鳥!連続写真!掲載中!

近くの多摩川に飛来する野鳥の連続写真を中心に、日頃感じた出来事を気ままな随想でご紹介し、読者双方との情報を共有したい。

赴任

2015年04月08日 00時00分01秒 | マニュアル

 新入社員が意外と不安に感じるのは、赴任時の準備であろう。どのような展開が予想されるのかが判らないからである。まして、住居移転を伴う新任地であればなおさらである。慣れ親しんだ場所においても、企業なり、新たな組織であれば、学生生活とは異なることが多い。内定した段階で、事前のオリエンテーションがあれば、概略は掴むことが出来るが、初出勤後にオリエンテーションを行う、公官庁や企業も多い。異動が多い職場では、前任者も異動でいない場合もある。また、新人職員研修を、数週間かけて行うこともある。

 

 さて、自らの例であるが、入社日には所属長や人事部から辞令が交付される。本部等で一括して入社式を行い、数日間は本部勤務となり、その後配属先に赴任するという形であった。最近では、内定時に配属先が決まるのであるが、辞令を貰うまでは、あくまでも内定であり、決定ではない。なぜならば、内定日から入社時までに出勤できない特殊な事情が発生する可能性があるからで、自己都合だけでなく、赴任地が変わる場合もあるからである。

 

 赴任地が決まれば、赴任先へ電報を打つことをしていた。内容は施設長・所属長宛に「貴下(部・課)勤務を命ぜられ、よろしくお願いしたい云々」であった。事務を取り扱う部署へは電話で赴任日時、当面の行事の予定日、前任者との引き継ぎ、必要ならば住居の手配等について打ち合わせを行う。赴任期間は辞令交付後1週間であった。

 

 赴任時に行うことは、辞令を持って、所属長への挨拶、関係部署への挨拶回りを行う。辞令を差し出し、配属部・課等を確認して貰う。通常先輩や、直属の上司が引率してくれるので、挨拶順序通りに挨拶を行う。事務方には様々な手続きがあるので、時間を取って相手の都合を考慮する。先ずは個人の手続きである。個人用のロッカー、名刺、IDカード、事務用品、出勤簿、各種届様式、カギ類等については当日配布を受け、必要な届け出書類の記入を済ませる。

 

 前任者との引き継ぎは、同じ部署であれば問題ないが、退職や、転勤していれば、相手の都合を確認し、別途行う。引き継ぎ日に日数を要するのであれば、決裁文章等、関係書類や、稟議書(原議書)の場所を上司から教えて貰う。幾ら新人とはいえ、知らない、判らないは禁句である。部外者は新人であろうがその担当者で有れば、赴任した時点で、完璧とはいえなくても、業務を精通していると見られ、責任が生じるからである。

 

 施設外の関係機関への挨拶回りは上司の指示を仰ぎ、電話連絡をして、アポイントを取った後、出向く。出来れば上司や先輩と同行することをお進めしたい。


出向と転籍

2015年04月07日 00時00分01秒 | 紹介

 年度変わりとなり、4月1日付けで、新たな職場へ出向や転籍の辞令を受け取った方も多いと思う。自分も38年間の勤務であったが、現職の時に転籍はなかった。13回の転勤を行い、そのうち2回は関係する団体へ出向した。平均すると3年に1度は異なる職場であった。受け持った仕事も毎回異なる内容であった。同僚と比べると多い方であるが、自分よりも異動回数が多い者もいた。3000人規模の組織であったが、職員の人事を担当する部署がいかに大変であったか、今になってよく分かる。

 

 大企業で多く見られる所属企業外への人事異動の方法が、出向・転籍である。主として中高年齢層の余剰人員対策として用いられる場合もある。出向とは、これまでに在籍していた異動元企業、多くは親会社であるが、そこに籍を置きながら、休職して、異動先企業、多くは子会社・関連会社の使用者の指揮、命令に従って、仕事に従事することである。

 

