鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

大分雑感 割烹料理

2013年11月23日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 大分の名物料理といえばふぐ料理であろう。ふぐセリ(袋セリ)で有名な南風泊(はやどまり)市場がある下関もふぐ料理は有名であるが、大分でもふぐ料理が食べられる。割烹で供される高額の料理として滅多にありつけないが、意外と大分・別府がふぐの消費地であることは知られていない。既に店は閉じられているが、宴会といえば市内の都町にあった共楽亭と春日亭であった。どちらもふぐ料理が出されたが、ひれ酒を飲み、ふぐ料理に舌鼓を打ったものである。共楽亭は150年続いた老舗割烹であった。このような老舗が姿を消してしまうのは、大変残念なことである。

 一方、春日亭はバリトン歌手で有名であった立川澄人の生まれ育った家と聞いていたが、彼の姉と称する方が、自宅近所の精肉店を開いていた。殆ど話をすることもなかったが、どのような生き様であったのか興味をそそるところである。すでに他界していると思われるが精肉店はもう無い。

 ふぐで思い出したが、S職員に連れて行って貰った都町のバーで「女大学」というおもしろいところがあった。
 ホステスにふぐに似た子がおり、直ぐに膨れていた。この大学には卒業はないと店のママさんが言っていたが、出席が悪いと落第があり、補講のためにまた通うといった愉快な店であった。在職中は結局卒業できず、女大学は卒業がないので、この道を極めることは難しいと一人合点をし、まあ良しとした。数年前に近くに行ってみたが、路地裏の小さな店は既に形もなく、大きなビルが建っていた。

 速見郡日出町(ひじまち)に的山荘(てきざんそう)という城下カレイのコース料理を楽しめる老舗の日本料理店があり、海水と真水が混じる杵築城の下の海で捕れるカレイを使っている。刺身、焼き物、吸い物、唐揚げ、煮物と全ての料理にカレイが使われている。ここで造られた的山という日本酒を飲みながら別府湾が一望できる閑静な場所での食事は格別のものであった。

 店の案内では、高崎山を築山に見立て別府湾に浮かんでいるような借景を楽しみ、日本庭園としていた。元は杵築市の山香にあった馬上金山で財をなした成清博愛が建てた愛妾の別邸であった。的山とは山を当てるという意味があり、博愛の雅号でもあった。最近、玉川高島屋に日本料理店が開店し、的山という店名が付いているのでおそらくこの的山荘と関係があるのであろう。 一度行ってみたいが、年金生活の身故、贅沢が出来るかどうか懐との相談である。

大分雑感 アパートの隣人

2013年11月22日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 大分に赴任した時のアパートは大分市の駅から歩いて20分の新川という場所にある森アパートであった。10世帯が居住していて、あまり広くはないが、2DKの比較的新しい物件で、新婚家庭では十分であったが、風呂は付いてなく、近所の銭湯を使っていた。

 大分港に近い場所で、海からの潮風も吹き、2階建てで、住環境としては申し分なかった。1軒先の住人はSさんといい、夫婦と二人の息子がいる、主人は自分より3歳ぐらい年上で、玖珠の出身、仕事は日鉱佐賀関精錬所の関連企業である蛇の目肥料という工場に勤務していた。銅の製錬工程でスラグとして出る残滓を粉砕すると苦土石灰という土壌をアルカリ性に変える肥料が出来る。そこで在庫管理を行っていた。

 夜勤が多く、殆ど顔を会わすことがなかったが、年齢も近く休日はよく遊びに行った。
 親しくなるうちに仕事のことや趣味など等も話すようになり、盆栽に興味があったようで、自分も、委託訓練で林興産へ造園科の委託をしていた関係もあり、ミヤマキリシマの植栽や管理の仕方なども教わった。玖珠や九重では、自然保護区があり、盗掘を防止するための監視員が森林パトロールとして活動しているといっていた。

 年数が経ったミヤマキリシマの鉢植えは一鉢で車一台が買えるほど価値があるそうで、盗掘が後を絶たないそうである。Sさんの友達にパトロールをしている人がいて、どこに価値がある株があるのを知っているので、一緒に堀に行くかと誘われたが、その話を聞いて驚くやら、呆れるやらで世の中のカラクリを見たようであった。冗談で言ったのか現場を見たわけではないので判らないままである。

