エサがないと来ないのかと思っていたところ、エサは地上にいくらでもあるようです。しかし止まる高木は決まっているようです。
今後、気に留めているいくつかの項目を自分の視点で掘り下げてみようと考えている。重複する部分もあると思うが、切り口を変えることでお示ししたいと思っているが、個々のテーマについては、勝手な区分であり、適切な事例を示すことが出来なくても、お許し願いたい。最初に取り上げたいのは、本音と建前である。
ご賢明である読者にとっては、わが国独自ではないと思われるが、都合がよい一種の対応であり、こととして、場合として十分活用できる手段であろう。あまり露骨すぎると、信用を失うことになり、さりげなく使い分けることも世渡りとしては、大切な手段でもあろう。特に目上で、上司ともなれば、ご高説を否定できないし、さりとて、全面的に承服できない状況では、使い分ける微妙なタイミングを失うことなく、結果オーライであれば選択できる手段でもある。
本音で通じ合う世界であれば、それこそ胸襟を開き、本音で語り合えるのであるが、浮世はそう単純ではない。物事には表裏があり、場合によっては三次元、四次元の判断もありうる。少なくとも本音で語り合える間柄でないと言葉に詰まる。建前は、本筋であり、これは否定できない論理である場合が多い。本来物事の表裏はいかにして生じるのであろうか、建前は、法律なり、慣例で、あまたの人が遵守すべきルールともいえるし、ご政道である。そこには、柔軟性を有りとした判断する余地があるのであるが、そこは置いて、柔軟性の中で、本音に近くとはいえ、限りなく異なる判断を有することができるとしている立場といえる。
本音と建前が融合することはほとんどないが、結果をどう誘導するかの判断は、自分にあるのではなく、あくまでもご政道の範疇であることを認識しておくべきといえそうである。しかし、時間の経過とともに、建前が崩れることも多々ある。数の理論がそれを覆す場合があることであり、建前の重要性は、衆目を気にしないわけにはいかないからで、建前はもろくもあり、崩れることもありうるのである。
たとえて言うなら、目に見えない存在である霊魂は、目に見えないから否定すれば事足りるかといえばそうではない、宗教の世界を見ればすぐに納得されるであろう。目に見えなくても、物質が重さを持たなくてもあるとの結論がまかり通る世界なのである。本音と建前が自分には食い違うと思っているが。日常に起こることでさえ、気が合わない隣人の挨拶などは本音と建前を使い分けているのも事実であろう。状況や、立場を考えてのことであり、どう判断するかの選択は自分であり、真実は闇の世界といえそうである。