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近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

大分雑感 隠れキリシタン(3回シリーズその2)

2013年12月17日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 ザビエルは朝廷から日本全土への布教の許可を得るため京都に上がったが、将軍に会えず、山口に戻り、ここで大内義隆の厚遇で布教を行った。山口県にいたザビエルは、大分の港にポルトガルの船が来たということを聞きつけて大分(日出・ひじ)に出向く。大分では、府内城守護大名であった大友宗麟の庇護の下で布教活動を行った。1551年11月に日出を出港し翌年2月インドへ帰った。ザビエルは更に中国に伝道しようとして1552年マラッカを出港したが途中で病気となり、香港近くで没する。

 キリスト教の伝道は徐々に勢力を伸ばしたが、豊臣秀吉が天下を織田信長から継承し、当初は部下であり、キリスト教徒であった小西行長や高山右近などを大名にしていた。キリスト教徒と我が国の地域社会に根付いた神道や仏教門徒との諍いが起こり、キリスト教の教義と思想・道徳・風習とが合致しなかったこと、特に人道主義的な精神が封建道徳を目指す封建支配者の考えと一致しなかったことがあげられる。

 最も大きな理由には、長崎のように外国人の支配する土地が出来ることを恐れたからであろう。従って、キリスト教徒に対する制限が行われた(1587年キリシタン禁教令)。
 伝道を差し止め、宣教師追放の命令を出し、各地の教会や学校を取り壊し、ヤソ会の領地であった長崎を直轄地に改め、信者を厳しく処分するようになった。この傾向は弾圧が強くなり、鎖国にまで発展する。

 しかし、キリスト教を禁止しても通商貿易を奨励したので、あまり禁教の効果を上げることが出来なかった。徳川家康も秀吉の方針を継いだため、宗教と貿易の分離を心がけたものの、貿易に対しては非常に熱心で、貿易の盛況化につれて、ヤソ会始め、各派の宣教師が内外船に乗って密かに来朝する者が多く、九州・中国各地に諸大名の庇護の下に教会も建てられた。京阪より遠く北陸、津軽、出羽、仙台、江戸方面にも信者が出来、1605年には、信者総数70万人にもなった。(次回へ続きます)