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近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

古稀を前にしてその2

2016年07月26日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 人生の経過は流れる水のごとくで、 古稀を迎えるとは、終着地に近くなり、終末の準備段階でもある。時間の経過は留めることができず、逆行するわけにはいかない。自然の流れに身を任せなければならないであろう。どのような人生であったかは、他者との比較でみることにもなるが、どのような人生を歩もうとも、この世に生を受けた偶然と、自分の身に降りかかった多くの出来事の再現は不可能であり、不思議な出来事の連続であった。

 

 そう考えると繰り返しと思われたことは、決して同じではないことが分かる。明日は今日の続きではあるが、今日とは違う世界が広がっている。同じことを行ったとしてもそれは新たな経験であり、昨日とは同じではない。何事も時間の経過とともに変化しているし、その変化に気づかないだけであり、あらゆる変化の中に置かれているのである。

 

 時間の経過とは、太陽の周りを自転しながら1周する活動を1年とし、それを365日で1日を決め、24時間に分けて昼間と夜を区別し、1時間を60分に分け、1分を60秒に分けた。正しくは若干の時間に誤差があるため、閏年で調節しているが、秒に換算すれば、60×60×24×365×70=2207520000秒になる。

 

 誰にでも与えられているこの秒数は70年を生きた証であり、身体が刻んだ時でもある。この間をいかにして生きたかは、人それぞれが異なるが、確かに22億秒とはすごい数字である。年単位で70年といっても日単位では25550日、時間では613200時間である。

 

 時間の経過とは過ぎ去った時間が人間をどう成長させ、どれだけの社会貢献と人への影響を与えたのか、身体が消費したものと生産したものの差が、または善行と悪行の差が、貢献と享受の差等がその人の生きた価値を決めるのである。これらの項目や事象の尺度は決まっているわけではなく、あくまでも概念的なものであるが、古代エジプトの死者の書によれば、生きた価値をアマトの羽根と個人の心臓(魂)とを天秤にかけて判定を行う思想はその後の宗教に影響し、例えば、キリスト教ではゴッド(神)の前で、天国と地獄とを前世の贖罪の軽量で、死者の来世を決める。エジプトの考えがインド仏教に影響したかどうかは不明であるが、仏教においても死後、閻魔大王の前で問われる。これらはやはり天秤が関係しており、大変参考になる。

 

 生きるもののすべてが死を迎える。死することで新たな生を生じさせ、意識のあるなしにかかわらず、そこには継続性を展開するとする世代交代が粛々と行われる。幸いなことに人間世界は、子孫の誕生後を共存できる特例を手に入れている。