帰省先の庭から撮影したジョウビタキです。
渋々脱退届は受理されたが、支部長からいわれたことは、支部の脱退はない、脱退届は組合本部の委員長へ提出するが、組合に入っていないと将来不利になるぞと脅された。聞く必要もない言い分ではあったが、三役でもないのに大騒ぎする必要はないとそのときは思っていた。しかし、管理職になって、転勤するたびにこの脱退が影響するとは思いもよらなかった。
組合脱退後、職員間の無言闘争が自分までも波及した。その理由は、支部の組織率を下げ、執行部の意見と違う意思表示が脱退に繋がったのであるから、全国でも珍しいことであった。組合組織に風穴を開けられた執行部は、それに対する嫌がらせでもあったようである。このことがあって大手を振って校長室へ出入りが可能となり、校長とも話す機会が増えた。指導員を大分で3年続け、事業内援助要員が2年間であったので5年いたことになる。校長も自分の職場での状況と今後の方向を考えてくれて、東京で教材作成の仕事をしてはどうかと勧められた。せっかくの大分の赴任で、女房の実家も近く、この地に骨を埋める覚悟であったが、出戻りとなってしまった。
校長の方は自分が本部職業訓練部教材課へ転勤した後、1年後に定年退職となった。退職後、地元の建設技能開発センターの所長となり、数年前に他界している。同僚の話では退職まで筆舌しがたい不幸な無言闘争が続いたとのことであった。しかし、施設の運営方針等について対外的な意見を聴く、最高決定機関としての業務運営推進協議会の会長として、長くこの訓練施設に携わった功績は高く評価され、いまでも、多くの方の高い評判を聞く。
今思えば、人生の数年間をこのような職場での天下りという人事問題に翻弄され、係わった人間関係に、常に、距離を置いて付き合わざるを得なかったことの虚しさを今でも感じている。(このシリーズ最終回です)