また、佐伯市宇目町は、嘗ては岡藩で、宇目町重岡には大きなキリシタン墓があり、ルイサの墓である。大分銘菓である「ざびえる」の姉妹品に「ルイサ」と命名した菓子がある。
縦180センチメートル、横86センチメートル。高さ27センチメートルである。上面には日輪十字章が刻まれていて、洗礼名「ルイサ」が刻印されている。岡藩にはキリシタンの志賀親次が領主であり、1588年頃の領内にはおよそ8千人のキリシタンがいたとされている。
最近観光スポットとして有名となった湯布院にも県下最大のキリシタン墓地が湯布院町並柳にある。全盛時代のキリシタン信者は湯布院人口が2800人、信者はこの3割であったようである。信者が多い理由は、湯布院の豪族で湯山城の城主奴留湯氏が大友宗麟の一族であり、キリシタンに入信していたことによる。
大分テレビ放送(OBS)のアーカイブスの中に、「隠れキリシタン 演出された露見」執筆者豊田寛三氏の詳しい文献があるので、参照にされたい。
概要であったが時代背景と共に大分の隠れキリシタンについて触れた。我が国の戦国時代から江戸幕府の初期に当たる時代に、大分(豊後)にもキリスト教という宗教が巻き起こした様々な爪痕を残している。現代の時代背景とは異なるため、軽率なことはいえないが、行政が判断したキリシタン弾圧という政策は鎖国にまで発展することになった。失ったことも多いが、徳川幕府を300年間継続した初期法規制の原動力の一つでもあった。
隠れキリシタンが実在したという事実は、士農工商により虐げられた民衆が受け入れた、宗教が持つ精神性と海外貿易を通じて富と軍備を進める領主の思惑、それを操る先兵としての宣教師という侵略の意図を持った諸外国の勢力とが合致した、我が国に対する脅威でもあったことも理解できた。大分の名君と称される大友宗麟についてはいろいろな善悪説があるが、大分駅前に大友宗麟の像が建立されており、像が語る世界がはなはだ深いものがあることに想いを馳せることが出来た。(このシリーズ最終回です)