめていないところだろう。
 教養レベルを高める視点が付け加えられている。
*「宇治十帖 浮舟の悲劇を追って」という実質22ページの瀬戸内寂聴さんの小論が転載されている。
*「比べてみる『現代語訳』」という文がその次に続く。
 ここでは、まず「若菜 上」の場面を取り上げ、瀬戸内寂聴訳と原文を対比し説明する。その後で、現代語訳の歴史を振り返ると言う視点に踏み込んで、与謝野晶子、谷崎潤一郎、円地文子、田辺聖子、橋本治の訳が対比的分析的に例示されている。
 さらには、『源氏物語』のマンガ化として、大和和紀と小泉吉宏の作品例に言及している。
 今では現代語訳から『源氏物語』世界に入る登り口が多様化し広がっている。その一端を知るのにも役立つ。36ページにまとめられた小論である。

 最後に、気分転換が用意されている。「チャート式性格判断<あなたはどのタイプ?>」というもの。女性編と男性編がある。源氏物語に登場する人物タイプのいずれに該当するかというものである。
 どういう人物を選んでいるか? その点だけ列挙してみよう。関心度が増すかも・・・・。

 女性編(15タイプ):女三の宮、浮舟、夕顔、末摘花、空蝉、紫の上、玉鬘、源典侍           
           朝顔、藤壺、明石君、弘徽殿女御、朧月夜、葵上、六条御息所
 男性編(14タイプ):薫、光源氏、頭中将、夕霧、桐壺帝、匂宮、蛍宮、横川僧都
           明石入道、朱雀帝、惟光、右大臣、鬚黒、柏木
 
 これらの人物名を読むだけで人物像を連想できるなら、あなたは既に源氏ワールドにかなり馴染んでいることだろう。
 この性格判断を試みてから、源氏ワールドに入っていくのも、おもしろいかもしれない。
 この性格判断をやってみた。光源氏タイプではなかった。それならどのタイプ? ・・・「言わぬが花」ということで。

 『源氏物語』への誘いとして、肩が凝らずに手頃に読める一書だと思う。
 ご一読ありがとうございます。

こちらもお読みいただけるとうれしいです。
『源氏物語』 全十巻  瀬戸内寂聴訳  講談社文庫

『源氏物語』 全十巻  瀬戸内寂聴訳  講談社文庫

2022-10-04 00:23:57 | レビュー
 今年になって、長年一つの読書目標にしてきた『源氏物語』を瀬戸内寂聴訳で通読することができた。瀬戸内寂聴さんがご健在な間に、長年書棚に眠らせていた文庫本を読了したいと思いつつそれが果たせなかった。だが、何とか一応読了することができた。
 それには契機があったので触れておきたい。フォローしているブログの一つに「透明タペストリー」(u11953さん、以降uさんと略称)がある。uさんがこの4月に、「『源氏物語』を読み始める」と宣言されて、角田光代訳『源氏物語』を読み始められ、各帖毎にブログ記事を載せ始められた。私にはそれが良い刺激になった。途中で挫折するかもしれないが、極力同様のペースで密かに伴走してみようと・・・・。そこで、手許の文庫本を読み進めることに。お陰で10冊全巻を通読することができた。感謝、感謝・・・という次第。

 文庫本は、2007年1月に巻一が刊行され、毎月刊行で同年10月までで全巻が刊行されている。私が入手した文庫は、巻一~巻三は第1刷だが、その後の巻は、第2刷(3)、第3刷(1)、第4刷(2)、第5刷(1)である。巻八が第5刷なのだが、これは8月の刊行で翌2008年7月に第5刷となっている。調べてはいないが、直近の店頭文庫ではたぶん各巻がかなりの刷番号になっていることだろう。

