普段は数羽が居てもある程度の距離を保っています。
南部杜氏(2回シリーズその1)
東北は米がよいのか、水がよいのか、おいしい酒が飲める。酒米と呼ばれる米は普通食する米とは異なり、有名な山田錦に代表される酒造専門の米を使う。岩手に赴任していたときの宿は大慈寺町の隣街にあるアパート住まいであった。大慈寺町には銘酒あさ開きの酒造メーカーがあった。大慈寺には北上川の伏流水がわき出る泉があり、そこからの清水を使って酒造りを行っていた。寒い時季に入ると麹の匂いが漂ってくる。麹の匂いを嗅いでも酔っぱらうことはないが、何故か懐かしい香りを嗅いで生活していた。岩手にも多くの酒造会社があり、あさ開き、南部美人、岩手川、鬼剣舞、菊の司等の銘酒も多い。
花巻市の石鳥谷町には石鳥谷歴史民俗資料館があり敷地の中には南部杜氏伝承館がある。
赴任して暫くしてから、同僚から酒の品評会があるので行ってみないかと誘われた。嫌いな方ではなかったので直ぐに行くと答え、会場へ連れて行って貰った。場所は花巻市の石鳥谷である。盛岡から高速道路で約30分であるが、旧道を走った。道すがら同僚から南部杜氏の話を聞いた。
東北地方の殆どの酒造会社には、南部杜氏の流れを汲む職人集団が活躍しているとのことで、フルーティな赤麹はその名残だそうである。杜氏集団の出身地は丹波篠山、越後、岩手だそうで、石鳥谷は南部杜氏の居住地であった。南部藩においては江戸時代初期から上方の杜氏が呼ばれ、酒造業が盛んになったそうである。
江戸時代後期には上方の酒造方法を学んだ農民が冬場の出稼ぎに各地へ出かけ、同族に酒造方法を伝授するようになり、杜氏集団が形作られた。酒造りは麹という微生物を相手にするため、温度や湿度管理が必要な専門性を要求される。温度計や湿度計がない時代には、経験が物をいう世界で、特に酒作りの規模が大きくなると多くの杜氏が必要になったため、後継者育成なども積極的に行われたが、限定され、職人同士の連携や人間関係の良し悪しが直接酒造に影響するようであった。また、秘伝といわれる部分が多く、その流出には相当気を遣ったようで、親から子へとその伝承は村落内の身内だけに限られ、地域も限定されていたそうである。(次回へ続きます)
東北は米がよいのか、水がよいのか、おいしい酒が飲める。酒米と呼ばれる米は普通食する米とは異なり、有名な山田錦に代表される酒造専門の米を使う。岩手に赴任していたときの宿は大慈寺町の隣街にあるアパート住まいであった。大慈寺町には銘酒あさ開きの酒造メーカーがあった。大慈寺には北上川の伏流水がわき出る泉があり、そこからの清水を使って酒造りを行っていた。寒い時季に入ると麹の匂いが漂ってくる。麹の匂いを嗅いでも酔っぱらうことはないが、何故か懐かしい香りを嗅いで生活していた。岩手にも多くの酒造会社があり、あさ開き、南部美人、岩手川、鬼剣舞、菊の司等の銘酒も多い。
花巻市の石鳥谷町には石鳥谷歴史民俗資料館があり敷地の中には南部杜氏伝承館がある。
赴任して暫くしてから、同僚から酒の品評会があるので行ってみないかと誘われた。嫌いな方ではなかったので直ぐに行くと答え、会場へ連れて行って貰った。場所は花巻市の石鳥谷である。盛岡から高速道路で約30分であるが、旧道を走った。道すがら同僚から南部杜氏の話を聞いた。
東北地方の殆どの酒造会社には、南部杜氏の流れを汲む職人集団が活躍しているとのことで、フルーティな赤麹はその名残だそうである。杜氏集団の出身地は丹波篠山、越後、岩手だそうで、石鳥谷は南部杜氏の居住地であった。南部藩においては江戸時代初期から上方の杜氏が呼ばれ、酒造業が盛んになったそうである。
江戸時代後期には上方の酒造方法を学んだ農民が冬場の出稼ぎに各地へ出かけ、同族に酒造方法を伝授するようになり、杜氏集団が形作られた。酒造りは麹という微生物を相手にするため、温度や湿度管理が必要な専門性を要求される。温度計や湿度計がない時代には、経験が物をいう世界で、特に酒作りの規模が大きくなると多くの杜氏が必要になったため、後継者育成なども積極的に行われたが、限定され、職人同士の連携や人間関係の良し悪しが直接酒造に影響するようであった。また、秘伝といわれる部分が多く、その流出には相当気を遣ったようで、親から子へとその伝承は村落内の身内だけに限られ、地域も限定されていたそうである。(次回へ続きます)