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近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

恩師の思い出

2016年02月14日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 数日前に寒中見舞い状が届いた。そういえば年賀状は毎年元旦にいただいていたが、今年は届いていなかった。訃報についてはどなたからも知らせはなかった。昨年の5月に九十歳で永眠されたようである。学部は異なっていたが、大学校時代から存じ上げていて、本部の教材課に勤務していた時には同じ島におられ、親しくしていただいた。仕事のことも多くを学び、飄々とした性格は、敵を作らず、腰が低かった思い出がある。博識であり、時計の修理にかけてはプロ顔負けで、自分とは20歳も違っていたとは、知らずにお付き合いをしていただいた。

 

 退職後はゴルフに興じていて、健康のために続けておられた。東北大学の冶金学部を卒業され、大学校の教授を続けておられた。当時大学校には、鋳造と鍛造の専攻コースがあり、先生の母校在学時から鋳造ににに関する特許を取得されていて、その数は計り知れない。連続鋳造に関する著作物も多いと聞いていた。教材課での仕事は、鋳造と鍛造のコースが廃止となったための人事上の措置であったようである。

 

 大学校の卒業生の話によると、評価が二分していた。従来から我が国の教育訓練は、指導者側が懇切丁寧に教えることが優先され、どちらかといえば、押しつけ教育が中心であった。しかし、先生は、放任というか、学生の自主性を重んじる方で、質問には答えてくれたが、従来の指導方法には懐疑的であった。その意味において、職人気質があり、先進的な教育指導を行っていたのかもしれない。

 

 自分自身は、教材課の中でのリベラル派としてみていたが、組織からはみ出た点については許せなかった先輩等もいたようである。職業訓練の指導法や、教材は、当時、見本や手本となるべき固定的な概念が定着していたわけではなく、流動的な、寧ろ試行錯誤的な分野であった。したがって、集団指導が主流であることは現在に至るまで変わっていない。

 とはいえ、大学校は文部省が手掛けていなかった部分での独自性を打ち出す機会が多くあり、異質な教授陣の中で培われた世界感は、現代でも十分通じる要素を多く含んでいた。

 

 亡くなられた先生を含め、当時、技術革新が急速に起こった時代でもあり、教材作成業務を通じて、仕事の進め方や、独自の概念形成には多くを学ばせてもらい、自分も、定年を無事に迎えることができた。すでに退職して10年近くなるが、当時のことが沸々とよみがえってくる。ご冥福を祈りたい。