アオサギの捕食をご覧ください。
競争原理は、排除の理論と裏腹の関係にある。決して協調性や、相互啓発など生まれることはない。
そもそも競争原理は序列をつけるためにあるので、優秀な人材を輩出すると同時に劣等生をも排出する。目に見える教師の教育成果は上級学校への入学者数を競うことで評価され、生産現場と同様に成果主義に変容する。しかし、その矛先が就職先選択に及ぶことはなかった。
教育の本質は異なる人格、学力、経験を持つ未成熟の人間に対し、足りなかった物を付加すると同時に、本人が持つ潜在化されている可能性を引き出し、教え、育むことにあると言われてきた。決して序列をつけ、上級学校選抜を容易にすることが目的ではないはずで、多様化した職業人を育成する方向は生まれてこなかったことは誠に遺憾である。
個人の思いこみではあるが、残念ながら我が国が構築してきた戦後の学校教育制度の本質は、戦時教育である挙国一致から大きく変革してきたわけではない。これからどの方向を目指すのか、近年、今までふれてこなかった、むしろ闇の中に葬られていた、落ちこぼれといわれた若者を教育の失策だけの理由にはしたくないが、ドロップアウトとレッテルを貼る前に何もできず、何もして来なかった責任は誰が負うのか、疑問はつきない。教育の本質は、たとえ割合から言えば少人数であったとしても、失敗は許されないものとの認識が基本であり、思いが至らなかった事実は消すことができない汚点として残る。
毎年、60万人にも及ぶニートや175万人のフリーターを産んでいる(平成23年、計算の基数は、15歳以上35歳未満の20歳を対象範囲としている。厚生労働省資料から抜粋)。各年代合計人口約2,671万人であるので、少なく見積もっても10%は適切とはいえない環境に置かれている。「引きこもり」世帯が26万世帯あるので、この割合は更に高くなる。結果的にいえることは、縦割り行政の弊害かもしれないが、修学は心太方式で、ドロップアウトを再生できる方策を持っていなかったともいえる。更に、教育は社会人になる前段階までに、社会での自立した生き方を教えてこなかったのである。(次回へ続きます)