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近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

大分雑感 隠れキリシタン(3回シリーズその1)

2013年12月16日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 時代背景を紐解くと、いわゆる新大陸発見時代に東洋航路を発見したポルトガル人の勢力がマラッカに入ったのは1509年で、その後ポルトガル人はインドのゴアや中国のマカオを根拠地としてインド及び中国との貿易を盛んに行ったが、やがて16世紀の半ば頃1隻のポルトガル船が九州種子島に流れ着いて鉄砲を伝えた。このころマルコ・ポーロの東方見聞録がヨーロッパに伝えられ、ヨーロッパ人の探検欲をそそることになる。その後ポルトガル船は盛んに来港し、鹿児島、坊津、阿久根、等の薩摩(鹿児島県)の諸港や、日出、府内(大分県)、平戸、横瀬(長崎県)等の諸港に出入りした。我が国との貿易は主に鉄砲や火薬の原料である硝石であった。支払いには金や銀が用いられた。

 フランシスコ・ザビエルはスペインとフランスの国境ナバールで生誕し、パリの大学に在学中に同士とモンマルトルの教会でヤソ(耶蘇)会を立ち上げた。ローマカトリックのイエズス会に所属するフランシスコ・ザビエルは、新航路の開拓によって発見された新しい世界への伝道を志し、東洋に来航、インドを経てマラッカで布教に従事しているときに、一日本人と出会い(名前をアンジローといい、日本国内で罪を犯した身をポルトガル船に投じてマラッカに逃れていた)、日本への伝道を決意し、1549年鹿児島に来航し、キリスト教の宣教師として、島津藩の許しを得て、薩摩半島に上陸する。

 当時、我が国では戦国時代末期であり、川中島の戦い、桶狭間の戦い等、群雄割拠する時代であった。戦況は織田信長の優勢で、全国を統一する頃に当たる。当初、織田信長は反仏教的な態度を取っており、キリスト教に好意を寄せ、ザビエルと同行した宣教師ルイス・フロイスなどを厚遇したほか、京都に南蛮寺(教会)、安土にセミナリョ(学校)を設けることを許し、ヨーロッパの文明を採り入れて、国内統一を促進しようとした。

 そもそも南蛮と呼ばれていた欧州が日本に目を付けたのは、植民地にすることにあった。
 植民地化の先兵としての役割をもって布教を理由に来日し、状況を見ながら宣教師の数を増やし、大名等に取り入り、権力の頂点を目指し、貿易(実際は鉄砲や硝石だけではなく中国の陶器などを売って我が国が産出する銀の確保をねらっていたようである)を進め、キリスト教徒を増やす手はずであった。(次回へ続きます)