 異動元企業と異動先企業の双方で、雇用関係ができ、結果的に考えると二重契約が発生する。定年退職後に関連会社へ転出する場合は出向といわない。一方転籍は、異動元企業を退職し、異動先企業と新たに雇用関係を結ぶことになる。転籍であっても、異動先企業での就業年数が決められ、その満期がくれば異動元企業への復職となる場合には、実質的に出向と変わりがない。どちらにせよ、雇用契約の変更が生じるため、事前に、本人の承諾が必要である。

 

 人事は企業で一定ではないが、人事異動を希望する現況調査や希望調書が事前に配布され、本人の希望が表明されるのが普通である。そうはいっても必ずしも希望通りには行かないが、高齢者の介護や、通勤に時間が掛かりすぎる場合などは、人事部門で考慮されるであろう。そのほか、人事異動に合理性がない場合、業務上の必要性を欠く場合、復帰が予定されない場合、労働組合との出向協定に定められた手続きに違反する場合などは、出向や転籍を拒否できる場合があるため、人事部門と十分相談する必要があり、出向や、転籍命令が権利の乱用となれば、無効になる。

 

 特に、最近の傾向として、生産部門が海外に移転している場合が多く、子会社や関連企業の経営や技術指導を行う必要性が高くなっている。また、従業員の能力開発やキャリア形成のための人事異動もあるので、出向や転籍の意図についても明らかにした方がよい。


樺細工

2015年04月06日 00時00分01秒 | 紹介

 山桜の皮を加工して装飾性を持たせた民芸品である。秋田県角館の名品であり、桜の皮を張り付ける製品は世界的にも珍しいとのことであり、日用品では、茶筒や角盆、硯箱などの箱物に利用されている。机やタンスなどの大形製品もあるが、多くは小物である。元々は、困窮武士の手内職として、地元で採れる山桜の皮を剥いで、乾燥させ、煙草・きせる入れや、刀の鞘の装飾等に用いていた。最近では引き出物に利用されているが、剥いだ皮を重ねて彫刻し、漆で仕上げたペンダントやループタイなどへの工芸もある。

 

 桜の皮を用いているのに何故、樺(かば)というかというと、古くからサクラのことを樺桜と呼んでいたのに由来している。源氏物語にもその記述があるようである。既に、秋田県の山桜の皮は採取し尽くしていて、近隣県からの供給でまかなっているそうで、植栽も行われていると聞いている。

 

 一時、戦争等で職人が居なくなり、「工芸文化」「手仕事の日本」等の著者であった柳宗悦が伝統文化を守るために東京の自宅を研修場所として、樺細工の重要性を説き、職人の養成を行ったそうで、これによって、現在まで技術が伝承されている。樺細工は型ものと板ものに分けられる。装飾用に貼り付ける山桜の外皮が出来映えに影響する。

 

 表面の模様は自然に形作られるため、同じ物が二つと出来ない。外皮には汚れや凹凸があり、如何に平坦で美しい模様がでるかが最大の加工となる。後は意匠的に外皮を組み合わせ、加温した膠で貼り付ける。仕上げは、木賊(とくさ)磨きや、砥の粉で胴刷りを行う。磨き上げると深い光沢を発するようになり、桜の皮とは思えない優雅さがある。

 

 伝統工芸品は我が国のそれぞれの地域で、独特の進化を続けてきた。後継者問題もあるが、素材の良さや、丁寧に扱うことによって、生涯使えるものも多い。その制作には、多くの時間と手間を必要とし、製品の付加価値は高いのであるが、その分価格が高くなる。日常生活の中で、誰しも使うかというと、残念ながら、他の製品で代用が効くため、購入者が限定されてくる。ここら辺が解決しないと後継者問題も解決されず、負のスパイラルとなって、何れは博物館入りとなり、伝統が継続しない運命を持ち合わせていると言える。

 

 ニーズがあってこその製品制作であり、大量消費化へ向かうか、工芸美術品としての価値を高めるかの選択が常につきまとう。世の中の動向と多くの方へ周知するという情報戦略があって、始めて、地場産業の継続と伝統が維持できるのである。