 私事ながら、uさんの宣言記事に動機づけられ密かに伴走し、書架に眠らせていた文庫を読み始めた。だが単なる思いつきではなかった。
 2014年に、「わたしの古典」という形で3巻にまとめて現代語訳された『円地文子の源氏物語』(集英社文庫、1996年1~3月)というエッセンス版は何とか通読していた。
 また、宇治には「源氏物語ミュージアム」があり、ここでは毎年、源氏物語の講座が開講されている。あるときその事を知り、地元という地の利を活かし受講してみた。手許には1915年から1919年の5年間、「入門講座」と「連続講座」をともに継続して聴講してきた。手許にその受講資料がある。コロナ禍でその後の開講の折の参加は見合わしてしまった。少なくとも1915年以降は、『源氏物語』について、各講師の様々なアプローチに学びつつ、部分的に源氏物語を原文で読む機会を持ってきた。この間に日本古典文学全集の『源氏物語』(小学館)5巻も購入して、原文と訳文を部分参照してきていた。
 受講しながら、これまでの期間に標題の全十巻を併行して読めそうなものだが、なかなか取り組めなかった。目標としつつも通読しないままで時が過ぎた。その忸怩たる思いが先にあった。それ故だろう、正直実によい機会となった。

 さて、今回の読後印象を記録を兼ねて、列挙式でご紹介しよう。
1.『源氏物語』は、やはり一筋縄ではいかないな・・・というのが実感。『源氏物語』には平安時代そのものが凝縮されて詰まっているという気がする。それ故に、この内容の読み解き方に様々なアプローチがあり、延々と研究者が輩出しているのだろう。

2.一番太い軸となっているのは、光源氏を筆頭とする主人公たちの女性遍歴物語と言える。まず光源氏の一生の時間軸に沿って、光源氏の女性遍歴が進んで行く。
 全体の構成で面白いのは、主人公に対し、対象とする「女」を競い合う関係になるライバルが存在していて、その人物が絡んでいく点であある。光源氏の場合は左大臣家の頭中将がライバルになる。2人の間で心理的駆け引きが始まるところがおもしろい。そこにその人の思いが色濃く描き込まれていく。
 『源氏物語』では「桐壺」(第1帖、以下番号のみ)から「幻」(41)までの主人公は光源氏であり、ライバルの頭中将との間で「女」の駆け引きが描き込まれる。勿論、駆け引きの対象にはならないが、それぞれにとって重要な女性との関係もストーリーの中で、幹として描かれていく。光源氏では紫の上並びに明石の君との関係が太い幹になる。
 「乙女」(21)で夕霧の元服の儀が書き込まれ、これ以降、光源氏の子・夕霧と頭中将の子・柏木が登場し、夕霧と柏木がライバル関係となる。彼等の女性遍歴物語がパラレルに描かれ始める。光源氏の正妻となった女三の宮と柏木の不義の結果、柏木が死ぬ。「柏木」(36)でその死が描かれる。そこで夕霧・柏木のライバル関係は消滅。光源氏の存命中に夕霧の女性遍歴物語は、ストーリーの背景へと引き下がっていく。
 「幻」(41)と「匂宮」(42)との間には、「雲隠」という表紙だけのページが挿入されている。つまり、光源氏の死を象徴し、何も語られない。それ故、帖としてもカウントされていない。光源氏の最後は、読者の想像に任されている。地獄に堕ちたのか、極楽世界に直行したかは、読者の判断次第・・・・・。

 「匂宮」(42)から、本格的に薫と匂宮がライバル関係として登場し、彼等が主人公となっていく。匂宮は今上帝と明石の中宮の間に生まれた子。薫は形式上は光源氏と女三の宮の間に生まれた子。実は柏木と女三ノ宮との不義の子。光源氏はそれに気づくが己の子として育てる。ここには、光源氏の過去のやむにやまれぬ過ちに対する結果の再来とその受容が関わっている。「因果応報」というテーマを紫式部は取り込んでいるのだろう。