 帰宅しても地図を片手に県内の地名を知る必要があったため、県内のことを良く聞きにいった。何かのきっかけで、資格の話が出て、職業訓練指導員の免許に興味を持っていたようである。自分も兼ねてから取得したかった甲種危険物取扱主任者資格を取得する勉強をするようになり、大分で試験を受け、一回で合格した。側で自分の奮闘ぶりを見ていたSさんのチャレンジ精神をかき立てたようで、指導員資格の勉強を始めたようである。このことが後日、彼の転職に繋がり、自分が大分から東京へ転勤した後、天下り闘争でブログに紹介した元校長が退職後に就任した建設機械技能開発センターの指導員として採用され、病気で鬼籍に入る前まで勤務したことは、縁という不思議な人の繋がりの深奥を知った。

大分雑感 天下り闘争(3回シリーズその3)

2013年11月21日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 渋々脱退届は受理されたが、支部長からいわれたことは、支部の脱退はない、脱退届は組合本部の委員長へ提出するが、組合に入っていないと将来不利になるぞと脅された。聞く必要もない言い分ではあったが、三役でもないのに大騒ぎする必要はないとそのときは思っていた。しかし、管理職になって、転勤するたびにこの脱退が影響するとは思いもよらなかった。

 組合脱退後、職員間の無言闘争が自分までも波及した。その理由は、支部の組織率を下げ、執行部の意見と違う意思表示が脱退に繋がったのであるから、全国でも珍しいことであった。組合組織に風穴を開けられた執行部は、それに対する嫌がらせでもあったようである。このことがあって大手を振って校長室へ出入りが可能となり、校長とも話す機会が増えた。指導員を大分で3年続け、事業内援助要員が2年間であったので5年いたことになる。校長も自分の職場での状況と今後の方向を考えてくれて、東京で教材作成の仕事をしてはどうかと勧められた。せっかくの大分の赴任で、女房の実家も近く、この地に骨を埋める覚悟であったが、出戻りとなってしまった。

 校長の方は自分が本部職業訓練部教材課へ転勤した後、1年後に定年退職となった。退職後、地元の建設技能開発センターの所長となり、数年前に他界している。同僚の話では退職まで筆舌しがたい不幸な無言闘争が続いたとのことであった。しかし、施設の運営方針等について対外的な意見を聴く、最高決定機関としての業務運営推進協議会の会長として、長くこの訓練施設に携わった功績は高く評価され、いまでも、多くの方の高い評判を聞く。

 今思えば、人生の数年間をこのような職場での天下りという人事問題に翻弄され、係わった人間関係に、常に、距離を置いて付き合わざるを得なかったことの虚しさを今でも感じている。(このシリーズ最終回です)

大分雑感 天下り闘争(3回シリーズその2)

2013年11月20日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 4月1日に自動車が出入りする校門の扉を閉め、組合員が訓練生の出入りする入り口を固める形で天下り反対闘争が始まった。新任校長が到着すると「帰れ!帰れ!」のシュプレヒコールとなり、暫く様子を見ていた校長は何も言わずに校門へは近づかずに帰っていった。

 この状況が連日繰り返され、ほぼ10日を過ぎる頃、本部の人事課長補佐以下数名が校長を伴い、打開のために視察に来た。このときは反対する怒声が一層エスカレートしたようであったが、特にトラブルはなく、本部の視察員も入門せずに帰っていった。校長不在が続くと契約出納役となっている校長の決裁等が取れなくなる。業務が停滞し、支障が出てきた頃、山口県においても同様な天下り反対運動が繰り広げていた状況があったため、本部で中央労使協議が始まり、官僚の定義が確認され、今回の校長人事は問題ないとの結論を得た。しかし、中央で了解が出来ても、支部では、一度振り上げた拳を引き下げるわけにはいかず、組合構成員や地区の組合に対するメンツがあったと思われるが、新任校長の校長室への出入りは可能となったが、戦術を変え、日常闘争を続けることとなった。

 中央が妥結した天下り闘争は解消すると思われたが、組合では無言闘争に戦術を変え、一切校長と話をしないという闘争である。挨拶もしない、質問されても返事をしないという何とも卑劣極まる闘争である。校長は淡々と業務をこなしていたが、何度となく体調を崩し、偏頭痛の病に苦しめられていた。

 無言闘争が半年も続いた頃であろうか、組合員の中にも、この闘争を止めるよう執行部へ進言していたが、執行部は聞く耳を持たず、何とも重苦しい雰囲気が続いた。自分としても個人的には何とか打開の道を探るよう本部の知り合いに相談したり、関東の勤務経験がある信頼していた職員から話を聞いたりしたが、これがリークし、執行部の知るところとなり、執行部から呼ばれ、本部の犬とさげすまれる結果となった。職場集会で数回に及ぶ糾弾があり、自宅へ戻っても真夜中に無言電話が鳴るようになり、生まれたばかりの子供が泣き止まず、睡眠不足になる始末であった。このままでは生活もままならないと思い、自分なりに出した結論は、無言闘争をするような組合には入っていられない、中央が妥結しているのに支部が闘争を組んでいるのはいわゆる「山猫スト」ではないか、直ぐに脱退しようと考えた。脱退届を書き、支部長へ提出したが慰留を求められ、受け取ってくれなかったが、決心したことでもあり、数日後、重ねて意思表示をした。(次回へ続きます)