花いかだ

2015年04月05日 00時00分01秒 | 紹介

 水面に浮かぶ桜の花びらが流れる様子を筏にたとえて、花いかだというらしい。俳句の春を表す季語に使われる。桜吹雪といえば、散る様を雪にたとえて呼んでいるが、何とも奥ゆかしい言葉ではある。散った桜を愛でる風情は、絵になるし、華やかに咲いた後でも一面に広がる花びらの絨毯は、それも美しいものである。筏とは花びらが連なって、木材等をつなぎ合わせて運ぶ様子に重ね合わせた先人の風流を感じさせる。

 

 物の本によると、花いかだの語源は、骨壺を筏状に編んで、川や海に流して死者を弔ったとされ、骨壺を結んでいたひもが切れると灰が水面に浮かび、浄土とやらへ向かう様子であったという。江戸時代以前の話であるが、死者の灰をまくというのは、ヒンズー教でインドのガンジス川で現在でも行われている埋葬方法の一つである。我が国での埋葬は、火葬であり、法律で決まっていて、焼却後は埋葬許可証なるものが交付される。それを持って、墓地管理事務所へ届け出る。

 

 花いかだといえば、低木で、公園等に植えられているモチノキ目落葉樹がある。のこぎり状の葉の上に花を咲かせる木であり、不思議な木である。花をつける組織が葉に移動したと考えられている。

 

 筏師という職業がある。筏を操る人であるが、木場には筏を操る妙技が受け継がれている。竿を持って、バランスをとりながら丸太を回転させるというものである。将に曲芸の分野にはいる。粋を生き甲斐とする筏師は、今の時代ではいずれ廃れてしまうのであろうか?木材を切り出し、急峻な川を筏に乗って下り、貯木場まで運ぶ仕事であった。交通網が発達していない山間部での仕事であったわけで、現在では考えられないであろう。

 

 筏師が必要なくなったのは、河川にはダムができ、運搬はもっぱらトラックで運んでいて、木材の加工場も、山間部にある。筏師の仕事がなくなったためである。もっとも、多くの山林を抱えている我が国であっても、切り出しに人手がかかり、人件費も高いため、多くの木材は輸入に頼ってきた。今後は国内の消費は、国内で供給できれば、林業も活発化すると思われる。山師といわれる職業にも女性の活躍が話題になってきている。伐採や運搬等が機械化されれば、女性が働ける分野も広がると思う。

 

 話は飛んでしまったが、眠っている山林が生き返るための知恵が必要になってきているといえる。


騒音続編

2015年04月04日 00時00分01秒 | 提言

 知事選挙が始まる。選挙カーで、住宅地を名前の連呼で走り回る選挙戦は、何とかならないものか、廃品回収業・竿竹売りは相変わらず安売りの宣伝カーのスピーカー音量を上げてゆっくりとしたスピード動き回る。救急車、消防車、パトカーからの音量も必要以上に大きい。頭上ではヘリコプター、自衛隊のジェット輸送機等々、家の中では、勧誘の電話がひっきりなしに鳴る。合わせて、宗教の勧誘、家屋の塗り替え、果ては墓所やセレモニーホール等、電話も度を超すと電話にでることすら億劫になる。生活の場は、騒音で満ちあふれている。

 

 最近話題となっている騒音被害の中に、保育施設建設を拒む住民の反対運動がある。働く世帯の多くが、共稼ぎとなり、子供の保育を施設に預けるため、施設の入所希望者が多くなったためである。行政も規制を緩和し、住宅地であっても、業者が運営できるようになっているが、閑静であった住宅地に突然保育施設が出来るとなると、生活環境が一変し、子供が発する音が騒音となるためである。住宅密集地では、送り迎をする自家用車に対する騒音や、危険性が増す。子供が走り回る音も違和感として嫌われる。

 

 昨年、東京都条例で、保育所と接する住居との境界での騒音を45デシベル以下とした。この条例には少子化の中、保育への理解を深める一方で、、保育施設を騒音発生源とした。待機児童がいる家庭からは、子供を対象から外すような動きがある。子供を預ける側と、運営する企業等と、住民との話し合いの場を設け、双方納得のいく環境整備が求められるが、防音装置の設置だけでは解決しない住民の安全など担保しなければならない状況も生まれている。保育施設建築の用地は確保しても、住民の反対運動にあって、開設できない施設も多くあるという。

