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大分雑感 隠れキリシタン(3回シリーズその3)

2013年12月18日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 大阪の陣に豊臣方に加担した浪人中にも信徒が多く、ついには幕府側近の家臣の中にも信徒がいて、幕府の関心事となっていた。かくして、1612年、京都、大阪、江戸、駿府、長崎、島原などの直轄地に命令して、伝道の禁止、教会の破壊、宣教師の追放に着手し、翌年更に全国に亘って、強化し、信徒をマカオやルソンに追放し、踏み絵、磔(はりつけ)、火あぶりまでも行って、信徒の絶滅を期した。鎖国への理由がキリスト教としているが実際にはもっと他の理由もある。

 長崎県平戸には外国人居留地が設けられ、唯一貿易が出来る場所を出島という形で残す。
 既に京都にいたキリスト教宣教師7人と日本人信徒19人合わせて26人を京都から長崎に追いやり、磔刑に処した。この26人は1862年ローマで聖者に列せられる。

 豊臣秀吉が朝鮮を侵略しようとして起こした戦争に文禄・慶長の役(1592年・1957年)がある。先陣で功績のあった武将の加藤清正がいるが、関ヶ原の戦いでも功労があった恩賞として肥後の太守となるとキリシタンが多い天草を返還し、その代わりとして豊後2万石を求めた。久住、野津原、鶴崎、佐賀関が肥後領となり、熊本から鶴崎への道は、参勤交代の街道となる。古くは長崎にいた宣教師やキリスト教信徒は密かにこの道を使って大分の大友宗麟との行き来を行っていたとされている。

 街道の途中に岡藩があるが、現在は竹田市となっていて、この地には隠れキリシタンが礼拝を行うキリシタン洞窟礼拝所とそれに隣接してブルドリノ、ナバロを含む5名の宣教師を匿ったとするキリシタン神父の居住跡がある。また、キリシタンの遺物といわれる1612年製の「サンチャゴの鐘」が、歴代の岡藩主を祀る中川神社に奉納されている。

 フランシスコ・ザビエルと大分県速見郡日出町との縁は深いようで、実際に見学はしていないが、日出町南畑という場所には大分トラピスト修道院展示室があり、後世になって、イエズス会ローマ支部からザビエルの右腕の皮膚の小片が寄贈されている。

 また、日出町豊岡長野という場所は、嘗て日出藩成敗場跡地があり、日出藩11代藩主木下俊懋が菩提寺である松屋寺の住職に頼んで、処刑罪人の冥福を祈るため、供養塔を建立した。この塔の下に、法華経69,384文字を1字1個の小石に書いて埋めてあるといわれている。成敗場がこのような形で残されているのは全国でも珍しい。

 処刑された人の中には、当時家老職にあった加賀山半左衛門とその子ジャコモもいた。
 加賀山半左衛門は、キリシタンであり再三改宗を迫られたが、受け入れずに家老職を追放され死刑宣告を受けた。執行の当日、息子ジャコモは、父とともに殉教したいと泣き叫んだ。父は息子の決心が堅いことを知り、共にこの成敗所で殉教したと伝えられている。

 この他にも多くの場所に隠れキリシタンの墓所があるが、別稿で紹介することとしたい。(このシリーズ最終回です)