ちわきの俳句の部屋

メカ音痴おばさんの一念発起のブログです。
人生の後半を俳句にどっぷりと浸かって、…今がある。

〝石州街道を行く〟⑤井上馨遭難の地⑥長寿寺⑦山口御茶屋跡

2019年09月20日 | 俳句

 今日の朝はまだ雨は降っていませんでしたが、10時過ぎ急に暗くなって…〝雨が降りそうね~〟というと、外から戻ってきた主人が〝もう降り出しとるよ〟と。それからは一日中雨でした。

 午後からは俳句教室、兼題は〝秋刀魚〟(さんま)でしたが…〝石州街道を行く〟の最終篇がまだ終っていないし、句会のことはまた次に書くとして、それでは吟行記の仕上げといきましょうか。

 この日は本当に快晴でおまけに暑い一日でした。朝は雲一つなかったのが、急に何ともいえない雲が広がっていって、だんだん鱗雲?というような感じになりました。

 ⑤井上馨遭難の地……元治元年(1864)9月25日、中河原の山口政事堂で開かれた御前会議で、井上馨は、幕府に謝罪しようとする保守派に対し、武力を備えて幕府に対抗する方針を主張。その後、湯田の自宅への帰路、袖解橋で保守派の壮士数名によって襲撃され、重傷を負いましたが、医師・所郁太郎の治療によって、一命をとりとめました。

  

 ⑥長寿寺……慶応元年(1865)1月10日、高杉晋作の功山寺決起、大田・絵堂の戦いに呼応した大庄屋・吉富簡一らが、井上馨を総督に担ぎ、鴻城軍を結成した場所です。本堂の柱には、隊士らが切り付けたと伝えられる刀疵が残されています。以前に来て聞いていたので分かりましたが、知らなければ古いお寺ですので何とも思わなかったでしょう。よかったです。その時住職さんに明治維新後の初めての山口県令(今の県知事)の「中野悟一」の墓のことも教えて貰いました。この人の話もいろいろあるようですが…興味のある方は調べてみて下さい。前に来た時は〝榠樝〟(かりん)に気が付きましたが、今回はなんと銀杏(ぎんなん)が風が吹く度にバラバラ落ち、下には円形に落ちていてあの独特な匂いをまき散らしていました。ああ、臭かった!でも拾って帰りたい気も…

 

 ⑦山口御茶屋跡……文久3年(1863)4月16日、前年より攘夷実行に備え、藩庁の移転準備を進めていた藩主・毛利敬親は、湯田温泉への日帰りの湯治という名目で萩を発ち、中河原の御茶屋に入り、そこに政事堂を置きました。同年7月には藩庁移転を公表。現在の県庁の地に山口御屋形が完成するまで、ここは藩政の中心地となりました。

 そこで捜していくと、パンフに載っている家はありましたが、〝これじゃ余りにも貧相よね~〟と思って聞いてみると、やっぱり違うと。じゃあパンフに載せなきゃいいのにとも思いましたが…その跡の碑しかないと。その碑も分かりませんでしたが、ただ橋の名に〝おちゃやはし〟と付いていて、その名残がありました。また、大きな楠木が…これは確かにその当時を知っている木よねと、みんなで眺めました。

 最後は御茶屋跡を捜していたとき、見つけたおまけの〝周防明倫館兵学寮跡〟です。周りにある楓の木がもう薄く紅葉していました。この御茶屋橋が架かっているのが、あの螢で有名な〝一ノ坂川〟なので、辺りのマンホールの蓋もこのようなデザインでしたよ。以上で吟行記はオシマイ! 明日も句会ですので…ではまた。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする