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近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

大分雑感 続隠れキリシタン(3回シリーズその2)

2013年12月20日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 作成した宗門人別帳は武士・農民、町人であるが、神主までも含まれ、必ず仏教何宗かの寺の檀徒となり、毎年、寺から宗門人別帳に記入して貰って、領主の役所に届けることになっていた。人別帳は一種の住民登録であり、戸籍簿の役目を果たすことになる。更に住民自らが、住民同士を監視し、密告する行為が生まれるが(キリシタンを捜し出すだけではなく、年貢の未申告を防ぐことや犯罪の犯人発見する相互検察制度であった)、家族や親類縁者までもが信頼できなくなる恐ろしい社会でもある。

 島原はキリシタン大名有馬暗信の所領で、天草島は小西行長の旧領である。共にカトリック教徒が多かった。幕府は松倉重政を派遣し、禁圧に当たらせた。重政の信徒弾圧は苛烈を極め、徴税も厳しく、領民は離反し、ついに1637年秋、浪人の参加と指導を得て、16歳の天草四郎時貞を主将とし、一揆を起こした。島原の乱の始まりである。平定には翌年2月までかかった。 島原の乱は室町末期以来の農民一揆の伝統がキリスト教による宗教一揆の形を取って爆発したものである。それ以後、幕府のキリスト教に対する恐怖はますます強くなり、第二回の鎖国令が1639年に発せられる。

 上述した時代背景の中で豊後におけるキリシタン弾圧も苛烈を極めることになる。将に熊本から鶴崎に至る豊後街道の各地には、多くのキリシタン墓地が点在している。竹田市直入町長湯地方は岡藩であり、昔、朽網(くあみ)と呼ばれ、キリシタン史上の先進地であった。1550年から1580年の30年間で信者数は約300名に達し、府内、平戸、博多、鹿児島、山口、京都、堺と共に日本八大布教地に数えられた。この地にある墓碑はキリスト教の禁止令が出る前のものであるが、T字形の墓標には「INRI」の文字が刻まれている。この意味はユダヤ人の王、ナザレのイエスを意味し、その頭文字を示す礼拝物でもあった。(次回へ続きます)