多摩川にいるとよく見かけるチョウです。名前はたぶん、図鑑を見て調べましたが間違っていればごめんなさい。
白米と具とを一緒に炊き込む炊き込みご飯はこの時期多くの家庭で食卓を賑やかにする。栗、松茸、椎茸、新生姜、銀杏、等多くの具材があるが、あぶらあげの千切り、ひじき、等も一緒に使われる。炊き込む場合は出し昆布や、薄口醤油を加える。好みによってであるが水加減を若干少なめにする。
料亭では白米と具を別々に調理して、白米が炊きあがると具を混ぜ込む。別に調理するのは、具の味加減を操作できるので、具の風味や味が引き立つためである。一手間かかるが、好みの味に仕上がる。混ぜご飯と呼んで、炊き込みとは別であるというその道のプロが言うが、さほど気にせずに、おいしくいただければよいと思う。
この方法で、白米が炊けた後、酢に調味料を加えて白米と混ぜ合わせ、すし桶であら熱を取って冷ました具と酢飯を混ぜ合わせば、ちらし寿司が完成する。江戸前の寿司屋ではちらし寿司といえば、にぎり寿司のネタを酢飯の上に飾り付けているので、とまどう方もある。地域によって混ぜご飯も異なっていると思うが、時期に応じた旬の具材を楽しんでみるのも普段と一味違う食卓となる。
餅米を使って具と洗米した餅米を調味料と一緒に軽くフライパンで炒め、あら熱を取ってから、アルミフォイルで包み、蒸し器や圧力鍋で加熱すると「ちまき」となる。炊飯器でも作れる。具材は何でも良いが、中華ちまきであると椎茸、竹の子、豚肉の細切れ、こんにゃく、銀杏、干しエビ等を用いる。餅米単独より白米と半々にした方が口当たりがよい。
これからの時期新米が出回るが、栗と一緒に焚いた栗ご飯は格別である。栗は下処理に時間がかかるが、鬼皮と渋皮を取り除き、水に浸けてアク抜きした後10分ほど下ゆでする。炊飯器に米と水を同量入れ、酒、醤油(薄口がよい)、を適量加え、炊き込む。
余り口に入らないが、松茸ご飯もレシピを紹介すると、白米は前もって水で洗い、ざるに取って30分くらい水を切る。松茸は薄い塩水で軽く洗い、石付きを取って軸の方は半月か輪切りにし、傘の部分は少し軸を付けて縦に切る。最初から松茸を炊飯器に入れると香りが飛ぶため、炊飯器に栗ご飯と同様の調味料を加えて白米を沸騰させる。沸騰したら松茸を加えるのがコツである。
日頃親しくして頂いている方からのメールが届いた。添付ファイルが開かず、メールを別のパソコンへ転送して開くことが出来た。多摩川を中心にほぼ連日、散策を欠かさずに行っている写真の先生でもある。その方の写真展で、ご存じの方も多いと思う。
期間は平成26年11月1日(土)から30日(日)まで、定休日月曜日
場所は二ヶ領せせらぎ館
時間は午前10時から午後4時
URL http://www.seseragikan.com/
なお11月16日(日)13:00~15:00大野先生主催の多摩川野鳥サロンが開催されるので、事前にせせらぎ館の方へ電話されたい。
電話番号 044-900-8386
昨年もサロンの方へ参加した。40名以上の参加者が集い、豊富な野鳥の生態がわかり、大変盛況な集いであったことが思い出される。一年を通じて多摩川で見られる野鳥の数に驚く。先生はデジスコを使用されているが、画像も鮮明で、生き生きとした野鳥のアップ写真は興味が尽きない。昨年は丁度せせらぎ館があるダム下の中洲でコアジサシが200羽以上誕生し、凄いことになっていた。今年も産卵に50羽を下回らない数のコアジサシが飛来したが、数回の大雨で、産卵した場所が総て流されてしまい、残念ではあるが自然の猛威には打つ術がない。
継続的な調査は大変大切な行為であり、先生が作成された画像データは近隣の小学校の教材として利用されていることを知った。多摩川を遊びの場所として何回かは訪れたことがある学童にとって、身近な川に飛来する多くの野鳥を知ることは大変貴重な学習体験をすることが出来る。大野先生の努力のお陰であり、カメラマンの一人として高く評価している。今年も是非写真展を見に行き、サロンにも参加する予定でいる。参考までに大野先生のブログアドレスは次の通りである。
