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近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

大分雑感 続隠れキリシタン(3回シリーズその1)

2013年12月19日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 徳川幕府の世となってもキリシタン弾圧は止まるところを知らずの勢いで、続くことになる。 貿易にも制限が入り、シナ船以外の諸外国船の貿易を長崎・平戸両港に限り、1624年にはイスパニア人の貿易を禁じた。しかし、禁じても宣教師の潜入が絶えなかったので(危険を冒してまで入国する理由は、宣教師自らが貿易の仲介役になり、キリシタン大名と通じることで多くの利益を得ていたことによると考えられる。大名がこうした取引によって藩の財政や軍備を強固にする反面、幕府の体制を危うくする原因ともなる)、徳川家光の時代に、老中の奉書を持つ奉書船以外の船で邦人が海外へ渡ることと海外移住者の帰国を禁じ、1635年には全面的に日本船が海外へ出ることを禁じた。1637年から38年に島原の乱が起こり、これを契機として、1639年に島原のポルトガル人をことごとく追放し、また、来港を禁止した。

 ここに鎖国が誕生し、この後は、港は長崎港1港に限られ、キリスト教の布教に関係しないオランダ人と中国の清の商人だけが貿易を許された。これと同時期には宗門改役を全国に置き、宗門人別帳を作り、宣教師、信者の探索を計り、国民の信仰を取り締まり、以て鎖国体制を完成させた。因みにオランダ人には、長崎の出島の地をあてがわれ、そこの商館長に報告書を作成させ、毎年幕府に提出させた。

 踏み絵については、江戸時代の初期に幕府がキリスト教信者を調べるためにキリスト等の肖像画を踏ませたことをいっているが、木版に彫ったものや像をはめ込んだものを使うこともあった。踏み絵は心理作戦で、キリスト教に入信しているとシンボルとなっている肖像を踏むという行為は行ってはならない行為であり、信者でなくても、躊躇するのが普通である。

 為政者側が多数見守る中で、強要することによって、顔の表情や身体のこわばりを見て判断されたのであろう。嘘発見器がなかった時代には効果的な方法と思われるが、中にはえん罪となった者も多数いたといわれている。(次回へ続きます)