ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

〝石州街道を行く〟②瓦屋跡③松田屋ホテル④龍泉寺へ

2019年09月19日 | 俳句

 今朝は、半年に一回の医大への定期検診で出掛けました。もちろん朝食抜きですから朝の風はなんとも…いや、まだ冷たくはありませんよ。昨日の暑さがまだ身に残っているようで、却って気持の良い風でした。車内の温度を見ると23度でした。

 8時30分、もう医大は人でごった返しています。血液検査と腹部エコー。検査終了かと思えば、ちょっと待って下さいと…、何事かしらと待っていると、違う検査員さんが来てもう一度。聞くと、新しいものがではなく、前回にあったものがないと…心配ないでしょうからと言われて終りました。次に内科の受診。順番が来て先生に聞くと、〝心配いらんいね~。前回が血管かなにかが映ったのかも知れんし…〟と。とにかく目に見えないところのものですから、あってもなくっても困るんですね。でも、経過を見るということは大事なこと。囊胞が急に大きくなったという弟の話を先生にすると、やはりそれは気を付けないと癌化する可能性が高くなるので…ということでした。

 私は血液検査も異常なしで、また半年後の検診でお会いしましょうと先生…昼前に帰宅してやっと食事。昨日の疲れがどっと出たような。しっかり食べてちょっと昼寝をし、明日の句会の準備をしました。

 では、昨日の〝石州街道を行く〟の続きです。

 ②瓦屋跡……松陰門下生・山田顕義の妻がこの湯田温泉の〝瓦屋〟という旅館の娘でしたので、幕末から明治にかけて高杉晋作、木戸孝允、井上馨、伊藤博文ら、多くの志士たちが密議を重ねた旅館です。今は碑だけしか残っていません。

 ③西郷・木戸・大久保会見所(松田屋ホテル内)……ここは事前に見学をお願いしていましたので、快く見せていただきました。この松田屋の庭園は、江戸中期に作庭され、現在の形となったのが大正7年頃。明治の元勲山縣有朋公の力添えで、平安神宮「神苑」や「無鄰庵」の作庭で知られる小川治兵衛(七代目)チームにより新たに生れ代わったといわれているそうです。それは歴史を感じる立派な流水回遊式庭園でした。この庭園の内に維新名三傑〝西郷・木戸・大久保〟の会見した〝南洲亭〟が当時のまま残されています。また、司馬遼太郎著『街道をゆく長州路』に登場する樹齢180年の赤松や三条実実(さんじょうさねとみ)ほか七卿落の遺跡なども。このホテルは、多くの志士たちが宿に集い、夜ごと密議を繰り広げ湯に浸かり疲れを癒したといわれ、その歴史を証明する文化財の数々が館内の「維新資料室」にも残されています。高杉晋作が玄関横にあった楓の幹に所感を刻み込んだ「憂国の楓」も展示されていました。あっ写真を撮り忘れました。

 池には立派な鯉がたくさん泳いでいましたが、その中に金魚のような長い尾鰭をひらひらさせているのがいて、みんなも初めて見たとビックリです。三条実美の遺墨碑は、〈時しあらばよにあひおひのひめ小松 君にひかるることもありなむ〉で、当時の悶々とした情や再起の願いをよく表現した和歌。伊藤博文の額は〈履信居仁〉で、〝信(まこと)を履(おこな)い仁(じん)に居(きょ)す〟と読み、意味は〝信を日々繰返しおこない、礼にもとづき自分に厳しく他人には優しく、思いやりの気持でおりなさい〟です。これは、伊藤博文公より、旅館業の心得として松田屋がいただいたものだそうです。写真が相変わらず下手でボケていますが、お許しを!庭園の萩の花の色が濃くて綺麗でした。

 ④龍泉寺……文久3年(1863)8月18日、京都御所で起こった政変により、京都を追われた7人の公家は長州藩へと身を投じましたが、ここはそのうちの二人、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)、四条隆謌(しじょうたかうた)が起居した場所で、別名〝湯田前町御殿〟とよばれました。寺の裏には七卿が弓術を学んでいた射場があったと伝えられています。が、今は寺も建て替えられて殆ど何も残っていませんでしたので、前を素通りしただけでした。写真は前の下見に行ったとき撮ったものです。

 

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