次世代電力計のことで、古くから馴染んでいるアナログ型の積算電力計が携帯無線を使い、デジタル型に取って代わる時代を迎えている。自動検針システムである。直ぐに思い付くことは、検診員の雇用問題であるが、この分野は、電気、ガス、水道などのインフラの末端に位置する検診員が、毎月、各家庭を回って前月分の使用料を目視して決めている。スマートメーターの導入に当たっては当然考慮されると思うが、世の中の趨勢で、現在より合理的で、多くの可能性を持ち合わせた機器の導入は、新たなシステムとなって、今まで続いたシステムを駆逐する。
一方、現在のシステムでは、月に一度の検針では、リアルタイムでの電力消費量を把握することが難しい。配電は過去のデータから消費量を推測しているため、突然の気象状況等の変化による送電量を調整できないでいた。そのため、常に実際の使用料より多めに送電するため、無駄な電力が必要となる。それが改善することは、将に「見える化」で、電力のロスを抑えることが出来るようになる。現在でも数は少ないが、電力盗難などのセキュリティ上の問題改善にも役立つであろう。
従来の積算電力計は、機器の構造上の問題として、経年劣化によって、円盤の回転速度にムラが起こり、計量値が少なくなるという可能性があった。勿論、経過年数による機器の取り替えは行われている。漏電の問題は定期的な検査員の訪問を余儀なくされるが、スマートメーターに変わると、それについても把握が容易になる。つまり各家庭内の状況が明確になるが、反面、プライバシーの問題も内在していることになるので、導入においてはデメリットとなる点について、慎重に行う必要がある。
現在はソーラー発電や風力発電など自然エネルギーを利用した発電が個人でも可能となった。余分な電力を売電することも出来るが、そう簡単ではない。電力会社が設置する配電システムとは別ルートが必要で、個人で勝手に燃料電池やソーラー発電から得られた電力を利用するには電力量に制限がある。配電・売電ルートを一体化して、スマートメーターがその機能を果たすことが出来れば、家庭での効率的な電力利用が可能となる。
クリーンなエネルギーが家庭でもコントロール可能な時代は目前であるが、自然エネルギーだけに頼ることも限界があり、例えば、ソーラー発電は、雨天や曇天、夜間は発電が出来ないし、風力も風がないときは発電しない、既に出来上がったシステムは、インフラ企業の法的な保護もあるため、それらを含めた転換が求められているのであろう。
人生の三分の一は睡眠といわれる。脳の一部は活動していても意識は失われている。夢を見ていることや疲れた身体を再活性にするための構築を行っているようである。ベッドが主流となっても敷き布団や掛け布団は使っている内に綿が容積を減らし、打ち直しが必要になる。最近は打ち直す必要がない羊毛布団や羽布団が多くなっているが、畳の生活では敷き布団や掛け布団は綿が用いられている。
布団を軽くするために、合成繊維(化繊)が用いられているが、純綿は打ち直すことによって本来のフカフカの布団に再生できる。布団の打ち直しを生業にしている業者は生活の欧米化が進み、打ち直してでも再利用するニーズが減ったことで多くの業者が廃業に追い込まれていて、何れは消滅するかも知れない。
布団の打ち直しは、綿を包んでいる布を取り去り、綿の繊維の間に空気を送り、綿をほぐしながら布団作りに必要な幅と厚みを持ったパーツにしする。パーツを布団の原形に敷き詰め、それを真綿で包み、木綿等で縫い上げた袋状の側に収め、外側から数カ所を仕付け糸で綴じる。結構手間が居るが、作業中は綿の繊維が浮遊するため、マスク等で防塵しながらの作業を行っている。布団の打ち直しでは、化繊の綿は再生が効かないようで、どうしても純綿を追加しなければ成らないが、古い2枚の掛け団から1枚の新しい敷き布団が、また、1枚の敷き布団からは1枚の敷き布団が出来上がる。
布団の打ち直しまでは業者に頼んでも、打ち直した綿を使っての布団作りは、古くは主婦の重要な仕事でもあった。自分の母親も冬に向けて今頃の時期に布団作りを行っていた。
