落葉松亭日記

ニュース・評論スクラップ、凡夫の日々雑感、山歩記など

夏場所始まる

2006年05月07日 | 日常・身辺
 今日は朝から本格的な雨で、部屋にこもったままの一日だった。

 大相撲「夏場所」が始まった。「夏・・」と聞いただけで、なんとなく若返る気分になる。
 初日から大入り満員で盛り上がっていたようだ。後半でいい取り組みが2つあった。
 稀勢の里ー琴欧州 19歳の若武者が完璧な相撲で琴欧州を破り、今場所が楽しみ。とり組み後のインタビューも気合いが入っていた。
 栃東ー旭天鵬 懐の深い旭天鵬を落ち着いて破った。危なげがなく、内に静かに横綱昇進への闘志を燃やしている感じ。

 新大関白鵬は、実力者若の里を退けた。昇進後最初のとり組みは緊張するとのことだが落ち着きがあり、大物ぶりをみせた。

鈴蘭台のこと

2006年05月07日 | 散歩・山歩き

神戸電鉄鈴蘭台駅 画面上が北、三田・有馬方面(2006/05/05 撮影)

 明治時代は八部郡山田村であった。終戦後の昭和の大合併で神戸市に編入されたという(昭和22年)。(神戸市文書館より)

 鈴蘭台の歴史について詳しいサイトがあり、それによると・・・
もともと鈴蘭台は、神戸電鉄(神有電鉄)の草創期に、経営安定のための乗客増加策の一環として、「関西の軽井沢」のキャッチフレーズで昭和3年から分譲が開始された住宅地の開拓にその端を発している。
 ・・・
 昭和5年には、小部駅前に商店や住宅23軒が並ぶようになったが、その頃になって小部駅の名称変更の話が持ち上がった。公募により健康の花言葉を持ち、避暑地「関西の軽井沢」のイメージに合う「スズラン」の名前を取って鈴蘭台駅に変更された。戦後、各地の鉄道沿線に次々と開発された「○○台」の草分けとも言うべきものかも知れない。その後、昭和10年頃には旅館や店も増え、昭和13年に三木線が開通する頃にはダンスホールやビアホールの繁盛する避暑歓楽街となった。

 戦前避暑地として発展した鈴蘭台は、神戸電鉄(昭和22年に神有電鉄と三木電気鉄道が合併して神有三木電鉄となり更に昭和24年に現在の神戸電鉄に改名)の延伸とともに戦後阪神地域のベッドタウンとしての発展をとげる。昭和36年、神戸市が住宅公団の委託を受けて「鈴蘭台ニュータウン」を開発、昭和43年に、それまで湊川始発だった神戸電鉄が新開地に乗り入れ、阪急・阪神と接続、昭和44年から47年にかけて駅周辺の街並みが鈴蘭台南・西・北・東町に変わり、北五葉・南五葉、君影町、星和台が誕生、昭和45年には北鈴蘭台駅、西鈴蘭台駅が開業した。鈴蘭台と北鈴蘭台の中間にある小部小学校は児童数が昭和40年に1000名、昭和45年に2000名を突破し、その後小部小学校から分離する形で北五葉小、南五葉小、小部東小、君影小、鈴蘭台小などが次々に誕生した。

 昭和48年に北区が兵庫区から分離独立し、鈴蘭台に区役所が置かれ、北区の行政の中心地となった。その後、道路網も整備され、長田箕谷線が昭和49年(1974)にひよどり台で西神戸有料道路に接続、平成2年(1990)に阪神高速北神戸線の藍那ICが開業し、現在では中国道、山陽道、瀬戸大橋方面へのアクセスも非常に良くなるとともに、住宅地も更に広がっている。・・・


 昭和40年前後家業(食品関係)に従事していた頃、鈴蘭台に父と配達に来たことがある。その頃は有馬街道は未舗装だったように思う。平野から小型トラックで登ってきたのだが、エライ山奥だなぁと思った。

 早いものでここに来て20年以上経った。冬はめっぽう寒く、夏は神戸市街より3~5度低い。
 鈴蘭台に当初住んでいたところは昭和45年(1970年)ごろ建てられた公団で昭和59年(1984年)に入居した。当時は京阪神で一番家賃が安かった。長男が3歳ぐらいになり、小さなアパートでは狭くなり、薄給の身でヤムを得なかった。その代わり通勤時間が大幅に伸びたがそれは体力で補い、おかげで乗り物酔いは解消し足も丈夫になった。勤め人になって通勤交通費は会社持ちだったので大いに助かった。

 住めば都だが、難点は神鉄の電車賃が高いことである。三宮まで往復1000円以上かかり、電車に乗ることは少ないものの、勤め人を止めた今では結構負担である。