大分雑感 天下り闘争(3回シリーズその1)

2013年11月19日 00時00分01秒 | 緑陰随想
大分雑感 天下り闘争(3回シリーズその1)

 組織の構成員の行動が方向性を見誤れば、爆走し続け、予期しない事態へ追い込まれる大変怖い存在でもある。一致団結した結果、組織を壊し、企業活動すら出来なくなり、倒産や解散に追い込まれた例は数えきれない。労使関係が正常にいっていれば、労働争議は起こりえないが、労使関係のバランスが崩れると歯止めがきかなくなり、労使双方に禍根を残し、被害者が生まれる。問題発生の芽はあらゆる所にあり、病気にたとえると大病になる前に治療しないと組織の運命までも左右する結果となる。

 当時、雇用促進事業団は政府関係の特殊法人で準国家公務員という範疇に入る半官半民の組織であった。職員数は3500名で、全国に100校の職業訓練施設を持ち、3000名が職業訓練指導員である。残る500名強が管理職、事務職員等で構成されていた。
労働組合を持ち、管理職と労使協定で決められた非組合員や嘱託を除き、殆どが労働組合に所属していて、組合組織率は98%であった。
 組合に入るには自己意志で入るオープンショップ制を敷いていて、執行部三役以外は辞めるときも自由に辞めることが出来る。前任地でも組合員であり、組合は全国組織で、地方にあるそれぞれの訓練施設には労働組合の支部が置かれていた。転勤しても同じ組合員で継続することが一般的であった。

 大分へ赴任して2年が経過し、訓練科の指導員が定年で辞職したため、空きが生じ、自分は指導員に戻った。翌年、校長が60歳の定年で退職し、新たな校長を迎えることになったが、大分労働基準局のK基準局長が決定していた。校長の人事は本部マターであるため、末席の指導員が知るよしもなかったが、組合の集会で入校阻止をする提案が支部執行部から提案され、全員の了承で可決された。
 阻止の理由は元労働省の官僚で、天下り人事に該当するとのことであった。自分には初めて知ることなので、勿論、氏名も素性も知らず、大分労働基準局には業務上では接点もないため、そんなものかと思っていた。後で知ることになるが、労働省には職業訓練局があり、そこで職業訓練用教材の開発を担当するキャリアで技術専門官であった。人との出会いは思わぬ展開となるもので、この所長との出会いが、自分の職業生活の転機となった。普通、官僚の定義というのは本省の局長以上のポストをいうので、その定義に従えば天下りではないが、組合が過剰に反応したのは、労働基準局長イコール官僚と早合点したためであろうか、今となっては、その真相は闇の中でよく分からない。(次回へ続きます)

大分雑感 赴任(4回シリーズその4)

2013年11月18日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 数日おきに訓練現場へ出向き、状況を見て回ったが、確かに委託先の指導員はベテランの造園士であり、経験も豊富で、指導力もある立派な指導員であった。受講していた訓練生にも話を聞く機会を作り、話を聞いたが、入校前に説明したカリキュラムの内容を殆ど理解しないまま、応募したとのことで、当方としても、何とか第一期生を無事に送り出し、就職にマッチさせようとの思いが先行し、出来るだけ受講生の要望に添うよう調整することとした。しかし、盆栽は年間を通して行うことが重要であり、夏場は時期的に合わない剪定等は学科で行うこととした。

 話してみて判ったことであるが、自己都合で離職する場合と異なり、企業の都合による希望退職者が殆どで、退職手当が加算され、失業後の年金の受給も問題ない方が多く、再就職の希望は一割にも達せず、再三訓練生から出る要望は道楽の域を出ず、これには委託先ばかりではなく、いささか自分も閉口した。緊急雇用対策の一環なので、一般の失業者に比べ優遇されていたが、本来就職に有利な造園工を育成する仕上がり像とは異なる内容を入れざるを得なかった。造園工の必要な訓練から若干逸脱した内容になってしまった苦い思い出がある。

 結局この委託訓練は委託先の委託料金の問題と就職実績が殆ど無いに等しかったため、所内の会議と職安との協議とで廃止することとなり、第二期生をもって中止に追い込まれた。一方の大型自動車運転科の方は順調に修了者を出し、折からの新日鐵大分工場関連企業への再就職は順調であった。