 「匂宮」からは、光源氏の一生物語は終わり、次の物語次元にシフトしていく。
 「宇治十帖」と称されるのは、「橋姫」(45)から「夢浮橋」(44)である。
 つまり、「匂宮」(42)、「紅梅」(43)、竹河(44)という三帖がその前にある。この三帖は宇治十帖での薫と匂宮の協調あるいは競合のライバル関係を描き出すための、間奏曲のような感じがする。つまり、匂宮と薫を主舞台に引き出すための準備ステージとして、場面転換している印象を受ける。

3.源氏関連書を紐解けば、各帖における光源氏の年齢が確定されている。「桐壺」は光源氏の出生から12歳までが語られる。鴻臚館で来日した高麗人の観相家が若宮の将来を予言する。それが源氏姓を賜る契機になるのは有名である。この観相場面が源氏絵として描かれている。
 瀬戸内源氏を通読している時には、登場人物の事細かな年齢はほとんでわからない。原文に年齢が明確に出てくるのは希だから当然である。連綿とした『源氏物語』諸研究の成果が源氏関連書に表記されていることになる。瀬戸内源氏を今後帖単位レベルで再読、精読するときに、具体的な年齢などの情報も重ねていけば、より深く読み込めるのではないかという気がする。
 一方で、現代人の生育プロセスでの年齢と社会的活動時期を思うと、源氏物語時代の登場人物の年齢と社会的活動時期との間には大きなギャップがある気がする。この時代ギャップはどう受けとめて行けばよいのだろう。平均寿命の差だけに帰されるものでもないだろう・・・・。社会体制も大きな影響を及ぼすのだろう。

4.紫式部が『源氏物語』を創作した。紫式部が全くのゼロから全てを創造したことはたぶんあり得ない。創作物語を生み出すヒント、アイデアは既存の知識情報にあり、それらを新たな発想のもとに組み合わせ昇華統合させた結果だが結実したものと思う。それ故に、創作内容を因数分解するように要素に分解し、史実や知識情報の中でのモデル探しが起こるのだろう。
 創作プロセスを研究するという作業が始まる。これだけの長い物語故に、分析研究が多様化することが納得できる。

5.通読していて感じたのは、源氏物語の中に、次の諸要素が必然的に色濃く織り交ぜられている点である。項目1で記した印象をブレークダウンするに過ぎないが、覚書を兼ねて記してみたい。
 a)宮廷における政治体制と官職  b)宮廷における年中行事と生活儀礼 
 c)仏教の浸透のありかたと僧侶が果たす役割 d)宮廷を中心とした服装の実態 
 e)宮廷を中心とした居住空間(建物)の構造と実態
 f)結婚の形態。男と女の関係。男女の価値観と制約。貴族の抱く女性観 
 g)文化的価値観、特に美についての意識
こんな諸観点がそれぞれの人物の行動描写や生活環境に巧みに織り込まれていて、当時の生活状況をリアルに表現している。『源氏物語』がそれぞれの研究視点の材料になって不思議ではない。
 そういう分析的研究の成果がまた、ストーリー理解の深耕に役立つのだろう。

6.5項と関係するが、例えば、「掃木」(2)には、「雨夜の品定め」と称される女君の評価論が描かれている。「薄雲」(19)では、源氏が前斎宮女御(秋好中宮)に春秋論を語りかける。「蛍」(25)で、源氏は玉鬘の姫君や紫の上を相手に物語論を語る。「常夏」(26)で、源氏は玉鬘の姫君に和琴論を語る・・・など、様々な文化論・価値観論などが各所に点描されている。紫式部は意識的に、意図的にこのような論議をストーリーに組み込んでいるように思う。『源氏物語』を単にお話の次元にとどめていないところが興味深い。現代との価値観の異同を考える材料にもなる。

