しきたり、迷信、家訓、社是等の指針がある。これらの目的は、集団生活の戒めごとや、経営等の根本方針を示した言葉で、べからず集であったり、犯すことへの天罰や、期待を現すものとして組織のバイブルともなっている。迷信については度が過ぎると逆に生活の秩序を破壊することになりかねないが、不健全な民間信仰といえるであろう。その時点での裏付けとなる科学的な根拠や知識があれば、間違いだと気づき、正しいとは思わなくなるのであるが、たたりなどの関連性がないことに結び付けるなどの弊害がある。
家訓については、その家の信条として代々子供に伝える処世上の戒めであることが多い。誰が言い出したのかは不明なことが多く、時代背景の違いで、的を射ていない場合もあるが、家系を大事にするとの立場は自己との関係性を含め、価値が生まれることもある。
小中学校にも似たような指針があったが、最近はあまり耳にしなくなった。なかには生活の指針となるものもあり、健全な身体は健全な精神が宿るとか、吾足らずを知るなどの蹲(つくばい)は意味深長な世界を示している。中国にも四字熟語があり、温故知新、画竜点睛を欠くなど、現代でも使われているが、理にかなったものが多い。
四字熟語が時代を超え伝えられるのは、簡潔にして、真実を追い続けた結果であり、最近では情けは人のためならずのように本来の意味とは異なる使い方もあるようで、これも常識自体の変化というべきか。
言葉の変化や符丁、隠語、英語の短縮した和製英語、特定な集団だけで通じる用語など、遊びの世界と思われることもあり、一種の同族意識が裏に横たわっているのかもしれない。
日本に限るわけではないが、同じ言語を話すことができる集団では、安心するせいか、親しみを感じる。方言もそうで、良い面もあるが、脱皮しずらいという仲間意識を助長する場合もある。
社会は一人では成り立たず、家族から、地域社会から、組織に所属すれば、その中でのルールが存在する。その意味では天涯孤独などはなく、人との人間関係で生きている。礼節を重んじ、他人の迷惑にならないための対人を意識した生き方が求められている。対人関係が意外に複雑で、御し難い経験をすることになるが、日本人の意識の中に刻まれている多くの事柄は、後天的であり、経験の蓄積である。積極的に人と関わることの重要さは改めて感じるものである。