S-Fマガジンの日本SF評論賞で最終選考に残った瀬名秀明論、高槻真樹『ノンフィクションとしてのSF』は評者にはぼろくそに言われていたが、個人的に考えていたことが触発されてしまったので書いてみる。
まず起点となる『パラサイト・イブ』に対するSFファンの反発だが、これは選考委員の方に認識が足りない。
これは論者にとって自明のことだから当たり前のように記載しているのだろう。
嘘だと思うなら、大森掲示板や瀬名自身のSFセミナー記事を読んでみればよい。
荒巻氏が指摘している『BRAIN VALLEY』でSF大賞を取ったという事実も、『パラサイト・イブ』に対する反応を論じている際には的外れだ。
もっとも、瀬名秀明が2007年までSFファンに受け入れられなかったということは無いのだが。
高千穂氏はガンダムはSFではない論争当時と同様に『パラサイト・イブ』はSFではないというスタンスを表明しているが、そんなもの議論を避けるための防衛機制にしか見えない。
SFにしようとしたもの以外をSFと認めないのであれば、日本SF第二期の黄金時代の多くの作品がSFではない(笑)
拡大SF主義者が批判されるのはわかるが、SF原理主義者でもない高千穂氏がこういったスタンスを取り続けるのは、個人的感想では不毛な議論を避けるための逃げのスタンスにしか見えない。
さて、瀬名秀明はもともとSF読者でありながら、SFファンに攻撃されるという経験を通じて、SFというよりは、SFファンに興味を持ち、SFセミナーやその他のファン活動に積極的にコミットするようになった。
そして、このSFファンとの対話から、作家としてもSFファンに受け入れられる作品が書けるようになったのではないかと思われる。
それがフィクションとノンフィクションの融合だったかといわれると、違うような気がするのだが、科学的であることとSF的であることの相違をうまく体得した(などというと上から目線っぽいので違うんだが、適当な単語が見つからない)
とはいえるのではないだろうか。
いや、本人じゃないから、そうだとは断定できないんだけどね。
一方で、瀬名秀明と作風が似ていながら、まったく違う道を進んだ作家がいる。鈴木光司だ。
彼の『らせん』、『ループ』はSFネタを使ったホラーなのだが、『パラサイト・イブ』以上にSFファンの反発をかっても不思議はない作品である。しかし、それらは『パラサイト・イブ』のように論争にはならなかった。
それはなぜかといえば、二つの理由がある。
シリーズ物の第1作が、かの『リング』であり、あれをSFと呼ぶ人はいない。拡大SF主義者でも、あれをSFだと(あの時点で)考えていた人はいないだろう。したがって、続編の『らせん』もSFとして読む人が少なかった。
さらに、鈴木光司、およびそのファンとSFファンとの重なりが少なく、SFファン側からの反発は彼らに届かず、ただの無理解による嘲笑としか受け取られなかったということがある。
その結果、鈴木光司はいまだに『エッジ』で非対称性の破れをトンチンカンな解釈でホラー小説化したりなんかしている。
サイエンス・ホラーとSFの切り分けは難しい。おそらく、区別なんぞ付けられるわけもなく、個人的な嗜好に依存するだけのものなのかもしれない。
しかし、ホラー小説大賞を受賞した『パラサイト・イブ』の終盤と、SF新人賞を受賞した黒葉雅人の『宇宙細胞』の中盤を比べれば、世界構築の方法論としての差異がはっきり見えてくるような気もする。この辺をちゃんと言語化できれば、俺もSF評論賞に参戦できるかもよ。かもよ?
まず起点となる『パラサイト・イブ』に対するSFファンの反発だが、これは選考委員の方に認識が足りない。
これは論者にとって自明のことだから当たり前のように記載しているのだろう。
嘘だと思うなら、大森掲示板や瀬名自身のSFセミナー記事を読んでみればよい。
荒巻氏が指摘している『BRAIN VALLEY』でSF大賞を取ったという事実も、『パラサイト・イブ』に対する反応を論じている際には的外れだ。
もっとも、瀬名秀明が2007年までSFファンに受け入れられなかったということは無いのだが。
高千穂氏はガンダムはSFではない論争当時と同様に『パラサイト・イブ』はSFではないというスタンスを表明しているが、そんなもの議論を避けるための防衛機制にしか見えない。
SFにしようとしたもの以外をSFと認めないのであれば、日本SF第二期の黄金時代の多くの作品がSFではない(笑)
拡大SF主義者が批判されるのはわかるが、SF原理主義者でもない高千穂氏がこういったスタンスを取り続けるのは、個人的感想では不毛な議論を避けるための逃げのスタンスにしか見えない。
さて、瀬名秀明はもともとSF読者でありながら、SFファンに攻撃されるという経験を通じて、SFというよりは、SFファンに興味を持ち、SFセミナーやその他のファン活動に積極的にコミットするようになった。
そして、このSFファンとの対話から、作家としてもSFファンに受け入れられる作品が書けるようになったのではないかと思われる。
それがフィクションとノンフィクションの融合だったかといわれると、違うような気がするのだが、科学的であることとSF的であることの相違をうまく体得した(などというと上から目線っぽいので違うんだが、適当な単語が見つからない)
とはいえるのではないだろうか。
いや、本人じゃないから、そうだとは断定できないんだけどね。
一方で、瀬名秀明と作風が似ていながら、まったく違う道を進んだ作家がいる。鈴木光司だ。
彼の『らせん』、『ループ』はSFネタを使ったホラーなのだが、『パラサイト・イブ』以上にSFファンの反発をかっても不思議はない作品である。しかし、それらは『パラサイト・イブ』のように論争にはならなかった。
それはなぜかといえば、二つの理由がある。
シリーズ物の第1作が、かの『リング』であり、あれをSFと呼ぶ人はいない。拡大SF主義者でも、あれをSFだと(あの時点で)考えていた人はいないだろう。したがって、続編の『らせん』もSFとして読む人が少なかった。
さらに、鈴木光司、およびそのファンとSFファンとの重なりが少なく、SFファン側からの反発は彼らに届かず、ただの無理解による嘲笑としか受け取られなかったということがある。
その結果、鈴木光司はいまだに『エッジ』で非対称性の破れをトンチンカンな解釈でホラー小説化したりなんかしている。
サイエンス・ホラーとSFの切り分けは難しい。おそらく、区別なんぞ付けられるわけもなく、個人的な嗜好に依存するだけのものなのかもしれない。
しかし、ホラー小説大賞を受賞した『パラサイト・イブ』の終盤と、SF新人賞を受賞した黒葉雅人の『宇宙細胞』の中盤を比べれば、世界構築の方法論としての差異がはっきり見えてくるような気もする。この辺をちゃんと言語化できれば、俺もSF評論賞に参戦できるかもよ。かもよ?