7.物語が絵空事だとしても、そこに描き出されたことに読者が感情移入していける要素、或いは描かれている状況が現実の日常生活あるいは読者が納得できる想像の範囲とリンクすることがなければ読者にとってリアル感は生まれない。読者を惹きつけることはない。逆に言えば、『源氏物語』が現在まで読み継がれてきたのは、読者にとって、その物語の中にリアル感を感じるからだろう。
 この物語は、登場人物の様々な思いに焦点を当ててそこをリアルに描き出している。そのリアリティをますために、5項で列挙した要素が巧みに織り込まれているのだろう。そこに読者を惹きつける要因があるのではないだろうか。

8.通読してみて初めて、かつて諸講座を聴講していた時には話材にもならず気にもしなかった事項が、いろいろ疑問として出てくる。例えば、
 1)光源氏を含め主人公が「泣く」という場面がかなりの頻度で出てくる。
  当時の貴族は「泣く」という行為に対し、どのような価値観を持っていたのだろう。 2)葵の上、紫の上、秋好中宮、明石の中宮、秋好中宮、女三の宮、玉鬘の姫君、大君
  というような主人に相当する女性が顔を人に見せないという当時の価値観はわかる。
  その周りにはその主人に仕える数多の女房たちがいる。外の人々と接触するはず。
  女房たちは外部の人(男女)に対して仕事上直接顔を見せる必要はないのか。
 3)貴族の生活は夜型で描かれている。明かりが油や蝋燭としたら、その消費量は?
  どの程度の明るさの下で、夜間の生活を送っていたのか。
 4)貴族は当時の社会階層、階級の人間を「人」と認識していたのか。

9.『源氏物語』の原文と対比しつつ通読した訳ではないので、あくまで印象だが、瀬戸内源氏は、かなり原文に対し厳密な訳を貫こうとしているような印象を受けた。丁寧な訳なので内容は理解しやすいのだが、少し訳に硬さを感じさらさらと読み進められるという感じにはならなかった。
 各巻末には「源氏のしおり」と題して、源氏物語の各帖について、著者自身が梗概を記し、その帖の読み所を探って論じている。その文章と比較しての感想である。この「源氏のしおり」の文章の方が相対的に活き活きした感じで読みやすいのだ。瀬戸内節という感じすら受ける。訳における原文を意識した文体とこの「源氏のしおり」の文体が違うから硬さと感じるのかもしれない。もう一つは、「源氏のしおり」は著者がその帖に対する自身の所見を述べられる点が大きく影響しているかもしれない。

10.この全十巻には、各巻末にその巻に対応する形で、「源氏物語の系図」がまとめてある。それと併せて、最後に「語句解釈」の参照ページがまとめてある。この資料は高木和子さんが作成されていると明記されている。本資料は読者にとって手軽な参照資料として便利である。
  原文は、その時代の知識が前提になり、登場人物は官職名で表記されている。当然そのままの官職名で訳される。時間の経過とともに昇進があり官職名が変化していく。その変化に対応する形で、読者は同一人物として識別して読み継いで行く必要がある。また、基礎的な知識がない部分は語句解釈で意味を確かめないと、上滑りするだけになることもあり得る。そのため手軽に参照できる資料が付いているのは事典代わりとして有益だ。

 一応第一目標として全帖を現代語訳で通読できた。uさんのブログで、各帖の記事を読み進めるのが、良い刺激になった。
 通読したことで全体のイメージを押さえることができた。たとえば、光源氏が明石から帰還し、宮廷の政界に返り咲いた後、昇進をしていく中で、勢力図を塗り替えていき、己の掌握下に置いたというのも、通読して理解できた経緯である。通読して光源氏自身の多面性もよりわかるようになってきた。
 これを新たなスタートラインにしていきたい。今後は帖単位読みに重点が移るだろうが、諸講座の受講資料の再読や源氏物語関連書、平安時代の研究書との併せ読みで、少しずつ『源氏物語』の深読みをしていたいと思う。
 一方、『源氏物語』には様々な現代語訳が成されている。こちらにも関心が湧き始めてきた。さて、どうしようか・・・・。
 
 ご一読ありがとうございます。