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近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

学校教育の側面(7回シリーズその6)

2013年01月25日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 学校教育の集団方式が必ずしも悪いわけではない。むしろ低学年での情操教育、社会性の附与や相互啓発には集団方式が持つ良い面が多い。相手を思いやる気持ちを芽生えさせると同時に、一方では競争原理で相手をけ落とすことになる矛盾する環境を良としているのか、良としていれば子供に混乱させることにはならないのか、また、記憶力が悪いと言って、挫折し、判断力を著しく阻害し、考える力をつみ取っている状況が掌握できてないのか不思議でならない。主に記憶力の評価、点数制の相対評価と競争原理による序列化が結果的に知識偏重になっているのが問題なのである。

 全国的な絶対評価が取り入れられない理由もよく分からない。これも疑問の一つである。
 理解ができていない部分の習得は個人的な努力に依存するため、その環境を持たない者は、理解無しにあきらめることになる。従って、フォローが十分できていないと考えざるを得ない。少子化によって、小中学校の廃校や統合化が言われ、30人学級も登場している。

 学級の生徒数が少なくなる傾向は、今後、増えるようで、教師の負担が減少し、歓迎したいところであるが、手薄となっている部分に人材を投入してほしい。個別教育へ近づけるには、集団教育とは違った教育方法に換えていかなければならない。つまり、個人の持っている潜在能力の探求にかける密度が高くならなければ、個別教育計画もできないであろう。ILO方式や類似システムが参考になると思った次第である。

 更に言えば、系統立てた教え方は、学者を造るのでなければ必要ない部分が多い。実務を通じてそれに必要な知識を教えれば十分だと思われる。この意味は基礎学力偏重を指摘しているのではなく、実験・実習を通じて原理へ導く、実践を通じてそのシステムを学ぶといった実態と知識習得との遊離を最小限にし、関連性を主に、教え、導く教育方法を指している。競争主義・記憶力主義・知識偏重主義を改めることから始めることであろう。どこに投入するかは別にして、社会を経験した定年退職者を活用することも早急に考えて良い。(次回へ続きます)