いまのじきはつがいできているのですね。良くさえずっていました。多摩川でも見かけました。
大分に赴任した時のアパートは大分市の駅から歩いて20分の新川という場所にある森アパートであった。10世帯が居住していて、あまり広くはないが、2DKの比較的新しい物件で、新婚家庭では十分であったが、風呂は付いてなく、近所の銭湯を使っていた。
大分港に近い場所で、海からの潮風も吹き、2階建てで、住環境としては申し分なかった。1軒先の住人はSさんといい、夫婦と二人の息子がいる、主人は自分より3歳ぐらい年上で、玖珠の出身、仕事は日鉱佐賀関精錬所の関連企業である蛇の目肥料という工場に勤務していた。銅の製錬工程でスラグとして出る残滓を粉砕すると苦土石灰という土壌をアルカリ性に変える肥料が出来る。そこで在庫管理を行っていた。
夜勤が多く、殆ど顔を会わすことがなかったが、年齢も近く休日はよく遊びに行った。
親しくなるうちに仕事のことや趣味など等も話すようになり、盆栽に興味があったようで、自分も、委託訓練で林興産へ造園科の委託をしていた関係もあり、ミヤマキリシマの植栽や管理の仕方なども教わった。玖珠や九重では、自然保護区があり、盗掘を防止するための監視員が森林パトロールとして活動しているといっていた。
年数が経ったミヤマキリシマの鉢植えは一鉢で車一台が買えるほど価値があるそうで、盗掘が後を絶たないそうである。Sさんの友達にパトロールをしている人がいて、どこに価値がある株があるのを知っているので、一緒に堀に行くかと誘われたが、その話を聞いて驚くやら、呆れるやらで世の中のカラクリを見たようであった。冗談で言ったのか現場を見たわけではないので判らないままである。
帰宅しても地図を片手に県内の地名を知る必要があったため、県内のことを良く聞きにいった。何かのきっかけで、資格の話が出て、職業訓練指導員の免許に興味を持っていたようである。自分も兼ねてから取得したかった甲種危険物取扱主任者資格を取得する勉強をするようになり、大分で試験を受け、一回で合格した。側で自分の奮闘ぶりを見ていたSさんのチャレンジ精神をかき立てたようで、指導員資格の勉強を始めたようである。このことが後日、彼の転職に繋がり、自分が大分から東京へ転勤した後、天下り闘争でブログに紹介した元校長が退職後に就任した建設機械技能開発センターの指導員として採用され、病気で鬼籍に入る前まで勤務したことは、縁という不思議な人の繋がりの深奥を知った。