 事務作業の経験がほとんど無かった者が、ちょっとしたボタンの掛け違いが引き起こす人生の展開は、組み込まれた世界では決して無く、偶然としかいえない選択を受けざるを得ないことが起こる。しかし、この経験は後の職業生活に大いに関係し、学んだ多くのことが決して無駄ではなかったと回顧している。この展開のとらえ方は個人によって許容できるかどうかの判断は異なるが、チャレンジしてみないと判らないことも多い。わらしべ長者の話や、禍転じて福となすとの格言もある。人生至る所に青山はあると思えば向かうところ敵なしである。(このシリーズ最終回です)

大分雑感 赴任(4回シリーズその3)

2013年11月17日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 元々事業団が行う職業訓練は、施設内で行う普遍的かつ継続的な養成訓練、離転職者訓練、在職者を対象とした向上訓練だけでなく、経済不況や倒産等による事業所等の閉鎖によってランダム発生する失業者の救済に係る職業訓練(緊急雇用対策等)が業務の一部に含まれていて、機動的に訓練を企画・計画し・実施する役割を持っていた。

 年間計画で行う委託訓練は、自動車運転科や経理事務科などの職域が多かったが、機動性を持った緊急・不定期な訓練科は、地域の事情にマッチするもので、在職中には、別大交通が運営していた別府と大分間の国道を走行していた市電が廃止となり、市電の運転手と車掌が大量に失業したことがあった。高齢者が多く、職安との度重なる協議を経て、大型自動車運転免許を取得するコースの設置、及び造園科を新設した。大型免許の方は従来から委託訓練の実績があった大分と別府の自動車学校に委託し、造園科は地元の造園企業である(株)林興産に初めて委託することとした。

 造園科の方は離職者の強い希望で実現したコースであったが、6ヶ月間の短期コースで、林興産側でも、修了者の受け入れについて、快い返事を貰っていたが、訓練生には大変不評で、その理由は、高齢者が望む盆栽の手入れを殆ど教えて貰えず、訓練現場が真夏の太陽が照りつける屋外の大型樹木の伐採や、根回し、チェーンブロックを使う石組み、広大な敷地の整地作業や植栽が主な実習作業であり、体力的に持たないといった不満であった。
(次回へ続きます)

大分雑感 赴任(4回シリーズその2)

2013年11月16日 00時00分01秒 | 緑陰随想

 本部から愛媛への異動は出来なくなったとの連絡を受け、愛媛に発送を予定していた荷物は暫く放置することになった。丁度3月の初旬に結婚し、実家から君津まで通勤していた。所帯道具は生活に最低限必要なもの以外は転勤もあるとのことで、荷造りのままであり、荷造りに手は掛からない状況であった。行き先が決まらないため、宿舎の手配も出来ず、最終的に異動先が決まったのは3月29日であった。親戚に頼んで宿舎の確保だけはしておき、とりあえず赴任先への連絡と出勤日を決めた。通常は1週間以内に赴任することになっていた。

 前任地では訓練課に所属し、職業訓練指導員をしていたが、今回の異動は大分総合高等職業訓練校の庶務課であった。訓練課は定員が一杯で、欠員もなく、入る余地はなかったため、庶務課に配属され、事業内援助要員ということが告げられた。

 自分の異動で、庶務課での前任者は事務職であり、彼はこの人事の余波を受け、本部への転勤となった。当時、事務職が3月の末に内示があることは不自然ではなかったが、地方では異例だったに違いない。後日引き継ぎで不満の表情を見て取ったが、本部への勤務となれば地方に配属された職員は願ったり、叶ったりで内心は喜んでいたと思える。自分にとっても、異動の時期が3月末となり、赴任が決まるまでは心配であり、また、転勤の準備に汗を流したが、女房の出身県でもあったし、見知らぬ愛媛へ行くことを考えればラッキーな異動だったといえる。

 初出勤では、年配の女性のA係長とI嬢の間の席が準備されていた。業務の指示は訓練課長のO課長であり、事務作業が多いために庶務課へ配置されたことを後になって知った。

 二年間は庶務課の席にいたが、業務をしてみてその配慮がよく分かった。校長のお供で県庁や大分公共職業安定所などへ行く機会が多く、訓練課長とも県内の主要都市にある委託訓練施設への業務調整等で出向いた。外勤続きで、せっかくの席も温まることもなかったが、委託契約の締結や、職安窓口の受講指示状況の把握、入退校に係わる事務処理等細部に亘って担当していたため、業務に係る事務処理の仕方を学ぶことが出来た。(次回へ続きます)