 

 高齢化が進み、難聴の人が増え、補聴器の性能も関係するようであるが、子供が発する高音域の音声は、耐えられない苦痛となる人もいるようで、我慢するだけでは済まされないようである。一方では、敷地が広い寺や神社に併設される場合もあるが、すでにそのような場所は少なく、住宅地以外に少ない土地を活用できないかの模索が始まっている。総じて、流入が続く都市部では保育所建設は難しくなってきている。

 

 2017年をピークとなる待機児童が解消されれば、後は少子化が進むため、新設の保育施設は減少する傾向となるとの見通しであり、業者もこの業界への参入を躊躇うこととなるであろう。ここ数年の動きを注視する必要もある。


教育者の罪

2015年04月03日 00時00分01秒 | 提言

 最近の動向を見ると、教育改革を巡る動きについての試みが展開し始めている。一方では、少子化による入学者の減少問題が学校経営難となって表面化し始め、景気の停滞感が払拭され、景気上向きを見据えた就職率の向上、求人倍率の上昇傾向等が見え始めている。一時の行き詰まり感は、影を潜めつつあるが、少子化の傾向と、ミスマッチによる就職後の不適応現象は根本的な問題解決には至っていないため、これから表面化する。現在の状況は、軌道に乗ったとまではいえない状況にある。就職率の改善によって、大学等の教育改革にとってブレーキとならないようにしなければならない。

 

 産業界が求める労働力は質の高い労働力である。新卒の新入社員は果たして産業界が求める質の高さを潜在力として持っているかが問われることになる。学校教育が現在までに行ってきた制度のほころびは既に顕在化していて、大学を出たが就職できない状況は、そのことを物語っている。大学が抱えている問題は、資金不足、教員の資質、大学組織と戦略性などであり、大学の存在と目的が、我が国の経済、社会に対する影響力の低下を指摘されて久しい。

 

 新入社員の質だけに目を向けることだけで、産業の活力を取り戻すことが出来るわけではなく、大学を卒業した者を能力がないからといって、大学へ戻すわけにはいかない。大学を出て、運良く就職できたとしても、社会人としての潜在能力すら短時間で構築することは不可能である。能力がなければ、必要な能力を自前で教える良い機会でもある。また、教えないで新入社員自らが自学自習できると思うことは考えない方がよい。武器も持たずに戦場へ送り出すようなもので、傷ついて戻ればよい方で、社名を汚し、契約破棄など世間は決して甘いものではない。つまり、新人の教育訓練体制がなければ企業の存亡に拍車をかけるだけである。

 

 何故そのような卒業生を生んできたかの答えとしていえることは、学校教育の根幹をなす教員の資質に問題の大半があることである。教員は企業の倫理を知る立場にはなく、企業人育成を最終の仕上がり像としていないため、何ら教えることが出来ないのである。更に、決して自らの能力の100%は教えない。精々8割教えればよいとしていて、自らより秀でる学生を排除する傾向にあるからだ。出藍の誉れなど到底考えられず、出る釘を打つ仕事をしてきたからである。グローバル化は言葉だけで、役に立たない自己の古い専門性を後生大事にし、己の保身で教育現場を蹂躙してきた。自らが矢面には立たず、風向きが収まるまでのたこつぼ戦略は多いに教育現場を駄目にしてきた原因であろう。


瀧廉太郎と暘谷城

2015年04月02日 00時00分01秒 | 旅行

 荒城の月で有名な瀧廉太郎は明治12年東京で生まれ、23歳10ヶ月の若さで逝去するが、遺骨は、大分市の万寿寺に葬られたが、平成23年に、瀧家の墓所がある大分県速見郡日出町の龍泉寺に移設されている。

 

 瀧廉太郎の一族は、11代、260年に亘って、日出藩に仕えている。日出藩は、関ヶ原合戦後の慶長6年(1601年)、豊臣秀吉の正室ねねの甥に当たる木下信俊に日出藩を与え、築いた日出城を中心とした城下町を形成していた。既に城は取り壊され、城跡となっていて現在は小学校がその地にある。城は別名暘谷(ようこく)城といっていた。

