鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

古稀を迎えて

2016年07月27日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 虎は死して皮を残し、人は死して名を残すといわれている。しかしながら、物質面からいえば、人体を構成する物質(質量)は、質量保存の法則で、生きているときと死んだ時ではプラスマイナスゼロと大雑把にはいえるであろう。地球にある物質で作られ、生を与えられて活動を停止すれば、その間の体重変化や大きさの違いはあるが、実質的に地上の質量は変わらない。これを仏教界では無というか、空というのである。無は有の反対語であり、有ることは無いこととイコールなのであり、達観はなんとも不可思議な感じがする。

 

 輪廻の思想を信じている現代人は少なくなったと思うが、人間の生へのこだわりは、死んでしまえば二度とこの世には再現不可能であり、人間として生まれた時点で寿命が決まっていて、どのような高度な科学技術や医療技術が発展したとしても、例えば冷凍保存や低温保存を行ったとしても、寿命をコントロールして、2倍の寿命すら得ることは不可能なのである。解っているが、それでも長生きしたいという思いは誰しも持ち合わせているし、できることなら1日でも長生きできればと願うのである。

 

 では、物体は死んだとしても、精神(質量を持たない)や魂はどうかといえば、これは分離できるものではなく、肉体が死すれば精神も死するということで、一体的であると自分は思うが。脳死を人の死であるとしている医学界であるが、脳が死んだとしても、人工的に植物状態で生きることは可能である。では、IPS細胞等の移植による部分的な再生を試みる医学が発展し続けているが、果たして動作や感情をコントロールする脳までも取り換えることが可能なのであろうか、今後の技術進歩等の展開を待つ他はない。倫理的な面もあり、植物人間としての延命についても、尊厳死で問われるように、人間が生きる意味を含め、限界論もある。究極には、クーロン人間を生み育て、壊れた部品を交換するようなことについても倫理上の合意が必要となろう。

 

 特殊装置によって、脳細胞だけが永遠に生き続けられ、個人としての意識を温存できたとしても、それはもはや自我を持つ人間といえるのであろうか?人知では判断できないSF(サイエンスフィクション)の世界であろう。自分としては流れる時に身を任し、自然の中で生きることの大切さを改めて思うが、寿命というとらえ方をベースにし、肉体と精神の健康のバランスを保つような努力は続ける必要はある。

 

 人の足跡は手段や方法によって(石碑や口伝等)永続性を持つが、いずれは忘れ去られる。それでよいと思うが、良きにつけ悪しきにつけ、自分の生きざまを後世の人の生き方に影響力を与えることができれば幸せなことであろうとの思いで過ごしていきたい。