ご承知のように、杜甫の詩に「人生七十古来稀なり」から採った語で七十歳の異称として用いられている。古希と書くことがあるが、これは代用字である。年齢が70歳になった人は我が国ではさほど珍しいわけではないが、古く杜甫の時代では稀であったようである。昭和21年生まれ、4月以降12月までに、また昭和22年1月から3月末までに生誕した人が同学年であるので、同学年では留年等をしなければ、古稀を迎えた方とこれから迎える方がいるわけである。
例えば、古稀を記念とする同期会は、同期が全員古稀となる翌年3月末まで待った方が良いことになる。そうはいっても個人的にはそこまでシビアに年齢を数える必要はないと思う。早めに済ませても問題とはならないであろう。なぜなら、学年と年齢は必ずしも一致しないからである。
昭和21年といえば、第二次世界大戦の終戦日が、昭和20年8月15日であるので、戦後誕生したわけで、幼児期は記憶がないので、戦後の状況の記憶は全くない。団塊の世代は22年から数えるようで、戦後のベビーブームの草分け的存在である。戦後復興から現在に至るまで、明治、大正、昭和、平成の時代変化をいろいろな場所で経験して来た。当然、記憶に残る誕生前は、祖父や祖母から聞いた話が主であるが、曾祖父や曾祖母との接触もあった。平成生まれは、孫がいるので、年代とすれば6世代との関係を持つ。
最近は出生率の低下で、世代間の人口比率の逆転が起こっている。年齢の分布を取ると、風船のような形となっていて、頭でっかちの釣り鐘型から裾が狭まった形となっている。理想的な形はなだらかな富士山型が良いのであるが。こればかりは強制できないこととして、現実を受けざるを得ない。ところが、選挙等の国政の意見傾向が、シルバー民主主義などといわれるようになってきていて、高齢者人口が若年者を上回るようになると若年者に取ってみれば政策にバランスを欠き、不利になる可能性の高い状況が起こり得る。特に年金や、介護などが社会の疲弊を起こす危惧があるとして話題となっている
さらには、都市部への人口集中と、地方の過疎化である。地方自治体も合併等で、対応を取っているが、過疎化がもたらす環境の変化は格差社会の原動力となっていて、早急に解決しなければならない問題も浮上している。高齢化も著しく変化してきていて、世代間の考え方も多様化しつつあり、積極的な関与と、世代間の認識のズレをすり合わせる等、今後の我が国の抱える問題解決に努力しなければならないと思っているところである。