引き続きタヒバリです。
あまり詳しくは知らずにいたが、豊後日出藩で福沢諭吉の父親を門下生に持ち、ブログで既述した三浦梅園の思想にも影響を受け、江戸末期の儒学者で、自分ももう少し研究したい人物の一人である。以下は大分放送のアーカイブスから引用した一節である。
帆足万里
1778-1852 江戸末期に 日出(ひじ)藩 において活躍した儒学者。字は 鵬卿(ほうけい)、俗称は里吉。日出藩は豊臣秀吉夫人の北政所の実家から 木下 延俊(のぶとし) が初代領主として入府して以来明治4年(1871)まで16代に渡って続いた2万5千石の小藩で、領主の居城は 暘谷(ようこく)城 。小さいながらも学問を尊ぶ気風にあふれた藩で、万里や彼の門弟らを初めとして数々の文人を輩出している。万里はこの避遠の地に在って、 儒学 のみならず 国学 、 自然科学 、 医学 の研究や詩人としての活動に才能を発揮した注目に値する学者であると言える。また財政難顕著な日出 藩政改革 の担い手として、家老職を勤めた政治家でもあった。 安岐(あき)二子山下で生涯を過ごした 三浦 梅園(ばいえん) から維新の 黎明(れいめい)期にあって、近代思想の先覚者となった 福沢諭吉 へと継がる豊後の合理主義思想の中興の祖と言えるであろう。主要な著書は『 肄業余稿(いぎょうよこう) 』『 修辞通(しゅうじつう) 』『 入学新論 』『 東潜夫論(とうせんふろん) 』『 窮理通(きゅうりつう) 』など。
以下省略するが興味がある方は次のアドレスで、全文をご覧いただきたい。
http://www.e-obs.com/top/heo/heodata/n662.htm
日出は大分から国道10号線を北上し、別府を過ぎて国東半島に入る入り口に存在する。
帆足万里の墓や資料館があり、墓は豊臣秀吉の血筋を引く日出城(旧名暘谷城)藩主木下俊敦の菩提寺である松屋寺にある。帆足万里の功績を評価する者や向学心を期待する者などが墓石を欠いて持ち去るようである。墓を傷つけることは良いことではないが、帆足万里に少しでも近づきたいという思いの表れであろうか。同様な話は群馬の渡世人国定忠治の墓も同様で、それほどまでして立派な渡世人を希望する者が多いとは思わないが、礎石が崩れるほど角が丸まっているということである。松屋寺には帆足万里の墓以外に、大ソテツがあり、雪舟が造ったといわれる庭園もある。