多摩川で初めてカメラに収めることができた多分チュウシャクシギです。くちばしが長く、びっくりしました。
阪神大震災、東日本大震災等の自然災害を発端に、震災ボランティアが活躍した。現在もNPOの設立の契機となり、国や地方自治体が行う各種施策と並行して、ニッチにして大切な被災者に寄り添い、支援の輪が広がっている。今回、取り上げるのはボランティアについてである。
我が国にも古くから喜捨(きしゃ)なる言葉が存在している。その意味は進んで寺に寄付したり、貧しい人に施し物をしたりすることで、施与(せよ)ともいっている。施与は聞きなれない言葉であるが、困窮者や僧に何かを施し与えることで、現在でもお布施といっている。
根底には宗教観があるようで、仏教の教えの中に、芥川龍之介が書いた蜘蛛の糸がある。
お釈迦様が池のほとりで蓮の花をご覧になったときに、ふと、地獄に落ちたカンダタという悪人のことを思い出し、地獄に通じる世界へ蜘蛛の糸に霊力をかけて救済するという物語である。現世で悪人であっても一度蜘蛛の命を助けたことが発端となっている。
宗教心といえば、イスラム教やキリスト教の貧者を救う行為が天国へ導く人の道という考えが蔓延していて、イスラム教徒が日常行う五行の中にもザカートとして存在している。
コーランのザカートは自発的な喜捨を意味し、その内容は、通貨、家畜、果実、穀物、商品等を奉納するもので、貧しい巡礼者、托鉢、借金を返済できないもの、乞食、貧しい旅行者、改宗者の援助のためにイスラム協会や政府が仲立ちするものである。一種の税金に等しく、救貧税ともいわれている。キリスト教においても、教会へ礼拝するたびに寄付・寄進を行っているようである。どちらもボランティアであり、積極的な関与が求められているのである。
企業等の社会的な地域社会への貢献が行われているが、これは地域とともにあることで、個々人の活動とは異なるが、あまり知られていない。ボランティアが、無償の活動であり、欧米では自己犠牲(サクリファイス)に近い意味を包含している。赤十字の赤い羽根で共同募金が定着しているが、町内会からも役員が各家庭を回り、募金を集めている。
しかし、一部活動費をもらいながらのボランティアといわれていて、本来的な意味とはかけ離れたこともあるようで、集まった募金の使途についても、公表されない等、不信感もあり、平素からの教育や、無償の活動経験を積むことを子供のうちから教える必要があるようだ。競争社会がもたらす格差等の弊害はそう簡単に排除できないのであるが。