急に昨夜から今朝にかけて寒くなり、最低気温も17度まで下がっていました。こんなにも違うんですね。薄い夏布団ではホント寒いぐらい。実は23日に彼岸法要で広島へ行き、教室を変更して貰っていましたので、今日がその替わりの句会でした。
兼題は〝葛(くず)の花〟、秋の季語です。この題が出た先月、主人が葛は知っているが花を見たことがないというので、花を捜して見て帰りました。もう殆ど花も終りに近くて、先の方に小さいのが残っていました。写真はその時のものです。
ところで、〝葛の花〟といえばすぐに釈迢空の短歌〈葛の花踏みしだかれて色あたらし この山道を行きし人あり〉を思います。大昔にこの歌が教科書に載っていて、〝どんな花だろう?〟と思って捜して歩いたことがあったからです。山にはよく行っていましたので、もちろん〝葛〟は知っていましたが、この短歌を知るまでは〝花〟には全く気が付かなかったのです。
主人もそうだったらしいんですが、この〝葛〟という植物は、凄まじい繁殖力で放置された空き地などがあると、アッという間に占領してしまいますし、どこでも見かけますので、誰でも気が付くでしょう。しかし、花となると葉に隠れて見えにくいので気が付かない人が多いのです。
葛の葉の吹きしづまりて葛の花 正岡子規
これは「葛の葉」も秋の季語ですから、季重ねの句なんです。〈葛の葉の吹きしづまれば静なり〉という高浜虚子の句があってビックリ!一瞬これは〝パクリ〟? でもどちらも歳時記に載っているんですから違うんですね。子規は〝葛の花〟、虚子のは〝葛〟の項目でしたので、今まで気が付きませんでした。しかし、作者の感動の中心は違います。子規は風の収まった瞬間に葛の〝花〟を見つけたんです。いやもしかしたらあのほのかな匂いを感じて花の存在に気が付いたのかも知れませんね。虚子になると同じ状況でも〝静なり〟と…これはやはり私は子規の方に軍配を上げたいです。確かに葛の葉は大きくてたくましいし、強風などに吹かれると、葉裏の白が見えることから、「葛の葉の」は「裏見」の転じた「恨み」にかかる序詞として和歌に詠まれてきたんですから。このことから推察すると、〝人の恨みも時が過ぎれば、この葛の葉のように静かになるのだ〟という意味合いを兼ねて詠んだのでしょうか。でも何だか理屈っぽくて、まあ昔から〝嵐の前の静けさ〟とはことわざにもありますが、〝嵐の後の静けさ〟などというものはごくごく普通ではありませんか…と虚子大先生に言ってみたい! アハッハッ…
句会では〈廃線の主のごと葛の咲きみだれ〉と〈饒舌な人の足元葛の花〉が高点句でした。どちらも葛の特性を生かしたいい句ですが、でも今一つかな。前句は言い過ぎです。〝廃線〟に〝咲きみだれ〟、それを〝主のごと〟と比喩を使っているところ。後句は説明足らず。〝足元〟が十分言い得ていないから、散った花なのか足元に咲いているのかが分からないし、〝饒舌な〟は口語で、文語なら〝饒舌なる〟というべき。そこで、〈廃線の主となりをり葛の花〉と〈饒舌なる人や散りたる葛の花〉に直しました。原句の「主」は、〝しゅ〟、添削は〝ぬし〟と読みます。後句は作者が、〝おしゃべりな人はあの散っている葛の花の美しさなど目に入らなくて…〟ということが詠みたくてと…。