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近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

大分雑感 馬上金山(2回シリーズその1)

2013年12月04日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 先日城下カレイを食べさせる的山荘のことをブログに記述したが、的山荘は馬上金山で財をなした成清博愛の愛妾のために建てたと書いたところである。馬上金山のことが引っかかり、その後手持ちの資料で調べたところ、多くのことが判った。そもそも、元速見郡山香に金山などがあったとは思いもよらぬことであったが、場所をまず確定したかった。
現在は、杵築市山賀町大字内河野、大字下、大字立石にまたがる地域のようである。
馬上八幡神社や、馬上橋の名前が残ってはいるが、はっきりした地名はよく分からなかった。ヤフーの地図ではここらあたりに金山という地名なのか判らないが載っていた。
 大分県が1968年3月30日発行の「大分県の百年」という刊行物から引用することとした。

 タイトル 1億円以上の利益を上げた馬上金山
 佐賀関精錬所と共に、大正時代に繁栄した大分県の鉱山成金に、馬上(ばじょう)金山の開発を進めた成清博愛、信愛父子がいる。成清博愛は明治40年11月貞享年間以来の歴史を持つ速見郡石垣村の馬上金山第一鉱区を入手した。その後も第二鉱区、第三鉱区を買収し、大正四年四月には競争相手の鶴成金山株式会社をも統合した。そして大正五年から八年かけて、十鉱区350万坪(1,155万平方メートル)の金山を開削し、富鉱脈を掘り当てて、純益1億4,000万円を上げたたこともあった。

 馬上金山の成清博愛はその後、鹿児島の高鍋鉱山や大分鉄工所をも経営し、成清工業株式会社を創立し、また、成清銀行なども設立して、大分県経済界のホープとして飛躍的発展を遂げた。
 しかし、馬上金山の設備は旧式で、富鉱脈に出会わぬ限りコスト高で生産性は上がらないのであるから、第一次世界大戦後の恐慌の結果、毎月5万円の赤字を出すことになった。

 特に、石炭を燃料にした精錬作業では、経営に不利であるため、電化を計画したが、資金が続かず、結局大正十二年、これまで金鉱石を売っていた日立鉱山に経営を移すことになったのである。馬上金山を含む成清鉱業株式会社は、このようにして第一次世界大戦後の恐慌によって、日立鉱業に統合せられることになったが、大戦中の好況によりゴールドラッシュを現出した。しかし好況にもかかわらず生産設備の拡張を進めることは困難で、残業や夜業によって需要の拡大に応じて生産に従事したわけで、結局は破綻の種をまくことになるのである。以下省略。(次回へ続きます)