昨日も北海道で30℃を超える真夏日であった。真夏ではない初夏に25度を越えれば真夏日となるようであるが、梅雨入りもしていない五月の下旬にしては珍しいのであろうか。地球温暖化が影響しているとは思えないが、樹木や草花などは時季外れとはいわないまでも、季節が進んでいるようである。年によって気候の変動はあるし、平均を使うと毎年の変動は消えてしまい、実際は誤差の範囲なのであろう。気温の変動は毎年違うので、さほど信用していない。
冷夏であった年もあり、人間の生活に合わせて気候が変動するのではなく、古くから、季節の変動に我々側の順応が行われてきたといった方が正確なのである。平均気温や、平均した梅雨入りは、毎年同じではない。数十年前の気象観測の結果からの予想がベースになっているため、太古からのデータをもとにしているわけではない。もともと太古の気象変動を正確に測定したデータがない。短い期間でのデータをベースにすれば、対比するにしてもその意味は薄い。
真夏日も尺度をどの基準に合わせるのかによって、実感は変わってくるが、今の時代においても、地球規模の天候予測も、宇宙の営みすら明確でないため、予報という言葉が消えないでいる。その意味においては、ある程度の間違いや、予測の正確性については完璧ではないことを肝に銘じる必要があろう。
人々の生活においては結構シビアな状況もあり、予報で降雨の確率等を信用しても、当たりはずれは当然あるので、目くじらを立てて、憤慨する必要はないと思っている。例えば降水確率は、一定の範囲に降雨する可能性をいうのであるが、30%といえば、地域の3割にあたる部分が降雨し、他の70%については晴れや曇りという意味で、現在いる地域が30%の範囲かどうかまでは明示できないからである。降られる地域からすれば30%といっても降雨は100%であるから、雨に当たることになる。
これでは確率で表示されても雨に降られるか降られないか判断つきにくい。一層のこと天気予報は信じないという方もおられるであろう。%の表示が出れば、どこかで降っていると思うのが自然であり、雨に降られたくなければ、傘を持参すればよい。予報とはこのようなもので、時期や、天空の状態、数日前からの推移等総合的な判断が個々の人々に対して求められるのである。真夏日についても同様である。