先にいたカワウの顔つきがなんとも言えないね!
懇意にしている中学校の同窓生の母親が数日前に帰らぬ人となった。直接お会いしたことはないが、友人のメールや話から聞き及んでいた。数か月前に101歳の誕生祝を行ったメールをいただいた。年齢からすると老衰のようであるが、急に寝たきりになったようで、死期を察してか、介護施設からご自宅に連れて帰り、ご姉妹と替わりながら夜は付き添って就寝していて、亡くなったのは、早朝で添い寝を初めて五日目であった。安らかな寝顔は、大往生にふさわしく、親族も最後まで、お世話することができ本望といったところであろう。
誰しも長寿を願うわけであるが、亡くなってしまうと1日でも長生きしてほしいと思うのは同じ思いである。しかし、大きな病気もせず、1世紀以上を生きることは、本人もそうであるが、ご家族にとってもお目出度いことである。
よくいわれる言葉の中で、人は一人で生まれ、一人ででこの世を去るとされるが、これは自己という側面から見た話で、実は、決して一人ではない。両親からすでに遺伝子をもらい、死に至る間は多くの人との出会いや別れを経て、家族や関係者の見守りの中で一生涯を終わる。子供があれば、遺伝子は受け継がれ、死しても多くの方の心の中で生き続ける。つまり、神や仏でない以上、突然この世に一人で出現する人はいない。決して天涯孤独ではありえないのである。
肉体は滅びても魂は生き残るのではなく、精神を魂と置き換えれば、死するという意味は肉体と精神を分離させるべきものではなく、一体であるから、精神も肉体とともに滅びるし、魂だけが生き続けるのではない。亡くなった人の生前の記憶が脳に蓄えられ、その人が生きてる間、記憶として続くと考えた方が良い。つまり、過去の写真や動画と同じで、記憶で蘇れば、亡くなった人との時間を超越して今、出会えることになる。それを思い出といっているのであろう。
母親のかねてからの希望で、お見舞いや葬儀は、親族の範囲を決め、それを生前、実行してきたそうで、葬儀についても母親の遺志を継いで親族だけで行うこととしたようである。葬儀や通夜はセレモニーとはいえ、顔を合わせたことがない方が世間体や儀礼だからといって弔意を示す必要はないのであって、それでは済まされないと思うのは仕方ないが、大切なのは亡くなった方の意思を家族や親族が全うできればそれでよいと思われる。