 

 瀧廉太郎の一族が日出藩に対して行った貢献については割愛するが、廉太郎の父の生家が暘谷城内にあったことは生家跡があるので間違えないことである。瀧廉太郎が、父親の生家や、墓所へ参ったのは自然であり、暘谷城についても当然知っていたと思われる(日出の人 楽聖 瀧廉太郎パンフレットより引用)。

 

 竹田市にある岡城趾が、荒城の月の舞台であったと記憶しているが、日出町のガイドマップを見ると、日出町にゆかりがあるとしている。父親の吉弘は役人で、大分郡の郡長や、直入郡長を務めていた、廉太郎は竹田市から東京音楽学校に入学した。そうであれば、岡城趾に廉太郎の銅像が建っているのも納得がいく。日出町が町おこしのために瀧廉太郎と暘谷城とを結びつけることについての明確な証拠はない。暘谷城との関連は岡城趾とダブルところはあっても、既に無くなってしまった本人、瀧廉太郎の作曲に至る世界が再現できるわけではない。

 

 日出町観光協会が今後、十分な根拠となる史実を明確にされることを望んでいるが、喩え、想像の世界と断ったとしても、紙面に表示されると真実ぽくなって、一人歩きしやすい。

 

 日出町とフランシスコザビエルとの関係は、当時、山口にいたザビエルが、大友宗麟の招きで暘谷城近くの青柳港から大分に向かった記録がある。馬上金山の採掘で財を成した成清博愛の愛妾宅が暘谷城内にある的山荘である。歴史の真実は闇であるが、日出町には歴史研究の対象としておもしろい場所である。


騒音

2015年04月01日 00時00分01秒 | 提言

 音は音楽といえども、一定の音量以上になると騒音として、他人に迷惑がかかる。日中であればよいとはいえない。日中であろうとも夜間に働く者にとっては睡眠時間に重なる場合があるからである。我慢できない限度を恕限度(じょげんど)というが、人体に害を与えるような条件の限度のことで、保健上有害物質などの限度である。騒音の場合はデシベルで表される。

 

 深夜に改造したバイクで走り回る若者が少なくなったとはいえ、全くないわけではない。困ったものであるが、取り締まる警察官も苦労しているようである。夜間の静かなときの爆音は長時間ではないにしても、驚いて目が覚める。スピードを出して通り過ぎるため、測定や取り締まりも難しい。

 

 日中は幹線道路沿いの家屋では、騒音と共に震動の被害もあり、高速道路のように防音壁を設置するまでには至っていない。飛行場の近くではジェット機やヘリコプターの騒音が問題となり、深夜の発着を制限しているが、飛行ルートの下に家屋が有れば二重窓にするなど基準に当てはまれば手当てしてもらえる。隣家でのピアノの音で事件が起きたり、階上の足音で問題が起きたりする場合もあり、生活している以上全く音を出さないことは難しい。しかし、不要な音は出さないよう気を付けることも大切であろう。

 

 多摩沿線道路沿いに中学校があり、そこのブラスバンド部が、近日行われる発表会のための練習を河川敷で行っていた。川は堤防があるために、音が減衰しやすいのであろう。晴天であれば、練習にはもってこいの場所と思われる。土日ともなれば、サキソフォンの練習や、トランペットの練習をしている方を見かける。自宅での練習は近所迷惑になると考えて多摩川を利用するのであろう。これによるトラブルは聞いたことはないが、一時はモトクロスを行う若者が大勢来ていたが、近隣の住民からの投書で騒音発生の問題になったため、管理している国土交通省の方で、禁止にしたようである。

 

 騒音の発生で、目くじらを立てるつもりはないが、多くの人が集う場所でもあり、中には靜かに読書をしている人もいる。最近は専用の防音装置を完備したスタジオ業が場所を提供している。他人に迷惑がかかることは慎むことも大切で、常態化することによる不満やストレスの発生が起きないように、我慢の範囲にあり、常識の範囲で行って欲しい。