自分は真綿を布団屋に買いに行った。手の平より大きいぐらいの大きさで、数枚重ねて売っていた。それを広げる手伝いをしたものである。布団屋でも真綿を売っているかまではチェックしていないが、真綿を購入するにも売っている店があるかどうか定かではない。
孫が誕生したときに、おむつを替えるための敷き布団を女房が布団屋に頼んで作ってもらいプレゼントした。その後、子供用ベッドに合わせ、敷き布団を、今度は打ち直しで新しい布団が出来上がった。布団の大きさで孫の成長がよく分かる。
北の国では布団乾燥機が必需品といわれる。布団が吸い込む汗の料は一晩にコップ一杯といわれているが、室内の湿度が高くなるこれからの時期であるが、たかが布団されど布団で、毎日の生活でさほど意識していない必需品にも目を向けることが大切である。
今回の講義は「水しか出さない発電装置、スペースシャトルの電源技術が身近にというサブタイトルで、東芝燃料電池システム(株)技師長 松田氏から、パワーポイントを使った講義で、1.燃料電池の原理・種類、開発の歴史 2.燃料電池の簡単な実験 3.燃料電池の構造とエネファームの仕組み 4.エネファームへの期待と展開状況 5.エネファームの技術動向 6.水素社会に向けた動き の6項目について90分間の説明が行われた。
原理については、中学の化学実験で学ぶ、水の電気分解によって、水素と酸素が発生することは誰もご存じであるが、この逆を行うことによって、酸素と水素を化学反応させて電気と水を取り出す仕組みである。1800年代に英国のデービー卿が燃料電池の可能性について発表したことが発端となった。1968年にアポロ計画によって、月での有人探査が行われ、探査機に燃料電池が搭載された。その後発展を続けるが、2009年には我が国でも家庭用燃料電池商用化が開始された。
燃料電池が必要であることは、病院における災害時非常用電源として、家庭用では停電時における必要最小限の電源確保などによる。最近では燃料電池車が誕生している。燃料に水素を使い、燃料電池と二次電源(バッテリー)を併用した乗用車やバスが利用可能となっている。携帯電話向けの燃料電池、パソコン向け等も実用化に向け開発中とのことであった。
燃料電池の種類には4形態があり、固体酸化物形、溶融炭酸塩形、リン酸形、固体高分子形である。発電量は固体酸化物形が多く、固体高分子形は300kW程度である。固体高分子型燃料電池の構造の説明があった。水素と空気中の酸素を、電解質膜を通して触媒に白金を使うと、熱と電力が取り出せる。エネファームという定置用の燃料電池システムが、国ベースで誕生し、東芝は大阪ガスと、パナソニックは東京ガスとの共同研究によって製品化している。
原子力発電が停止中又は廃炉となり、現在稼働しているところは僅かであるが、使用済み燃料の貯蔵が問題となるなか、代替えエネルギーの模索が続いている。自然エネルギーの風力や太陽光発電には、継続的な電力供給が出来ない、地熱、波動等もパーフェクトとは言えず、火力と燃料電池を併用することが将来的に見ても可能性が高いとの分析である。
とはいえ、家庭での導入コストが高いなどの問題もあり、更なる研究によって発電効率を高める等、水素の利用がどうなるか注目していきたい。
平成26年10月9日
川崎市民アカデミー、コース名 企業連携、「地域社会に貢献している川崎の会社と人々」本日開講です。来年1月22日までの間で10回の講座が行われます。現地でのフィールドワークは2回予定され、羽田の物流と北部市場の見学です。他の講座は座学で、武蔵小杉にある川崎市生涯学習プラザで行われます。
パンフレットからこのコースの概要を引用すると「川崎は京浜工業地帯の中核都市として、日本経済を牽引してきました。また、モノづくり企業、先端技術の開発・研究機関を多く抱える元気な都市です。川崎を中心とした企業・団体の方々から製造、環境、まちづくり等を学び、明るい未来を展望します。」
初回は燃料電池について東芝燃料電池システム(株)の講義がありました。別稿で詳細についてはお知らせするつもりでいます。生涯学習プラザの4階会議室に集合した受講者は前期とほぼ同数で70名でした。殆どが高齢者で、女性も多く参加しています。初回は主催者である財団の理事からの挨拶があり、事務局から企画・運営を委託された市民アカデミーの職員が紹介されました。この他事務の手伝いは参加者から募り、ボランティアで、現地でのフィールドワーク時に協力することになっています。
高齢者が私を含め、参加していることは、学習意欲が高く、その熱心さに負けてはいられないという思いが湧いてきます。先入観として、自宅に引きこもりがちな高齢者が多いと思っていましたが、高齢者が社会参加されていないなどとは裏腹で、そのような感じは一切無いため、参加者が多いことでも十分分かります。前職は技術者ばかりではないことを前期に参加してよく分かりました。
最先端の講座を直接受講することは、世の中の動きに対し決して後ろ向きではないし、自宅にいては決して経験できない緊張感や新たに知ることによる喜びは高年齢であっても興味の対象であり続け、知識習得に対し、貪欲であることの証明でもあります。精神の健康が如何に大切であるか講座に参加してよく分かりました。健康で、後期の講座にも総て参加したいと思っています。
技術と技能は、同意語のような使い方をしているが、本来は異なる世界であり、違う物とした方が、理解しやすい。最近のスマホなどの電子機器の使用については、技術と技能とが混在していて、明確に区分することは難しくなっている。機体自身は技術の賜であり、それを操作することは技能の分野であるが、物作りという観点からすると、スマホで文章や写真撮影するなどが技能的と言われる範疇にはいるかも知れない。指の操作で変換キーを押すことや、画面をめくる操作は技能の分野といっても良い。
技能は本来、生活に必要とする道具を使って、目的にあった物を作ることに重点を置いているが、繰り返しによって、作業を体に覚え込ませ、感覚を使って完成品に仕上げるようなイメージであるが、遮二無二区分することもないような職種も多い。この区分の話は各説があり、今回は深くは入らないが、社会の動勢にも影響して、職種間の併合や、陳腐化した技術や技能等の内容が変化していることは疑う余地はない。
知識は一般的に言えば、体系的に教えることが教える側にとっても学ぶ側にとっても分かりやすく整理しやすい。易しい方から難しい方へ段階的に教えることになっている。しかし、学ぶ側の興味からすると必要な知識を習得すればよいが、個別指導ではないので、設定されたカリキュラムに従う方法を取っている。また、体系的に教えることは学力の平均化に役に立つが、必要でないことも教えることからすると、合理的ではないといえる。
例えば因数分解を苦労して学んでも、一生の内でどれだけ必要で、何に応用できるかと言えば、知らなくても良いのかも知れない。だが、初心者が自分の将来を見据えて何が必要かの選択は不可能であり、因数分解も人生を歩んだ結果として分かるもので、あてがい扶持の公的教育が必ずしも悪いわけではない。
電子機器の登場は、従来の生活を大幅に変化させた革命的存在である。パソコンや、タブレット端末などのインターネットが知識の疑問を取り去り、検索キーを押すことによって、豊富な世界へ導いてくれる。これだけでも従来の教育方法では限界があった事柄に対し、教師の代役を果たしてくれている。教える側、学ぶ側双方において、学習の仕方が変わるのは当然であろう。
コンピュータを利用して、自学自習が出来る教材もあり、導入当初は、回答を一つに絞る、いわゆるシーケンシャルな問題解決ツールとして考えられたが、これでは限界もあるので、応用力が付きにくい。最近は人工知能が導入され、難解な事象についても、初期条件を変えれば、それに応じた広がりを持った考え方などに行き着くし、多機能化している。
蓄積されたデータを検索し、必要な内容に行き着くにはそれなりの努力がいるが、若い内から、どうすればそこにたどり着けるのか、何不自由のない生活の中からハングリー性を求め、努力や挑戦を行う原動力の機会(インセンティブ)は何であるのか、それぞれの時代が求める生き方を発見することの困難性を誰がどう教授するのか等、憂いは常につきまとう。